果てまで光る
黒白班
果てまで光る
圧倒的な光に、出会った事はあるか。
それは即ち希望であり、己の進む道であり、生きる意味であり、人生を投げ打っても構わないと思えるほどの光のこと。
それが何で、どんな形で、どんな存在であるかは、その者しか知り得ない。
物心ついた時から自分の一番近くにあったのは血と暴力だった。伝統のという名の古臭い雁字搦めの習慣ばかりある家だった。祖先は忍者の血筋だとか何だとかで、暗殺業を生業にしていたらしい。
昔はそんな出鱈目で生計を立てられいたとしても、今では時代遅れもいいところで、一世紀前までは名門と呼ばれた自分たちの家名を知っている人間も少なくなった。今この家は傭兵のような仕事で生計を立てている。家の名を逢坂と言う。
やれ生活が苦しいだの親戚の誰々がどこの家に勤める事になっただの、全てが自分にとっては全部どうでもいい事だった。
自分は逢坂家の中でも子供ながら一目置かれている存在であったと思う。理由は単純、強いから。体を使いこなすセンス、冷静さ、頭の回転の速さはどれも一級品で、逢坂家の中では久しく見る神童と呼ばれていた。訓練をするのは嫌いではなかった。家は窮屈で退屈で、訓練をしていればそれを忘れられたから。両親は随分と自分に期待していたようだった。応える気はなかったが、結果的には期待に応えた、という事になるのだろう。
真っ黒な髪と、黒曜石のような瞳をした子供。安易に一歩踏み出せば吸い込まれそうな色だった。
両親が見た事のない大人と喋っていて、傍らにその子供はいた。こちらをじっと見つめて来るだけで、何を考えているかは分からなかった。よく分からないけれど、特別な客が来たのだろうという事は両親の畏まった姿を見れば明らかだった。いつもあれだけ上から目線の両親が、腰を低くして相手の機嫌を取っているのを見るのは愉快だった。
その日も変わらずいつもと同じ訓練をした。入念に準備運動をしている時も、練習場で自分より二回りも体の大きな相手を投げ飛ばした時も、あの黒い瞳はこちらを見ていた。
「薫と言います。あなたのお名前は?」
どうせ話すことはないだろうと思っていたら、子供が急に喋りかけてきた。驚いてつっかえながらも、言葉を返した。
「せ、雪と言います。雪の字を書いて、セツと読みます」
「良い名前。冬に生まれたの?」
「はい。冬の一番寒い時期に生まれて、その時に丁度雪が降っていたものですから……」
「そうなんだ。ねぇ、ずっと見てたの気付いてた?」
「はい」
あんな熱視線を向けられて、気付かない方がどうかしている。
「一緒に来てよ。雪」
そう言って薫から手を差し出された時、どう反応していいか分からなかった。だと言うのに目の前の人間の言葉には逆らえない何かがあって、雪はその黒に見据えられたままこくりと一つ頷くことしかできなかった。あの小さな手のひらを取った瞬間、自分の人生は大きく変わった。あそこから始まったのだ、逢坂雪の人生は。
薫の家——神楽家は政界や商業、あらゆる所との繋がりの深い、この国では知らぬ者のいない名家だった。七つになる後継者の薫に、信頼できる用心棒と執事を兼ねた存在を探すためにあちこち出向いていたそうだ。
薫にこれから一生尽くすのだと聞いた時、抱いた感想は「出会ったばかりの自分にそんな大層な役を任せていいのか?」というものだった。だってそうだろう、薫は雪の姿を一日見ていただけだと言うのに、なぜ命を預けるような重大な役割を自分に任せようと思ったのか。
「雪の全部が気に入った。今まで見てきた誰よりも、綺麗だった」
けれどこの言葉を聞いて、全部がどうでもいいと思った。自分の全てを気に入ってくれる人がこの世に一人でもいて、こんな己を受け入れてくれる人間がいるならそれでいいじゃないか、と。昔から何かに対する欲が強い人間ではなかった。欲しいものは? と尋ねられても無言で返すのが常の面白味の欠けた子供だった。
でもここに来て初めて、太陽のような眩しい笑みを浮かべる薫に、雪はある一つの欲を覚えた。
——この人に幸せになってほしい。
間違いようもなく、雪の光は薫だった。
薫が幸せになるためなら何でもしようと思った。実際何でも出来た。逢坂の家でやって来た事が所々役立ちはするものの、執事の業務も兼任するのはかなり大変だった。やった事のない立ち居振る舞いばかりで、ここぞとばかりに言葉遣いも矯正された。
辞めたいとは一度も思わなかった。ここで辞めてしまっては、見知らぬ誰かが薫に仕えることになってしまう。それだけは受け入れられなくて、毎日毎日与えられる業務をこなした。
「顔、怪我してる。来て」
「ちょっと掠っただけです。ご心配なさらず」
「いいから。あと言いたいこともあるし」
その日は神楽家の護衛を担う体格の良い男たちと訓練し、何もかもに劣る雪は訓練が終わる頃には見るも耐えないような姿になっていた。一通りの手当は済ませてもらったものの、小さい切り傷までは手が回らなかったらしい。本当に些細な傷なので気にも留めなかったが、どうやら薫は大層ご立腹のようだ。
「えいっ」
「痛っ! ……いです」
勢いよく消毒液の染み込んだ綿を傷口に当てられ、流石に声が出た。が、何とか持ち直して敬語を使うように努める。
「そりゃそうでしょ、怪我してるんだから」
「別にこれくらいの傷ならすぐに治ります」
「すり傷でも骨折でも、すぐに治る治らないの問題でもない。雪が怪我したって事が問題なんだよ」
優しく諭されて、けれどこれでもかなり恵まれている方だ、と雪は思う。怪我したら手当をしてくれるのだ。逢坂の家でそんな事はされた事がない。怪我をするのは自分の責任、怪我をしたら自分で手当する。今までそうやって生きて来たから、自分をこんなに心配する人はいなかった。
「でも訓練で怪我をしないのは流石に無理が——」
「じゃあ、怪我しないくらい強くなって。雪と戦いたいと思う人がいなくなるらい、強くなって」
「……簡単に言うな」
「あ、口悪くなった。そっちが素なの?」
しまった、と背中に冷たい汗が流れるのが分かった。自分はこの目の前の人間に仕えるために日夜訓練しているのだ。主人に敬語を使えない従者など——
「そっちの方が好きだなぁ。ねえ、その喋り方のままでいてよ」
「は? い、いやそれは流石に……薫様もいい気がしないでしょうし、何よりご両親がお許しにならないと思います」
「そう? じゃあ、二人の時だけ。二人でいる時だけ、その喋り方でいてよ」
「いやでも、」
雪が何を言っても、薫は聞こうとしなかった。結局押し負けて、薫の前では素の——すなわち口悪く——ままで話す事になってしまった。渋々と言ったふうに頷いた雪に薫は大変満足したようで、優しく顔の手当てを終えてくれた。
「強くなってね。それで、ずっとそばにいて」
雪ははあ、と大きなため息を一つ吐いた。仕方のない主人である。
「分かった。あんたを守れるのは一人だけだって証明してやる」
「うん、やっぱりそっちの方がいい」
◇◇
「薫、今回の商談はお前に任せる」
「承知しました。必ずやお祖父様の期待に答えて見せます」
「あぁ。準備を怠らないように」
「お任せ下さい。行きますよ、雪」
「はい、薫様」
気付けば薫は後継者として本格的に神楽家の事業に参入していた。もう薫の補佐を続けて十年が経ち、今や武力で雪の右に出るものはいない。薫は人脈を作るために毎日あちらこちらの会合やパーティーに顔を出し、雪はそれにいつもついて回った。
「雪、次の商談の資料を」
「こちらに」
早足で歩く雪のあとを同じくらいの早足で追うが、この数年で薫は随分身長を伸ばして雪と差を付けた。その分足の長さの歩幅を補うために、雪はほとんど競歩のような足捌きで薫を追いかける。
「どうやら気難しい人らしくてね、念入りに準備するから、指示した通りに動いてくれ」
「勿論です」
「それから……この商談が終わったら君が淹れた紅茶を飲みたい。前の商談相手から良い茶葉を貰ってね」
にこりと微笑んでそう言われ、雪も思わず笑みを溢した。あの日から変わらない、美しい太陽のような笑顔は年月を経て妖艶さを纏うようになった。
「私で良ければ喜んで。薫様」
「期待してるよ。僕は雪の淹れた紅茶が一番好きなんだ」
それから、と一呼吸置いて薫は続けた。
「もう誰も見てないんだから、いつもの喋り方でいいのに」
「あ、つい癖で……でもこっちに慣れすぎると困るんだ、人前でもついつい素で喋りそうになる」
「別にいいと思うけどね。雪にとやかく言える人間は多くないし」
「流石にそう言うわけにも行かないんだ。お坊ちゃまは相変わらず我儘でいらっしゃる」
神楽薫はよく笑う。仕事の時も使用人に接する時も、いつもずっとにこやかに、そして穏やかに笑っている。人はそれを、月のような笑みだと語る。
「ははっ、何だそれ。もう坊ちゃんなんて言われる歳じゃないよ」
彼——神楽家の次期当主、神楽薫はよく笑う。
けれど太陽のような笑みを見せるのは、幼い頃に彼が見つけた、たった一人の従者にだけだ。
だから雪は、薫が自分のことをどう思っていようと、今やっている事が己の一方的な献身でも構わない。
献身の奥にある感情の名前は知らない。友愛か、親愛か、敬愛か、果たして別の物か。きっと自分がそれを理解する日は来ないし、来なくていいと思っている。気付いた瞬間に終わるのなら、知る必要はない。薫と雪では、何もかもが違うのだ。
だから逢坂雪は、何も知らないままでいたい。知らないまま生きて、ただ神楽薫の傍にいて、そしてそのまま終わりたい。
あなたが私の光なのは未来永劫変わらない。あなたが笑ってくれるのなら何でもしよう。輝き続けてくれるなら、笑っていてくれるのら、私はそれだけで生きていけるのだから。
果てまで光る 黒白班 @matchako
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