帰宅
壱原 一
昔この時季に一度だけ見て、良く覚えている夢があります。明るい川の土手道を歩いている夢です。
目線が低く、草や小石が細部まで見えます。土埃にくすんだ運動靴を履いています。剥き出しの手足は細く、日射の照り返しを眩しく感じています。
視界の左端が白っぽくちらついています。
全然気付いていませんが、後ろに居ると知っています。
左肩の後ろの上空で、四肢を垂らして揺られています。ちょうど頭の後ろ辺りに、脛があるくらいの高さです。拳ひとつ分の間を空けて、虚空から吊られている具合です。
全然気付いていませんが、見ずとも見えて分かっています。
浴衣を着ています。白地に朝顔の浴衣です。朝顔は藍色と桃色です。顔は深々と俯いて、万一見ても受け止められない表情を浮かべています。
たとえ死んでも受け止められない気持ちを抱えているからです。
それで俯いた顔の辺りは暗く翳っています。
全然気付いていませんが、分かっています。
途中で明るい土手を下り、か細い道を過ぎて、線路の下のトンネルを潜ると家です。
往時は羽振りの良かった家です。商いをしていた名残で、道路に面した一面が単板硝子の引き戸です。薄い硝子の真ん中に、金字で屋号が塗られています。
今は硝子戸の全面にカーテンが引かれています。
取っ手に指を掛けて硝子戸をガラガラと開けます。慣れたぞんざいな所作なので硝子がびりびり震えます。
日に焼けて埃染みたカーテンを体を横にしてすり抜けます。
硝子戸をガラガラと閉めます。
家です。
呼吸のために自然と鼻が屋内の空気を吸います。冷えた石と、湿気た木桶と、凝った酒粕のにおいがします。商いをしていた名残です。
家には窓がありません。ありますが塞がれています。商いをしていた名残の荷物が積み重ねられています。
背後の一面の硝子戸のカーテン越しの薄明りが、家で唯一の明かりです。
目の前は広い土間です。正面に土間の廊下が伸び、廊下の両側に座敷が並んでいます。
全ての座敷の障子が閉じられています。全ての座敷の上り口に沓脱石が据えられています。
全ての座敷の床が高く、土間と座敷の床の間に這い回れる隙間があります。いつでも土間を流せるよう、商いをしていた名残です。
正面の廊下の突き当りが一番よい座敷です。ずっと誰かが寝ています。
左手前の座敷だけ障子を開けて上がれます。
靴底で土間を擦って、左手前の座敷に向かいます。
運動靴を脱いで、座敷に上がり、振り返って屈みます。腕を伸ばして沓脱石に脱いだ運動靴を揃えます。
上半身を乗り出して、土間と座敷の床の隙間を覗き込む体勢です。土間と座敷の床の隙間が逆さまに見えます。
暗い隙間の奥の方でごそごそと動いていて、大きな犬だと思います。
逆さになった頭の前でも白い塊が揺られていて、それは浴衣ですが全然気付きません。
座敷には座布団と点けっぱなしのテレビだけあります。出入口以外の障子は、積み重ねられた荷物で塞がれています。
積み重ねられた荷物や、壁や天井を、テレビの画面が放つ光が照らしています。
座布団に座ってテレビを眺めます。
もう何も放送されていないのでザアザアと鳴っています。
突き当りの一番よい座敷から呻き声が聞こえます。土間と座敷の床の隙間で大きな犬が動いています。
俯いた視線の先に、テレビの光に照らされた畳が映ります。
畳の上に影があります。
野菜の切れ端のような爪先が揺られているのに気付きます。
白い生地に行き当たります。藍色と桃色の朝顔を辿ります。
胸元に影が落ちています。深く俯いた顔の影です。
影の奥で顎先が少し上がり、気付いたと分かります。
ただいま。
おかえりなさい。
帰ってきたと分かります。
*
蒸発した片親は日頃の素行ゆえに長らく少しも捜されませんでした。
けれど修学旅行から帰った我が子に同じ夢の話を聞かされて、出奔した故郷との因縁を断ち切ろうと抗ってくれていたのかも知れません。
発見場所の住所を迂闊に調べたのは一生の不覚です。タップして現れた画像を見て、どうしてか笑ってしまいました。
すでに最後の1人なので、何代前が何をしたのか知る手掛かりさえありません。
でも分かります。たとえ身内の血だろうと末代の端に至るまで根絶やしにするつもりです。
金字と同じ苗字です。たぶん今でも寝ています。あれは犬ではありません。
剥き出しの細い手足で、細い細い手足で、漸く座敷を抜け出して迎えに行ったと思います。
明るい土手の帰り道を、一緒に帰ったと思います。
それは嬉しかったでしょう。
決して赦せないでしょう。
家です。中で待っています。
久し振りに夢を見ました。
帰宅しなければなりません。
終.
帰宅 壱原 一 @Hajime1HARA
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