第8話 二滴の波紋




「…………」


 深く息を吸い、同じぐらい深い息を吐き出した俺は、意を決して扉を開いた。少し引けば簡単に開く扉が、今はどういうわけかとても重く感じた。


 店内に足を踏み入れると、いらっしゃいませーの声掛けとともにひとりの店員が近寄ってくる。


「おひとり様ですか?」

「えっと、人と待ち合わせしてて。もう中にいると思うんですけど」


 少し固い俺の声を気にすることもなくどうぞと通されたので、待ち人たちがいる席へ向かう。向こうはすでに到着しており、角の四人がけを取ったとのことでチャットが投げられていた。


 進む足取りがやや重い。あいつらと会うのにここまで緊張する日が来ようとは。ちょっと前の俺だったら想像もできないようなことだ。


「お、来たぞ!」


 そうして目的の席に近づくと、こちら側を向いていた人物が俺に気づいて手を挙げた。


「よお。悪い、待たせたな」


 なんとか平静を装いながら、俺は一人分空いていた席に腰を下ろした。


「ひっさしぶりだな、栄路。元気にしてたか?」

「てか、やっぱお前のそのカッコー慣れねーや」

「わかるわ~、初めて見た時はすっげぇ驚いたし。けど、こん中で一番様になるのは栄路だよな」


 口々に好き勝手言い出す三人を見て、俺は少しだけ安堵した。緊張の糸が少しだけ緩む。


「ったく、お前らは変わんねーな」


 懐かしい顔ぶれと感覚に、ようやく俺は地元の悪友たちと面を突き合わせることができているという実感が湧いた。


 世間はお盆休みに入り、俺は都心から地元のクソ田舎に帰省していた。


 帰省する前、俺は意を決して地元の友人たちに連絡を取った。そうしたら、帰省中奇跡的に全員の都合があう日があり、集まることになったのだ。


 連休直前だから、正直ダメ元だった。もうみんな予定を入れているだろうし、会えても一人か二人ぐらいで全員は無理だろう――そう思っていたのに、まさかのまさかで全員と会えることになったのは奇跡と言わずしてなんと言えばいいのだろう。


 ここに集まっているのは、俺が高校時代にゲーム三昧の日々を一緒に送っていた連中だ。


 俺の隣に座っているのが哲郎。この中だと一番の大食いで、高校時代はよく腹を空かせていた。体格はいいが、太っているわけではないのが不思議なところだ。体格のよさを見込まれて柔道部にスカウトされたことがあるが、こう見えて運動が苦手なため断った経歴を持つ。今は地元の大学に通っている。


 対面の真正面が恭介。けっこうなアニメ好きで、いわゆるオタクである。眼鏡をかけているが、成績は俺とそう大差ない。ゲームの腕も俺と張るぐらいで、ライバルとも言えるやつだ。今は少し離れてはいるが県内の専門学校に通っている。


 そして、対面の斜め前が順平。高校時代は野球部に所属していて、健康的な小麦色の肌が特徴だ。野球部だったとはいえ、相当ゆるい部だったので放課後でも普通に遊べていた。この中で唯一進学せず、本人の意志で家業である農業関係の仕事をしている。


「つーか、まさか、栄路のほうから声かけてくるなんて思わなかったぜ」

「な、盆休みも大学関係で忙しいのかと思ってた」

「俺たちのことなんかすっかり忘れてるもんだとばっかり思ってたもんな」

「……っ、んなことねーって。ほら、なんか頼もうぜ」


 本人たちにその気はないだろうが、その言葉は容赦なく俺をグサリと刺す。俺は顔に出ないように必死で、そう返すのが精一杯だった。


 料理を注文し、それを待っている間、自然と雑談が始まった。二丁目の駄菓子屋の婆さんが福引で特賞が当たっただの、この間釣り堀で小学生時代の担任とばったり会っただの、どこそこの誰それがどうなったというような地元トークを三人が繰り広げるのを、俺は時々相槌を打ちながら静かに聞いていた。


「で、栄路のほうはどうなんだ?」


 だが、少しもしないうちに話の矛先は俺に向かってきた。しかし、それも当然だろう。頻繁に連絡を取り合っていた三人とは違い、俺とは久々の再会だ。連絡が滞っていた友人の近況を知りたくなるのは自明の理である。


「夏休み満喫してたか? サークルとか、デートとか、そりゃあもう予定ぎっちりなんだろ?」

「そう、だな……」


 俺は返答に詰まる。いや、何がそうだな、だ。違うだろ。ここまで来ておいて、俺はまた誤魔化すのか。


 ここだ、もう話すならここしかないんだ。このタイミングを逃せば、今度こそ本当に後に引けなくなってしまう。……それなのに、なんで俺の口から言葉が出てこないんだよ?


 ――誠意をもって相手に接すれば、相手もまたその誠意にはきっと答えてくれる。もちろん全員が全員というわけじゃないけど、自分のことを想ってくれている相手なら気持ちは必ず届くはずよ


 頭が熱くなって拳をぐっと握りしめた時、ふいに海涼さんの言葉がよみがえってきた。その言葉が、俺の背中を優しく押してくれている気がした。


 そうだ。ここで前に進まなければ、俺は何のために三人に連絡を取ったのかわからなくなる。俺はふっと短く息を吐き出すと、三人を順繰りに見回した。


「お前らに、話したいことがあるんだけど」


 そう言うと、なんだ? と首を傾げる三人に、俺はテーブルに両手をついてがばっと頭を下げた。


「――ごめん!」


 そうして、そのまま俺は洗いざらいすべてを話した。


 彼女に振られて別れたこと。サークルにも行けなくなってしまったこと。夏休みの予定がなくなり、今はバイトに毎日を費やしていること。


 俺が立て板に水のごとく話している間、三人はただ黙って聞いていた。


「全部黙ってたこと、お前らの誘いを断ったこと……本当に悪かった!」


 一気に吐き出した終え、俺はテーブルに額をこすりつけそうな勢いでさらに頭を下げた。


 沈黙が流れる。怖い、顔を上げるのが。こいつらは今どんな顔をしているのか。それを見るのがただひたすら怖かった。


「やっぱそうだったのかよぉ……」

「……え?」


 時間にしてほんの数秒、しかしそんな一瞬の間が地獄のような時間に感じていた俺の耳に、気の抜けた声が届く。恐る恐る顔を上げると、なんだか難しそうな顔をした三人が目に入った。


「だってさ、栄路、お前全然連絡寄越さなくなったじゃんか」

「それは……」

「ちょっと前まではウザいくらい近況報告チャットに投げてたもんな。サークルでこんなことをしてるだの、彼女とどこそこに行っただの」

「ウ、ウザ……!?」

「それがぱったりなくなっちまったもんだから、なんか変だなって話してたんだぜ、俺たち」


 ……俺がそんな報告もできなくなるぐらいリアルが忙しくなったとは考えなかったのだろうか。


 思わずそう言うと、三人はそれは絶対ないと口を揃えて言いやがった。


「お前はあんま嘘はつかないが、その代わり黙るんだよな」

「上手くいかなかった時とかな。ゲームの攻略が思うように進まなかった時あったろ? あん時だって全然しゃべんなかったよな、栄路」

「あー、ありゃひどかったな。話しかけても適当な返事しかしやがらなかったしよ」


 そ、そうだったか……? 言われてみれば、そうだったような……。


 口々に言われてたじろぐ俺に、恭介が俺を真っ直ぐ見た。


「俺たちが気づかないとでも思ったのかよ。見た目だけ変わっても、わかりやすいとことか昔っから全然変わってねーな、お前」

「……っ」


 俺は息を呑んだ。恭介の言葉に順平も哲郎もうんうん頷いている。


「栄路のことだから、どうせ話しづらいとか思ってたんだろ」

「ったく、俺たちはそんなに信用ねーのかぁ?」


 三人は笑っていた。そこには、嫌悪などは微塵もなく、一緒になってバカ騒ぎしていたあの頃と何ら変わらない光景が広がっていたのだ。


 ――たとえ喧嘩したりわだかまりがあったとしても、人の縁はそんなに簡単に切れないわ。それが家族や友達といった強く大切な絆ほどなおさらね


 脳裏に海涼さんの言葉がよみがえってくる。ああ、と俺は目を細めた。


 本当だったよ、海涼さん。


 大口叩いておいてこの様で顔向けできないと。長い付き合いの友人との時間を疎かにしてしまった負い目など、そこまで深刻に捉える必要はなかった。


 無論、俺が反省しなければならないことに変わりはない。否、むしろ反省点は増えるばかりだ。なにせ、こんな気のいい友人たちが俺を軽蔑するなどと考えてしまっていたのだから。


 けれど、今はそれでも構わないと思えている。向き合おう、きちんと。そして、この関係を二度と蔑ろにすることなく、一生大切にしようと心に誓った。


 なんだかすべて吹っ切れたせいか、笑いが込み上げてくる。俺が声を上げて笑うと、三人もつられたのか笑っていた。


 ただひたすら笑っていた俺たちだったが、さすがに周囲の目が気になり始めた頃に一旦落ち着きを取り戻した。


「てかさ、栄路はなんでフラれたん?」


 そうして開口一番、恭介が遠慮も減ったくれもなく思いっきり切り込んできた。


「お、おい、恭介!? お前そんなことズケズケと聞くなよ!」


 順平がたしなめると、それに哲郎が同意する。


「栄路のやつ、かなーり落ち込んでんだから、もうちょっと言葉選べって」

「本人の前かつデカい声で言うなよ、そういうこと」


 俺は苦笑しながらつっこむ。いきなり傷口をえぐるようなことを聞かれたというのに、不思議と嫌な気持ちにならない。変に気を遣われるよりはずっといい。


 だって、冗談交じりに言いつつも、三人とも俺を心配してくているのがわかるから。だから、俺も正直に話そうと思えるんだ。


「なんでフラれた、か……。それが、俺にもよくわかんねーんだ」


 強がりでもなんでもない。本当に、よくわからないのだ。


 ――別れよっか


 別れを切り出された際、彼女が俺を責めることはなかった。不満を口にしたわけでもない。むしろ、全体的に誉めていた気がする。


 それなのに、俺はフラれた。


 今思えば、俺が誰にも話せなかった要因はここにもある。なにしろ、俺自身が納得できていなかったのだから。


 俺に落ち度があったのならまだわかる。俺のここがダメだとか、一緒にいても楽しくないだとか、言われた瞬間はショックを受けるだろうが、それでも飲み込むことはできただろう。


 しかし、そうではない。ダメ出しどころか誉め言葉ばかりで、フラれる要因が一切わからない。だから、俺の時間はあの時で止まったままなのかもしれなかった。


 もし、俺に対する不満を言うのが悪いと思ってのことなら、逆にそんな気遣いは不要だ。俺のダメだったところをはっきりと列挙してくれたほうがまだマシだと思える。


「……なぁ、俺の何がダメだったんだと思う?」


 これについては、俺も随分と考えた。俺が彼女に何かしてしまったのではないかと。しかし考えてみても、結局わかりづらい。彼女が嫌がることをした覚えもないし、その辺はかなり気を遣った。俺の趣味ゲームの話は一切せず、彼女が興味を持ってくれそうな話題を探したり、彼女の行きたいところに行ったりやりたいことをやったり、彼女の希望をできる限り叶えられるよう努めてきたつもりだ。彼女と並ぶにふさわしい男たろうと、身だしなみにも十分気をつけた。


 それなのに、俺はなぜフラれたのだろうか。


 力なく聞く俺に、三人は眉をしかめて難しい顔をしている。


「栄路、こんなこと聞くのは酷だろうけどさ、もしよかったら元カノさんとの話を聞かせてくれないか? 何かわかるかもしれないし」

「……わかった」


 正直気は重いが、哲郎たちは俺の力になろうとしてくれている。親友たちを、俺はもう裏切りたくない。俺は頷いて口を開いた。



  △  △



 彼女と出会ったのはサークルに入ってからだった。入学してからたまたま仲良くなった陽キャに誘われたのがきっかけだ。


 彼女は自分から話すよりかは人の話をうんうんと聞く控えめなタイプだった。服装はオシャレだったように思う。たしか、ガーリーだとかゆるふわコーデというのだったか。背が低めというのもあり、実に女の子らしい子で、俺がいた高校ではあまり見ない感じの子だった。


 何がきっかけだったか、同じサークルの俺たちは自然と少しずつ話すようになり、親睦を深めていった。早紀は見た目とは裏腹に話しやすく、俺も彼女のそばに居心地の良さを感じていた。


「お前、最近植田さんと仲いーじゃん」


 そんな時だった、仲の良い陽キャにそんなことを言われたのは。


「かわいいよな~。何お前、狙ってんの?」

「……は!? いや、別にそんなんじゃ……っ」


 俺はびっくりして思わず否定してしまった。本当にそんなつもりはなく、そういうチャンスが来ているのだと言われてから初めて気がついたくらいだ。


「ありゃあ、他の男が放っておかないぜ」

「え、お、お前もか?」

「残念。いや、この場合喜べと言うべきか? 俺にはもう彼女いるからそれはない。それに、恋愛的な意味では俺の好みじゃないんだなー、これが」


 ひらひら手を振りながら陽キャはそんなことをのたまっていた。


 たぶん、それがきっかけだったのかもしれない。それから彼女と話す度に、その話がちらちらと脳裏をよぎるようになった。有体に言えば、彼女を意識するようになったのだ。


 それから少しして、二人で話す機会ができた。昼のキャンパス内、人通りの少ない外のベンチで一緒に昼飯を食べることになったのだ。


 どんな話の流れだったかは定かではないが、ふいに身に回りの恋愛話になった。同じ講義を取っている友人が三年生の先輩と付き合うようになっただとか、たしかそんな話をしていた気がする。


 その話の流れで、俺は彼女になんとはなしに聞いてみた。


「植田さんは、そういうの興味ない?」

「……うーん、でも私、三ヶ嶋くんより仲の良い男の人いないから」


 ――ありゃ、他の男が放っておかないぜ


 陽キャの言葉を思い出した途端、俺はモヤッとした。彼女が他の男と親しげに話している姿を想像したら、なんだか嫌な気持ちになったのだ。


 もしかしたら、これが恋というやつなのかもしれない。そう思ったら、俺の口から自然と言葉がついて出た。


「そ、そうか。……じゃあ、俺たち、付き合ってみる? なーんて」


 急に自信がなくなり、冗談で逃げられるようについつけ足してしまった。沈黙が気まずくなり、これはやってしまったかと後悔しながらちらと先のほうを窺うと、彼女は頬を朱に染めながら、こくりと頷いてくれた。


 ……え、マジ?


 俺はピシッと音を立てて固まる。同時に、顔が熱くなるのを感じた。俺がまじまじと見ると、彼女はさらに顔を赤くしながらも取り消すつもりはないようだった。


 かくして、俺たちは付き合うことになった。それはサークルメンバーにはすぐに知れ渡り、随分と冷やかされたものだったが、こうして俺の「サークルに入ったり彼女を作ったりして大学生活をエンジョイする」という目標が早くも達成されたのだった。




 そうして、何もかもが上手くいき、順風満帆なキャンパスライフを過ごし出して約二ヵ月が経とうとした時だった。突然彼女に呼び出されたのは――。



  △  △



「それで、フラれた、と」

「……ああ」


 俺が力なく頷くと、うーんと唸り声が上がった。


「なんでだろうなぁ。今の話聞いた限りじゃ別れる理由が全然わからん」

「見てたわけじゃないしな。でも、栄路がそんなおかしなことするとは思えないけど」


 順平と哲郎が首を傾げている。真剣に考えてくれているのがありがたい。そんな中、恭介がふんと鼻を鳴らした。


「どうせ他に好きな男でもできたんじゃねーの……ってぇ!?」

「このバカ!」


 順平が恭介の頭に拳を落とした。恭介が頭を抱えて呻く。哲郎が恭介をジトッとした目で睨んだ。


「恭介、今のはないわ」

「謝れ。栄路に。今すぐ」


 哲郎と順平に口々に言われ、恭介がばつの悪そうな顔で俺を見た。


「わ、悪かったよ、栄路……」

「……いや、いいんだ」


 俺はふるふると首を振った。もし恭介の言ったことが本当だとして、それならそれでしょうがない。俺よりも魅力的な男なんてごまんといるし、引き留めておけなかった俺に甲斐性がなかっただけだ。


 でも、もしそうだったら、はっきり言ってほしかった。もう俺には気持ちがないと、他に好きな人ができたのだと、そう言ってほしかった。それなら、まだ納得できるから。


「本当にダメ出しみたいなことは言われてないのか?」

「ああ、たぶんな」


 別れようと言われたことのショックが大きすぎて、正直その前後の記憶が曖昧な部分がある。他にも何か言われた気がしたが判然としない。だとしても、それは不満ではなかったはずだ。ほとんど脈絡なく別れようと切り出されたことだけは確かなのだから。


「ったく、女ってホントわけわかんねぇな」


 恭介がどこか小馬鹿にしたように言う。俺もそう思いたいが、それだけで片付けたくはない。


 ……やっぱ、俺じゃダメだったんだろうな。


 よくよく考えてみれば、あんなオシャレかわいい女子は別世界の人間だったのだ。付け焼刃の贋作でしかない俺と違って、本物の彼女とは最初から釣り合うはずがなかったのだ。それなのに、少しでも彼女と肩を並べられると思ってしまった俺への罰なのかもしれない。


「栄路、わりぃが俺にゃさっぱりだ」

「俺もだ。なんせ俺らは誰もそういう経験ないし、力になってやれそうにないや……ごめんな」


 恭介と哲郎がそう言い、俺はいやいいんだと首を振った。


 そんなつもりはなかったが、俺の様子に痛ましさを感じたのか、恭介と哲郎がさらに言葉を募る。


「まぁ、あれだ、初カノだったんだろ? 上手くいかないことだってあるさ。お前ならまたいい子に出会えるって」

「そーそー。お前ってたまに考えすぎることあるし、自分を責めてばっかじゃ気が滅入っちまうぜ」

「哲郎、恭介……ありがとな」


 励ましが心に沁みる。話したことでわりとスッキリしたかもしれない。やっぱり、持つべきものは友なのだ。


 いい加減、俺もそろそろ気持ちを切り替える時だろう。もやもやは残るが、それも時間の経過とともに徐々に薄れていくに違いない。それなら、時の流れに身を任せて、俺は前を向き始めるべきだ。


「順平? 難しい顔してどうしたんだよ」


 恭介の言葉を聞きとがめてそちらを見やると、順平が何やらしかつめらしい顔で考え込んでいた。そういえば、さっきから順平の声が聞こえなかったような。


「ん? ああ……」


 順平が反応し、おもむろに俺のほうをまっすぐに見据えた。


「――なぁ、栄路。その子と付き合ってて、お前は楽しかったか?」

「……え?」


 思いもよらない言葉に、俺はハンマーで頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。


「じゅ、順平!?」

「おいおい、俺には散々言ったくせにお前だって結構なこと言ってんじゃんか」


 哲郎がびっくりし、恭介はこれ見よがしに殴られた頭をさすりながら不満を言う。


「つーか、楽しかったのかなんて聞くまでもないだろ。チャットであんだけ惚気けてたこと忘れちまったのか?」


 恭介の言葉に、順平は少し考えたあと首を振った。


「……そう、だよな。栄路、すまん。無神経なこと聞いた」

「あ、いや……」


 深々と頭を下げられ、俺はなんとかそれだけを絞り出せた。


「おい順平、俺にも謝れ」

「なんでお前に謝らなきゃならないんだよ」

「人の頭を思いっきり殴ったじゃねーか!」

「それは自業自得だろ」


 恭介と順平がじゃれ始め、哲郎がそれを苦笑いで見守っている。


「ま、何はともあれ、今日のオフ会は『傷心の栄路を励ます会』に変更な」

「名前ダッセ……けど、アイデア自体はいいな」

「パーッと食って、パーッと飲んで忘れようぜ! ま、ファミレスだけどな!」


 三人がどっと笑う。俺もつられて笑った。……上手く笑えているかどうかはわからなかったが。


 それから場は高校時代と同じノリになり、しょうもない話でバカみたいに笑って、俺も徐々に元気を取り戻していった。


 けれど、解散するまで、順平の言葉がまるで澱のように俺の心に残り続けた。


 ――その子と付き合ってて、お前は楽しかったのか?


 ……どうしてだろう。


 どうして俺は、何も言葉が出てこなかったんだ?



  ▼  ▼



「あーさっぱりした……」


 恭介たちと別れて実家に帰ってきたのは二十時を回ったころだった。


 シャワーを浴び、寝間着に着替えて、肩にかけていたタオルで髪をわしゃわしゃ拭きながら自室に戻るべく階段に足をかける。ほとんど店内にいたとはいえ、行き帰りでけっこう汗をかいたので気持ち悪かった。それを洗い流せた今は、とてもさっぱりしている。


「……あ」


 二階に上がり、自分の部屋の真ん前らへんまで来たときに、偶然にも妹と出くわした。俺たちの部屋は二階にあり、隣り合わせになっているため、こういうことも昔からよくあった。


 妹はちょうど部屋を出るところだったようだ。片手に空のカップを持っている。麦茶の次足しにでも行こうとしていたのだろう。


「……遅かったじゃん」


 高校生になったばかりの妹、加奈かながぶっきらぼうにそう言う。ちなみに、妹があからさまに不機嫌そうにするのは俺の前でだけだ。外面のいいやつとして俺の中で有名である。


「まぁ、ダチと会ってたからな」

「ゲームでもしてたわけ?」

「いや、ファミレスでただ駄弁ってただけだ」


 ゲームは全部片しちまったからできないしな、と言うと、加奈はふーんとどうでもよさそうな反応をした。……興味ないならなんで聞いたんだ。


 軽くため息をついた時、前髪から雫が垂れ落ちそうになり、タオルでくしゃっとふき取る。そうして軽く掻き上げると、一瞬だけ軽く目を見張った加奈がぼそっとこぼした。


「……兄ちゃん、変わったね」

「んあ? なんだ急に」

「…………」


 俺の問いには答えず、加奈はむぅっと頬を膨らませた。


「なんか、今の兄ちゃんつまんない」

「は、はぁ?」


 本当に、何を言い出すんだこいつは。いちゃもんにもほどがあるだろう。


 どうやら、高校生にもなってまだ反抗期が抜けていないらしい。いや、でも加奈は両親から可愛がられてるし、そんな親に対して加奈が邪険な態度を取っているところをあまり見たことがない。俺に対してだけだ。


 小さい時は一緒にゲームをしていたこともあったというのに、いつからこんな仲になってしまったのか。まぁ、俺たちが特殊なわけではなく、異性の兄妹というものは往々にしてこうなのかもしれない。


 俺としては別に妹が嫌いというわけではない。生意気でこましゃくれたガキだとは思うが、妹なんてそんなものだろう。難しい年頃なだけだ、きっと。


 俺が呆れたように加奈を見ていると、ふくれっ面にますます拍車がかかる。


「前の兄ちゃんはゲームのことしか考えてなかったじゃん」

「うぐっ」


 そんなことはないと言いたかったが言えなかった。妹の言うとおり、半年前までの俺はゲームにばかりリソースを割いていた。それは変えようのない事実だ。


 ……でも、それを嫌がったのは他の誰でもないお前だろ? ゲームばっかしてないでいい加減彼女でも作ったらって、お前が言ったんじゃないか。


 好きな配信者に感化されたのももちろんあるが、あのやり取りがあったからこそ、今の俺があると言っても過言ではない。そんなに言うなら変わってやると、ゲームの攻略本ぐらいしか買ったことがなかった俺がファッション雑誌やトレンディ雑誌を買い漁ったんだ。


 モテるためにすべきことだとか、イケてる大学生のファッションだとか、そういったものをとにかく調べまくった。その辺りの知識がまったくなかったから、見るものすべて新鮮で驚きのオンパレードだったのが記憶に新しい。


 ただ、元々ひとつのことにハマる質だったというのもあり、初めこそただの自棄だったのにだんだん面白くなって、俺はすっかり大学生活に夢を見るようになった。


 思い切って美容室では払ったことない額を払って、髪を流行りのオシャレなカットにし、ついでに染めた。そこで、美容師さんにワックスのつけ方も教わった。


 服やアクセも雑誌を参考に色々買った。さすがにブランドものには手を出せなかったが、リーズナブルでもオシャレに見える着こなしというのを研究したのだ。


 そうして、俺はすっかり様変わりした。生まれ変わった自分の姿に俺は感動し、大学デビューを絶対に成功させてやると、俺の気持ちは燃え上がった。実際、そのおかげで俺はひと時の栄華を手に入れることができたのだ。


 とはいえ、妹のせいにするのは大人げない。きっかけだったとしても、責任はすべて俺自身にある。友人たちとのわだかまりもなくなった今、俺はもうこれ以上みっともない真似をしたくなかった。


「俺ももう大学生だし、ちょっとは変わらないとなって思ったんだっつーの」


 そう答えると妹は、変わる、ねぇと言いながら、俺の頭から足つま先まで全身に視線を巡らせた。まるで見定めるかのように。


「それで、それなわけ?」


 それで、それなわけ? ってなんだよ、意味がわからん。


 怪訝な顔をする俺をよそに、妹はちらっと視線を開け放たれた俺の部屋へ向けた。つられて俺もそっちを見る。


 少し前まではゲーム機が何台も置かれ、ソフトのパッケージや攻略本が部屋中に山積みになっていた俺の部屋。しかし、今はそんなものはなくすっからかんだ。私物はアパートにいくらか持って行ってしまっているというのもあるが、随分と殺風景になっている。


「もうゲームはやんないつもり?」

「……いや、まぁ、どうだろうな」


 大学に入ってからはそのつもりだった。しかし、樋口さんとの一件で、正直また再燃し始めている。それに、現状もう隠す必要性も皆無に等しい。どうにかしてまた手を付けられないかとぼんやり考えてはいる。


 とはいえ、問題がある。手元にあったゲームをほとんど処分してしまったため、やりたくてもそう簡単にできない状態なのだ。ひとり暮らしをしていることもあり、ソフトだけならともかくハード本体から揃えるとなると、そこまでの余裕がないのが現実だった。


 そんな考えがちらついてしまったせいでいまいち煮え切らない返答をすると、加奈は口をへの字に曲げた。


「今の兄ちゃんの楽しみって何?」

「そ……っ」


 答えかけて、俺は口をつぐんだ。


 ――その子と付き合ってて、お前は楽しかったのか?


 友人の言葉が脳裏をよぎる。まただ。また、答えられない。


 言葉を出そうとして口をはくはくとさせている俺に、加奈がつまんなそうな視線を向けてくる。


「なーんか、今の兄ちゃん、薄っぺらい」

「……っ」


 薄っぺらい。その言葉が、俺の胸に深く突き刺さった。そんなのは、俺だってよくわかっている。なのに、それを人から言われるとここまでダメージを受けるものなのか。


「そんなだからフラれるんでしょ」

「……っ、お前なぁ!」


 さすがにカチンときてつい声を荒げてしまう。しかし、加奈はそんな俺を睨みつけた。


「……これなら、前のほうがまだマシだった」


 加奈は吐き捨てるようにそう言うと、何も言えずに立ち尽くす俺の脇を通り抜けてさっさと自分の部屋に戻っていった。


 しばらくその場から動けなかった俺だが、はっと我に返ってのろのろと自室に入る。それから何もやる気が起こらず、早々に布団を敷いて横になった。


 ――その子と付き合ってて、お前は楽しかったのか?


 ――今の兄ちゃんの楽しみって何?


 順平と加奈の言葉が重くのしかかる。それは二つの雫となって、俺の心に波紋を作った。


 どうして、俺は答えられなかったのか。どうして、こんなにも引っかかっているのか。


 楽しいか、だって? 楽しかった、はずだ。だって、じゃなきゃここまで頑張れなかったと思う。それなのに、なんで俺は楽しかったと声に出せなかった?


 俺の今の楽しみについても答えられなかった。長年楽しいと思っていたゲームを封印した結果、彼女にフラれ、サークルにも参加できず、大学生活が瓦解した。そんな今の俺の楽しみって、じゃあ一体何だ?


 なんだろう。なんか……なんか、俺はこの答えを見つけないといけない気がする。このモヤモヤの正体さえわかれば、何かが変わる、ような。なぜだかわからないが、そんな気がする。


 真っ暗な部屋に、網戸にした窓から虫の鳴き声やせせらぎなどの環境音が入り込んでくる。それを聴きながら、俺は目を瞑りながら考え込み始めた。


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