第57話 ハンドサイン

 夕暮れ後のハンバーガーショップ。

 駐輪場で各々のカブに跨った小熊と南海は、エンジンを始動させて幹線道路に出た。

 とりあえず小熊が先行した。普段よりだいぶ抑え目のスピードでハンターカブをを走らせる小熊に、南海のカブC一二五は無理なくついてくる。

 通勤ラッシュの時間は終わったがまだ混んでいる都下の幹線道路を、他車の流れに合わせた速度で走りつつ、不自然に遅い車は充分な距離を取って追い抜く。この速度で走っていれば、小熊と南海の間に他の車が入ってきたとしても、そのまま流れに乗った速度を守って巡行していれば無理なく追いつくことが出来る。

 南海は小熊のすぐ後ろに来ても横並びにはならない。バイクに乗り慣れていくに従って覚えていく複数台走行のマナーを、南海は誰にも習う事なくバイクや道路の構造を把握した段階で難なく理解している。


 幹線道路でもこの辺は南海の自宅に近く、親の車やバス、あるいは徒歩で見慣れた道路。小熊はカブが南海の生活圏から離れたあたりでスピードを落とし、南海に先行させた。

 個々の技量やバイクの性能に差があるツーリングイベントなどでは、初心者や低速車を前に出し、上級者や高性能車はそのペースに合わせて後方を走るのが定石。そういう理由だけでなく、ただカブに乗る南海の背中を見てみたくなった。

 南海は魚群の中を泳ぐ魚のように、道路を流れる車やバイクの中に自分自身を溶け込ませながら、幹線道路の左右に並ぶロードサイド店舗の灯りを眺めていた。ヘルメットの動きを見る限り危険なわき見運転をしない範囲で風景を楽しんでいる様子。

 徒歩でこんな人の営みが可視化されたような夜景を見る事を趣味としている南海は、バイクでもそれに似た事が出来ると思ってくれたんだろうかと思っていると、信号待ちでカブを停めた南海が、ミラー越しに小熊を見た。


 南海は行先を決める事無く知らない道に来て、どこに行けばいいのか迷っている。その迷いがバイクの楽しみの一つになる事を、南海に知って欲しいと思った小熊は、身振りで直進を指示した。

 南海はヘルメットを頷かせ、交差点でカブを直進させる。

 信号のタイミングが悪いのか、速度制御のため意図的にそうしているのか、次の信号でもう一度止められた。南海が再び小熊をミラー越しに見たので、小熊は頭上の案内看板を指差し。指先で払うように真横に動かした後、左を指した。

 次の交差点で左折のサイン。ヘルメットを頷かせた走行を再開させた南海に通じたのか小熊は少し心配になったが、信号が青になり車が流れ出してすぐに、南海は片手を腰のあたりに持ってきて手を前に払うような仕草をする。

 小熊が高校のバイク仲間やバイク便のライダーと何度も交わした前後入れ替えのサイン。やはり南海は学ぶ必要のない類の人間。何気なく見た動画やバイク関連のネット記事、街で見かけるの他バイクを見た時の記憶、普通なら見た端から忘れてしまうような情報を必要に応じて取り出し、その情報を柔軟に応用する。


 小熊は南海のハンドサインに従って、自分のカブのアクセルを回し、南海のカブの前に滑り込ませた。

 小熊のハンターカブは南海のカブC一二五とほぼ同一のエンジンだが、小熊のカブはバイク便の仕事や私用で始終ブン回していうおかげで、高回転域に適応した摩耗が進んでいる。車やバイクの好きな人間が言うところの当たりが取れている状態。  ノロノロした走りによる不完全燃焼で燃焼室内や点火プラグに発生するカーボンは、小熊がしょっちゅう行う高回転走行で蓄積する間も無く綺麗に焼き尽くされている。

 真横をアクセル全開で追い抜いて行った小熊のカブを、南海は正確に、且つカブC一二五のエンジン出力を余すことなく使ってついてくる。自動車教習所の教官が重視するというメリハリの利いた走行が出来ている。

 きっと教習所で教官が教えてくれた事や教本の内容、他の教習者の動きから、自分自身が免許を取り公道に出てから必要になる情報を選別したんだろう。 

 小熊はミラー越しに南海の手元を見た。教習所では四本指をかけるように教えられるブレーキレバーを、南海はバイクが今よりだいぶ旧い形だった頃からさほどアップデートされていない教科書より実用的で制御性の高い二本指で握っていた。


 交差点に差しかかったところで、小熊は左折のサインをした後に左のウインカーを点滅させたが、南海はもう右折に備えてカブを車線の左側に寄せている。

 そのまま交差点を左折し、小熊と南海のカブは幹線都道から国道十六号線に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る