第9話 鴛鴦にも齟齬




「おはざーっす」


Glaceグラース】の扉を開けて中に入る。五日ぶりの出勤だが、店内には相変わらず精霊たちがふよふよと漂っている。この不可思議な光景になんだか落ち着きを覚えてしまっている俺は、だいぶ染まってきているかもしれない。


栄路えいじくん、おはよう」


 カウンターの奥から海涼さんが出てきた。5日ぶりの海涼みすずさんの姿を見て、なぜかはわからないが安心する自分がいた。


「お盆休み、ゆっくり休めた?」

「あ、はい。おかげさまで」


 俺は手に持っていた紙袋を海涼さんに差し出す。


「これ、お土産です。よかったら食べてください」

「わぁ、わざわざありがとう」


 嬉しそうに受け取ってくれた紙袋の中身は地元のお土産だ。地元にしかない老舗菓子店で買ったもので、謙遜ではなくそんなに大したものではないが、海涼さんは大層喜んでくれた。ここまで喜んでくれるなら持ってきてよかったな。


「ごめんね。私は特に何も用意できてなくって」

「いやいや、全然いいですよ。いつもお世話になってるんで、そのお礼っていうか。だから、気にしないでください」


 そう言うと、もう一度ありがとうと言ってくれた海涼さんだったが、ふいに俺の顔をじっと見つめてきた。俺はたじろいで思わず半歩下がる。


「な、なんですか?」

「なんだか、お休み前よりも表情が明るくなったなって思って」


 本当にさすがというべきか、海涼さんの目は誤魔化せないか。いや、別に隠す気など最初からないし、なんならちゃんと話そうと思っていたことだ。


「海涼さん、俺、地元の友達と会ってきました」


 そう言って、お盆にあったことをざっと話した。


「そう、お友達ときちんと話せたのね。よかった」


 話終えると、海涼さんがほっと息をついた。我がことのように安堵してくれているのがわかり、俺は若干申し訳なくなった。


「すみません、なんか、心配かけちゃってたみたいで」

「ううん、気にしないで。話してくれてありがとう」


 ふるふると首を振った海涼さんは、でもと言葉を続けた。


「だいぶスッキリした顔してるけど、まだ、完全ではなさそうね」

「え……」


 鋭いところをつかれ、どくんと心臓が跳ねた。海涼さんの言うとおり、俺にはまだ、解消していない疑問というか心残りがあった。あれからずっと考えているが答えは見つかっていない。いくら考えても、これといったものがまるで見えてこないのだ。


 少し言い澱んだ俺だったが、恥を承知で海涼さんに話してみることにした。


「……友達と妹に、こう言われたんです」


 ――その子と付き合ってて、お前は楽しかったか?


 ――兄ちゃんって、今何が楽しいの?


「いくら考えても、なんかしっくりくる答えが出ないんです。どうやったら答え見つかるのかなって……」


 俺が力なくこぼすと、海涼さんは眉を下げて首を振った。


「ごめんね、力になってあげたいんだけど、私にも正解がわからないわ」


 それに、と海涼さんは静かな声音で言葉を繋げる。


「それは栄路くん自身で見つけないと駄目なことよ」

「……っ」


 いや、海涼さんの言うとおりだ。これは俺の問題なんだから、俺が自分で解決いないといけないことだ。


「でもね、ひとつだけ言えるのは、大事なのは自分としっかり向き合うことだと思うの」


 自分と向き合う。それ自体は俺もわかっていて、以前よりも逃げずに自分に向き合っているつもりだ。でも、まだ足りていない。俺にはまだ気づけていない何かがある、と海涼さんは言いたいようだ。


「焦っても、きっと答えは見つからないわ。じっくりと時間をかけて探してもいいんじゃないかしら」

「そう、ですね……」


 これだけ考えてもわからないのに、俺なんかに見つけられるだろうか、本当に。


 一瞬でもそう思ったのが声に滲み出てしまったのがわかった。思わず俯く俺の耳に、海涼さんの涼やかな声が忍び込んできた。


「――大丈夫。栄路くんなら、ちゃんと答えを見つけられる。私はそう信じてるわ」

「海涼さん……」


 海涼さんの言葉は柔らかいのに、どこか力強くて心に響く。おためごかしではなく、本心から言ってくれているのだと確信を持てる。


 きっと他の人に言われたのなら、俺は真剣に受け止めることはできなかったかもしれない。でも、海涼さんは違う。海涼さんは最初から俺自身を見て、俺を信じてくれていた。


 なら、俺を信じてくれる彼女の期待を裏切るわけにはいかない。諦めずに、きちんと答えを見つけよう。俺がまだ見えていないものが何なのかを。


「ありがとうございます。俺、ちゃんと考えます」


 意志を固めた俺がそう言うと、海涼さんは微笑みながらうんと頷いてくれた。






「――喜美江きみえさん、お待たせしました」

「ありがとうねぇ、海涼ちゃん」


 包み終えた商品を手に海涼さんが向かった先で、推定七十代の老婆がひとりテーブル席に座っていた。つい先ほど来店したお客さんである。


 【Glace】は一見若い女性向けの雑貨店だが、時々こうして老客もやってくる。それも、海涼さんの顔見知りということが多い。


 聞くところによると、このご高齢の客人はみな、先代店主である海涼さんのおばあさんの知り合いなのだそうだ。だから、海涼さんがまだ小さかったころから知っているため、気安い関係なのだという。


 海涼さんから購入品を受け取ったこの老婆もその例に漏れず、先代店主の頃から通ってくれているお得意さんのひとりだそうだ。俺がバイトし出してからすでに何回か来ており、毎回紅茶やお菓子を買っていく。


「ここは本当に気持ちが安らぐねぇ。海涼ちゃんが継いでくれて、ほんっとによかったよ」


 立ち上がりながらほけほけと笑う老婆は、店内をぐるりと見渡した。


「【Glace】には昔からお世話になってるからね。クリスさんがいた時から、ずっと」


 老婆が懐かしそうに目を細めた。クリスというのは、海涼さんのおばあさんの名前だ。本名はクリステルだが、周囲からはクリスという愛称で呼ばれていたのだと海涼さんからは聞いている。


「ここに来ると、悩みとか迷いが消えていく気がするの」


 不思議なもんだねぇ、という老婆の言葉にややドキッとする。老婆が言ったことは事実で、この精霊たちが力を貸した人の迷いは解消されている。


 精霊が見えなくても、普通の人でもわかるものなのか。もしくは、この人もまた精霊の祝福を受けたことがあったりするのだろうか。


「海涼さん、可愛がられてますね」


 老婆が帰って行ったあと、俺は海涼さんにそう言った。馴染みの老客に声をかけられるとき、海涼さんはいつも楽しそうに会話している。海涼さんが愛されているのが、見ているだけでも伝わってくるのだ。


 すると、海涼さんは珍しくも恥ずかしそうにはにかんだ。


「私が子どもの頃を知っているから、それでよくしてもらってるだけよ」

「よくここに出入りしてたんですか?」

「うん。小さいときはおばあちゃんにべったりでね、いつもついて回ってて、ここにも入り浸っていたの」


 子どもの頃の海涼さん、か。きっとそんな幼少のみぎりから利発的で可愛らしかったのだろう。そういう女の子を、お年寄りやなんかはお人形さんみたいだと評するのだったか。容易に想像ができる。


「おばあちゃんが店主だった時、ここはいつも笑顔で溢れていたの。だから、そんな場所を私は守りたいって思ったんだ」


 海涼さんが胸に手を当て、優しく静かに紡ぐ。


「【Glace】は、私の宝物なの」


 そう言った海涼さんがひどく眩しく見えた。宝物だと胸を張って言えるものがあるのは、正直羨ましい。俺にもいつか、そう言えるものができるだろうか。できたらいいな、と思わずにはいられなかった。






 本日の営業が終了し、閉店作業を終えた俺は店先に出ていた。帰り際、毎回海涼さんは自身も店先に出て見送りをしてくれる。それが嬉しくて、胸が温かくなる。この時間が、俺はけっこう好きだった。


「今日もお疲れ様、栄路くん」


 メルもその腕に抱えられて俺を見送ってくれる。去り際にフニャッと鳴いて片前脚を上げるのだ。本当に器用な猫である。


「──あら、海涼ちゃん」


 俺がお疲れさまでしたと返そうとした矢先、ふいに背後から声がかかった。


 振り返ると、少し離れた先に二つの人影が見えた。夏至をすぎたとはいえ、八月の十八時といえばまだ明るく、人の顔の判別もつく。六十代ぐらいの高齢の男女が近づいてくるのがわかった。


文子ふみこさん! こんばんは」


 その老婦人を見るや、海涼さんはぱっと顔を輝かせた。


「こんばんは。久しぶりね、元気だった?」

「はい。文子さんもお元気そうで何よりです」


 その人物と話す海涼さんの雰囲気がどこか違った。【Glace】に来る顔見知りの老人たちと話している時も楽しそうだが、いつにも増して嬉しそうに見えたのだ。このどこか気品のある老婦人は、俺は初めて見る顔だったが、例のごとく海涼さんのおばあさんの知り合いのようだ。


「海涼ちゃん、しばらく見ない間にまた美人さんになった?」

「もう、文子さんったら。最後に会ってからそんなに時間経ってないんだから、変わってませんよ」

「そんなことないわ。クリスさんにどんどん似ていってるわよ」


 老婦人の言葉に、海涼さんは照れながらも嬉しそうだった。そんな海涼さんが、文子さんの背後に目を向ける。


ひろしさんもこんばんは」


 海涼さんが声をかけたのは、老婦人より少し離れたところにいる男性だった。細身で若干腰が曲がってはいるが、眼光が鋭く厳めしい表情をしている。海涼さんの言葉に、男性はおうと、ぶっきらぼうに一言返すだけだった。


「あなた、ちゃんと挨拶してくださいな」

「…………」


 見たとおり、この二人は夫婦のようだ。老婦人にたしなめられても、男性はだんまりを決めこんでいる。なんというか……気難しそうな人だ。


 そんな男性の様子に呆れたように息を吐いた老婦人と、ふいに目が合った。


「そちらの方は? 海涼ちゃんの彼氏さんかしら」

「か……っ!?」


 すっかり蚊帳の外だった俺は、急に水を向けられた挙句とんでもない発言をされて素っ頓狂な声を出してしまった。お、俺が海涼さんの彼氏だって? いやいやいやいや、そんな恐れ多いっていうかなんていうか。


 あたふたしている俺とは違い、海涼さんはまったく動じておらずさらりと答えた。


「ふふ、ここのアルバイトくんですよ。彼は大学生で、夏休み期間中働いてもらっているんです」

「あら、そうだったの。勘違いしちゃってごめんなさいね」

「あ、いえ……」


 俺はへらっと笑うことしかできなかった。なんだろう、なんか、海涼さんは本当のことを言っただけなのに、ちょっとだけ複雑な気持ちになってしまった。……自分だけ狼狽えてしまったのが恥ずかしかったから、だろう。うん、きっとそうだ。そうに違いない。


「私は伊東いとう文子です。海涼ちゃんのおばあさん、クリスさんとはお友達でね」

「あ、俺は三ヶ嶋みかしま栄路って言います。海涼さんにはいつもよくしていただいてます!」


 ご丁寧に挨拶いただいたため、俺も慌てて名乗る。ただ、まだ動揺が抜けきっていなかったせいか、言わなくてもいいようなことを口走ってしまった。


 海涼さんと文子さんがくすっと笑った。俺は頬に熱が集まるのを感じる。うう……。


「元気で素直ないい子ね」

「はい、よく動いてくれるので、私のほうがいつも助かってます」


 そう、と柔らかく微笑んだ文子さんは、横にいる男性に視線を向けた。


「こちらが夫の浩です」


 俺がぺこりと頭を下げると、浩と紹介された老人は俺をじろっと見やって小さくひとつ頷いた。


「ごめんなさいね、栄路さん。夫はシャイなもので」

「……誰がシャイだ」


 文子さんの言葉にむすっとした感じで答え、浩さんはそっぽを向いて歩き出した。


「ちょっと、あなた……!」

「先行ってるぞ」


 それきり、浩さんは本当に歩いて行ってしまった。離れていく背中を見ながら、文子さんは呆れたように首を振る。


「まったく、本当に頑固ジジイなんだから……」


 俺は少しびっくりしてしまった。まさか、こんな物腰柔らかで淑女然とした女性の口から〝頑固ジジイ〟なんて乱暴な言葉が飛び出てくるとは。


「浩さんは相変わらずですね」


 海涼さんが苦笑する。海涼さんの口振りから察するに、ちょうど不機嫌だったわけではなく、常にあんな感じらしい。やはり、気難しい人のようだ。


「こんな時間までお出かけされていたんですか?」

「ええ。二人でちょっと舞台を見にね。これから帰るところなの」

「舞台ですか、いいですね」

「夫がいつの間にかチケットを持っていてね。それが、私がちょうど見たいものだったのよ」

「文子さんのために用意したんでしょうね、きっと。いい旦那さんですね」

「あんなのでもね。まったく、なんでわかるのかしら」


 文子さんが朗らかに笑った。その表情は偽りなく嬉しそうであり、夫婦仲は悪くなさそうだった。


「今日は長居していられないけれど、近いうちにまた【Glace】に来るわね」

「はい、楽しみにしてます」


 海涼さんが頷くと、老婦人は気品ある所作でお辞儀をした。


「それじゃあね。海涼ちゃん、それから栄路さんも」

「あ、はい」


 そうして、老婦人と別れた。その背をなんとはなしに追うと、数メートル先に先ほど去って行った浩さんの姿があった。どうやら、あそこで待っていたらしい。文子さんが浩さんの元に着くと、二人並んで歩いて行った。


「あの人も、海涼さんのおばあさんと知り合いなんですね」

「うん、文子さんはおばあちゃんと一番仲が良かった人なの。私もよくしてもらっててね」


 先ほどの様子を見ればわかるが、海涼さんは文子さんが大好きみたいだ。そんな海涼さんが少しだけ幼く見えて可愛らしかった。


「旦那さんのほうは、なんつーか、けっこう癖が強そうですね……」

「ふふ、浩さんはあんな感じだから誤解されやすいんだけど、とっても奥さん思いの人でね。おしどり夫婦なのよ」

「え、そうなんですか?」


 こう言ってはなんだが、全然そんな風には見えなかった。おしどり夫婦って、どこからどう見てもめちゃくちゃ仲が良い夫婦のことを指すのかと思っていたが、そういうわけではないのだろうか。


 でも、言われてみれば、文子さんは頑固ジジイなどと言いながらも、その言葉に棘はなかったような気がする。しょうがないなぁと言わんばかりの表情だった。


 浩さんもあんな態度だったが、文子さんのために舞台チケットを用意したり、文子さんが来るまで待っていたり、邪険に扱っているわけではないようだった。ひと口におしどり夫婦と言っても、いろんな形があるのかもしれない。


 おしどり夫婦とまで言われるほど仲が良いなら、少なくとも夫婦間で迷いが生じることなどないだろうな、とぼんやり思う。そこまで関係が保てるのは素直にすごいなとも。


「あ、引き留めてごめんね。また明日」

「はい。お疲れさまでした」


 おやすみなさい、とお互いに言い交して俺は背を向け、ひとりと一匹に見送られながら帰路につく。ひとり暮らしを始めてから――否、彼女と別れてから、おやすみという言葉を使うことがめっきり減った。やっぱり、言ってもらえると嬉しいものだ。


 挨拶って大事なんだなぁと噛み締めつつ、俺は夕飯は何にしようかとのんびり考えを巡らせた。






 ――それから、何事もない平穏な日が二週間ほど続いたため、伊東夫妻のことはすっかり頭の隅に追いやられてしまっていた。



  ▼  ▼



 気づけばあっという間に八月も終わりが近づいていた。そろそろ九月に入るというのに、残暑が厳しいせいであんまりそんな感じがしない。しかし、九月に入ってからは寒くなるまでがあっという間に感じるのだから不思議なものだ。


「…………」


 夏が終わりを告げようとしている。それはつまり、大学の夏休みも終盤に差し掛かっていることを意味する。そしてさらに、それが指し示すのは、【Glace】でのバイトも終了が近づいているということだ。


 カウンターの後ろの壁にかかっているカレンダーをチラ見する。あと約二週間後に、大学が始業する。


 それまでに、俺は答えを見つけなければならない。別に、明確な期限を誰かに切られているわけではない。けれど、夏休みが終わるまでに答えを見つけられなければ、一生このモヤモヤを抱えて生きていくことになる。なぜかはわからないが、そんな確信めいたものがあった。


 とはいえ、未だにとっかかりすら掴めていない。時間があまり残されていないと思うと、どうしても気持ちが逸ってしまう。


「……はぁ」


 つい、重苦しいため息が口をついて出る。最近、正確にはここでバイトし始めてからは気が落ち込むことも少なくなり、それに合わせてため息をつくことも減っていたのだが、元に戻りつつあるような気がしている。人前では意識して気をつけているのだが、周りに人がいないと自然に口からこぼれ出てしまうのだ。


 どうしたものかと考えながら、陳列棚の掃除と整理を行っていた俺の視界が、ゆらゆらと揺蕩う人魂のような光を捕らえた。精霊たちは、今日も今日とて自由気ままに遊泳している。いっそ羨ましく思えるほどに。


 そこで、ふと疑問に思う。こいつらは、迷いを持った人間の力になる。それなのに、なぜ俺には無反応なのだろうか。今俺が抱えているものが迷いではなく、ただの悩みだから? だが、迷いなら【Glace】に来た当初からあったはずだ。地元の友人に現状報告ができずにいた時とか。結局解決したとはいえ、何だか釈然としない。


 そもそも俺が客ではなく、ここにある雑貨を買おうとしていないからだろうか。それなら、何か買ってみれば状況が変わったりはしまいか。たしか、精霊はものを手に取ってからも宿ることがあったはずだ。


 そうだな……たとえば、このガラス製の小さな犬の置物だったり――。


 と、俺が雑貨を手に取った瞬間、精霊たちがざわめき出した。


「……っ」


 え、冗談半分のつもりだったのに、まさか本当に? とややたじろぐと同時に、カランと涼やかなドアベルの音が店内に鳴り響いた。


「い、いらっしゃいませぇ!」


 驚きのあまり、条件反射で出した声が若干裏返ってしまった。慌てて手にしていた置物を戻して入り口のほうを見ると、客が入ってくるところだった。その客人には見覚えがあった。


「……あ」


 思い出した。この人、この間帰り際に会った老夫婦の奥さんのほう。たしか、文子さんと言ったか。


「あら、こんにちは」

「こ、こんにちは」


 以前会った時と同じように、文子さんは物腰柔らかく微笑みかけてきた。気品があり、育ちの良さが垣間見える。


「いらっしゃいませ――あ、文子さん」

「こんにちは、海涼ちゃん」


 ドアベルの音を聞きつけたのか、海涼さんがカウンターの奥から出てきた。文子さんを視認した海涼さんは顔を綻ばせる。


「ごめんなさいね、また顔を出すと言っておきながらけっこう時間が経っちゃったわ。これだから年寄りは嫌ねぇ」

「そんなことないですよ。足を運んでくださっただけでも私は嬉しいんですから」


 和やかに会話をしている視界の端で、室内で旋回している精霊が映り込む。状況的に、文子さんが入って来たことに精霊たちは反応したらしい。


 俺に対してではないことを若干残念に思いつつも、気になるのは文子さんのほうだ。なにせ、精霊が反応するほどの〝迷い〟を、この老婦人が抱えていることを指しているのだから。


 それを海涼さんが気づいていないわけがない。しかし、海涼さんはいきなり踏み込むことなく雑談を続けている。俺だったらすぐに聞いてしまいそうなものなのに、海涼さんはいつだって不自然にならないように徐々に誘導していくからすごい――そう思った矢先。


「文子さん、何かありました?」

「えっ」


 この声を上げたのは俺だ。海涼さんが会話もそこそこに、脈絡もなく単刀直入に聞きに言った。俺は慌てて口を手で押さえたが、二人が特に気にしていないようだった。


「……ふふ、さすがクリスさんのお孫さんだわ。やっぱりわかってしまうのね」


 突然の切り込みに軽く目を見張った文子さんだったが、落ち着き払った様子で微笑んだ。


「ええ、実はそうなの。だから、ここに来たのよ」

「聞きましょう。どうぞ、あちらにおかけになってください」


 そう言って、海涼さんが文子さんをテーブル席に案内する。その時、ふと海涼さんと目が合った。


 その視線が意味するところを汲んだ俺はひとつ頷いて、カウンターの裏に急いで行く。カウンターの奥には短い廊下があり、通路を挟むようにして部屋が二つあった。ひとつは倉庫として使っている部屋。ここに、業者から仕入れた雑貨が箱に入れられて置かれている。


 そして、もうひとつが給湯室。ここには流し台やガスコンロ、小さめの冷蔵庫などが設置されている。この冷蔵庫に、俺が持参した飲み物を置かせてもらっていたりする。おかげで喉が渇いた時はいつでも冷えた飲み物が飲めるというわけだ。そして、海涼さんがお茶を入れる時はいつもここで用意している。


 俺も海涼さんのようにお茶を淹れられればよかったのだが、あいにくそこまではやらせてもらえていない。なので、俺は冷蔵庫に常備されている水出しの緑茶が入ったポットを取り出し、二人分のガラスコップに注いでお盆に乗せて給湯室を出た。


 ちなみに、給湯室の横に階段があり、この上が海涼さんの居住スペースとなっている。たまにトイレを借りる時だけ上がらせてもらうことがあるが、プライベートの部分でもあるし、なんだか見てはいけないような感じがして、極力見ないようにしていた。そのせいか、トイレ以外の景色の記憶は薄ぼんやりとしている。


 フロアに戻ると、二人はすでに話を始めているようだった。俺も何があったか知りたいため、そそくさとテーブル席に近寄る。


「どうぞ」

「あら、わざわざありがとうね」


 文子さんは礼を言ってコップを手に取り、口に含んだ。おいしいわね、と口元を綻ばせている。


「それで、どうされたんですか?」

 

 海涼さんが促す。どうやら、まだ本題には入っていなかったらしい。もしかしたら、海涼さんは俺を待っていてくれたのかもしれない。ありがたい限りだ。


「栄路さんも、よかったら聞いてくださる? 面白い話ではないのだけれど」

「え、あ、ぜひ」


 ありがたい申し出だ。俺はちらと海涼さんを窺うと、柔和な表情で頷いてくれたので、カウンターの裏から椅子を引っ張り出してきて気持ち海涼さん寄りに座る。


 精霊たちがこういう状態の時、どういうわけか他の客が入ってこない。これも精霊の仕業なのかどうかはわからないが、文子さんがいる間はどうせ暇なのだ。なら、座ってじっくり話を聞けるほうがいいだろう。


 俺たち二人が聞く体勢に入ると、文子さんはゆっくりと口を開いた。


「孫からね、ペア旅行券をプレゼントしてもらったのよ」


 それは、現在高校生のお孫さんが用意してくれたのだそうだ。おじいちゃんとおばあちゃんを労いたかったのだろう。


「それで、その旅行先が二ヵ所から選べるようになっていてね」


 行先の候補はひと口に言うと、ハイキングができる丘と船で川下りできる渓流。問題は、どちらに行こうかという点だった。


 文子さんがパッと目についたのは、ハイキングができる丘のほうだった。そしてもう片方は、浩さんが興味を持ちそうなのは川下りのほうだったという。


 文子さんは浩さんが興味のあるほうを選ぼうとした。しかし、浩さんは文子さんが生きたがる場所にすると言って聞かなくなり、少々揉めたのだという。


「あの頑固ジジイったら、人の話を全然聞かないの」


 なんだか、意外だ。かなりの偏見だが、浩さんのような人は自分の行きたいところを優先しそうなタイプに見えた。自分の意見を曲げず、強引に進めそうな印象を受けたのだ。


 しかし、実際はそうではないらしい。むしろその逆で、妻の希望を叶えてやりたいタイプのようだった。それには、少しだけ親近感がわいた。俺も、彼女と付き合っていたころは相手の希望を優先にしていたから。


「本当に、あの人は昔からそう。いつだって私のほうを優先させるんだから」

「浩さんは、相変わらず奥さん思いですね」


 海涼さんが苦笑混じりに言うと、文子さんは困ったように息をついた。


「嬉しくないわけじゃないのよ? もちろん。でも、いつも私のやりたいことをやらせてもらっているから、たまには夫の要望も叶えてあげたいの」


 でも、そう言ってもあの人は聞く耳を持ってくれなくて、と文子さんは声のトーンと視線を落としながら言う。


「ねぇ、海涼ちゃん。私はどうしたらいいと思う? 私の行きたい場所を選んじゃっていいのかしら」


 海涼さんは難しい顔をする。


「難しいですね……。お二人の気持ちはどちらもよくわかるので」


 たしかに、これは難問だ。今回こじれてしまっているのは、どちらも相手のことを想いやってのことが原因だ。第三者が口出しできるようなものでもない。


「栄路さんはどう思います?」

「えっ、お、俺!?」


 急に話を振られてびっくりする俺に、文子さんは真剣な表情で続けた。


「たとえば、栄路さんが海涼ちゃんとお出かけするとするでしょう? その場合、どこに行きたい?」


 ちょっと待ってくれ。それって要は、海涼さんとのデートを想定してってことか? うわっ。


「そ、そうですね、俺だったら、みす……あー、相手が行きたいところに行きますかね……?」

「栄路さんが興味なくても?」

「え、まぁ、はい」

「むしろ、苦手な場所でも?」

「まぁ……そうですね」


 すると、文子さんはため息をついて、右頬に片手を当てた。


「男の人って、やっぱりこうなのかしら」 


 ……なんだか、呆れられたっぽい? な、なんでだろう。そんなにおかしなことを俺は言っただろうか。


「私だけが楽しめても、しょうがないのよねぇ」


 やれやれと首を振った文子さんだったが、俺はその言葉が妙に引っかかった。なんだ……? なんでこんなに引っかかるんだろう。答えが出ないまま、話は続けられる。


「でも、あの頑固者は頑として譲らないでしょうし、やっぱり今回も私が折れるしかないのかしら……」


 悩ましげな表情を浮かべていた文子さんは、ふとテーブルの上に腰を落としていたメルを見やった。


「ねぇ、メルちゃん。あなたはどう思うのかしら」


 文子さんが撫でようと手を近づけたが、メルはするりとその手から逃れると、たっと床に降り立った。そうして、とある場所まで行って立ち止まり、こちらを見ながらフニャッと鳴いた。まるで、こっちに来いとでも言うように。


 経験則からすると、おそらくメルは文子さんに何かを見せたいのだろう。ただ、文子さんは結構な歳だ。さっきも、椅子に座る時やや億劫そうだった。


 それに、相手はお客さんだ。ここは店員の出番だろう。俺が代わりに立ち上がって、メルに近寄った。


「どうしたんだ、メル」


 ……我ながら、大根演技の自覚はある。見事なまでに棒読みのわざとらしいセリフだった。これならしゃべらなければよかったと若干後悔しつつも、メルを抱え上げて商品棚の上を見せた。


「……これか?」


 メルが鳴きながら片前脚で商品を指したので、メルを片腕で抱え直し、空いた手でそれを手にする。メルが肯定するかのようにフニャッと鳴いたので、俺はそれをテーブルまで持って行った。


「何かしら……?」


 文子さんは俺がテーブルの上に置いた片手サイズの小さな箱を手に取り、あちこち見ていたがやがてあっと声を上げた。


「わかったわ。オルゴールね?」


 そう、それは片手サイズのオルゴールだった。けっこうレトロな品なんじゃないか? 少なくとも、俺はこれまでほとんど見かけたことがない。


「懐かしいわねぇ。私がまだ若かった頃はずいぶん流行っていたものだわ」


 昔に思いを馳せている老婦人に、海涼さんがそっと声をかけた。


「開けてみますか?」

「え? でも、商品でしょう?」

「封がされているわけでもないので、大丈夫ですよ」


 戸惑い気味の文子さんににこりと微笑みかけた海涼さんは、ちょっと貸してもらえますか? と言って箱のふたを開け、中身を取り出した。プチプチの愛称でお馴染みの緩衝材に包まれ、それも取り払うと可愛らしいオルゴールが姿を現す。


 透明な半ドーム型のオルゴールで、中に小さな男女の人形が入っている。音が鳴る部分は下部に隠れているようだった。


「まぁ、可愛らしいわね」


 海涼さんがオルゴールの底を何やらいじり出した。微かにギチギチという音が聞こえる。察するに、ゼンマイを巻いた音だろう。


 海涼さんが手を離してテーブルに置くと、軽快な音が流れ出した。よく見ると、中の男女の人形がくるくると回っている。音楽に合わせて踊っていることを表現しているようだった。


「良い音ね。私が好きな曲調だわ」


 文子さんが目を瞑って聞き入っている。オルゴール独特の音色は、軽快だがどこかノスタルジックで少しだけ寂しさにも似た感情を覚えた。


 店内に響く音色が消えるまで聴き入っていた文子さんは、やおら海涼さんを見た。


「ねぇ。海涼ちゃん。このオルゴール、買わせてもらってもいいかしら」

「ええ、それはもちろん。でも、いいんですか? 予定になかったんじゃ……」

「せっかく来たのだもの。このまま帰ってしまったら、ただ愚痴をこぼしに来ただけの迷惑な老人になってしまうわ」


 冗談めかして笑った文子さんだったが、再びオルゴールに視線を戻した。


「それに、この曲がとても気に入ったの。また聴きたいと思ってしまったわ」


 そう言って、文子さんはとても愛おしそうにオルゴールを見つめる。その瞬間、旋回していた精霊たちの輪から外れるひとつの人魂があった。それは、オルゴール目がけていくと、スゥッと吸い込まれるようにして入り込んでいった。


 この展開は、さすがの俺も読めていた。もうさほど動揺したりもしない。それでも、オルゴールを凝視してしまっていたことに気づき、慌てて目を逸らした。


 海涼さんはわかりましたと頷き、席を立ってカウンターへと向かって行った。梱包しに行くのだろうその背を、文子さんが懐かしむような目で見ていた。


「海涼ちゃん、もうすっかりここの店主さんね。ますますクリスさんに似てきたわ」

「そうなんですか?」

「そうよ。クリスさんはね、人の悩みや迷いの相談事をされても、嫌な顔ひとつせずに聞いてくれるの。それで、一緒にどうすればいいか考えてくれてね。それがどれだけ嬉しかったことか」


 それを聞いて、俺は納得する。たしかに、今聞いたクリスさんの人柄は海涼さんにも当てはまっている。クリスさんが今も愛されている理由が少しだけわかった気がした。


「海涼ちゃんが引き継いでくれたおかげで、このお店もなくならずに済んだもの」

「え、ここ、なくなる予定だったんですか?」


 俺がびっくりすると、文子さんはええと頷いた。


「クリスさんが亡くなってから二年ほど、ここは閉められたままだったの」


 そうして、文子さんは【Glace】のこれまでを静かに語り始めた。


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