没落予定の伯爵令嬢は腹黒執事さまがお好き?
彩瀬あいり
前編
「お嬢様、失礼いたします」
発言しながら扉を開いて入室した執事に、
「ま、まだ、入っていいなんて、言っていないじゃないのよおお」
ただ半泣きだったので威圧感のカケラもなく、情けない声になってしまったのはご愛敬。寝台の上でシーツをかぶってうずくまっていたので声も籠ってはいたが、有能な執事はきちんと聞き取ってくれたらしい。ズカズカと遠慮なく近づいてくるとシーツの端を握り引っ張るので、剥がされないようにリズベットは必死だ。
「やめなさいよ、乙女の寝所に立ち入るなんて破廉恥極まりない行為だわ」
「乙女? 私の前にはシーツお化けしかおりませんが」
「誰がお化けよ。たしかに我が家は没落真っ最中だけど、まだ邸は廃墟になっていないはず。ダグはわたしを誰だと思っているのよ」
「私の主であるグレニスタ伯爵令嬢でございますね」
ずりずりと後退してなんとか距離を取ったリズベットは、シーツの中から目許だけを出して、青い瞳で相手を見る。銀髪をオールバックに撫でつけた年上の青年・ダグラスは、皺が寄ったらしい袖を指で撫でつけて伸ばしながら苦言を呈してきた。
「いい加減、引きこもりはおやめになってはいかがですか?」
「だっていきなり結婚相手が訪ねて来るのよ?」
「いきなりではありません。婚約は五歳の折に成立しております」
「記憶にございません」
「政治家のような逃げ口上を使ったところで、事実は覆りません。嬉々としてサインしておいてなにをいまさら」
「だから記憶にないってばー」
貴族家の婚約は家の繋がり。幼いころに相手が決まり、書面にて交わすことが多い。グレニスタ伯爵家も同様だ。
記憶にないとは言ったけれど、サインをしたことは憶えている。
文面などはさっぱりだが、そんなものは五歳児が理解できるはずもないため、大人も詳細な説明などしていない。ただ『婚約者を決める』ということだけを説明されたにすぎなかった。さりとてリズベットはあまり本気にはしていなかったが。
家庭教師に文字を習いはじめ、お上手ですねと褒められて有頂天になっていたころだ。リズベットは『自分の名前を書く』という行為にハマっていた。
だから、ここにリズの名前を書きなさいと父親に言われ、張り切って書いた。それだけである。
「あのころは楽しくてあちこちに名前を書いたし、どれが婚姻締結書だったのかなんて憶えていないわ」
「お嬢様はもうすこし熟慮というものを身につけてください。そのような御心のままでおられると、魑魅魍魎が跋扈する社交界であっという間に食い物にされますよ。いいですか、保証人欄には決して名前を書いてはなりません。あとなにかを購入するときも気をつけてください。うっかり定期購入契約なんてしようものなら、死ぬまで送りつけられますよ」
「なにそれ、怖い」
「怖いのはあなたですよ、考えなしにもほどがあります。この状況に陥ってなお、その能天気さがいっそ羨ましいほどですね」
「ありがとう」
「褒めておりません」
ピシャリと楔を打つように言われ、リズベットは押し黙った。彼が自分の専属になって早十年、この執事にくちで勝てた試しがないのだ。なにかを言っても倍になって返ってくることはわかっている。『沈黙は金、雄弁は銀』と本で読んだ。
リズベットは本が好きだ。
冒険譚から始まり、乙女心をくすぐるお姫様の物語も大好きだ。
夢見がちだと笑うことなかれ。自分の意思での結婚などできない貴族令嬢からしてみれば、せめて物語の中でぐらい夢を見たいのである。
たとえば、親に決められた婚約者と、いつも傍にいて陰に日向に支えてくれる従者のあいだで恋心が揺れ動く物語とか。
そういったものに憧れたりもするわけである。自分の立場に重ねて。
沈黙を選択したリズベットは己の状況を振り返る。
執事が部屋に押しかけてきた理由はきっと婚約の話。この場合、婚約をするのではなく、婚約期間を延期しつつ、できればそのままフェードアウトできないかという目論見の話。
リズベットの考えをダグラスは反対していた。
反対する理由がときめき方面に振れたものであれば心も騒ぐのだが、「契約を解消するとなれば諸手続きが必要です、お嬢様の有責ですので慰謝料も発生しますが支払いはできますか?」という極めて現実的なものなので、リズベットの乙女心は崩壊寸前である。この男には情緒がないのか。
(でも、うちはもう風前の灯火なわけで、沈むことがわかりきっている船に乗り込ませるなんて、気の毒だと思うのよ)
グレニスタ伯爵は没落待ったなしの家である。
お人好しの当主が、世話になった恩師の頼みを断りきれず投資話に一枚噛んだ結果、恩師は逃亡。彼のぶんまで負債を背負い返済期限はもうすぐそこ。
お金を掻き集めようにも時間がないし、借金地獄へ他人を巻き込むのも忍びない。
父も母も根っからの善人なのだ。自身の苦労は厭わないけれど、他者へ迷惑をかけるのはよしとしない性質である。
その血をしっかり受け継いでいるリズベットは、使用人の再就職先として友人知人の家を紹介したし、頭だって下げた。学院の同級生の中には、へりくだる伯爵令嬢を嗤う者もいたが、貴族の矜持なんて知ったことか。そんなものでご飯は食べられないのだ。
助けようとしてくれる友人もいたが「今はわたしに近づかないほうがいいわ、またいつか会いましょう」と言って、みずから疎遠になった。借金取りが魔の手を伸ばしたところで、リズベットの交友関係に影響はないだろうというところまでもっていったが、どうしても切れなかったのが婚約相手。
そんなわけで、自然消滅を狙って連絡を絶っているのが今である。
相手は現在二十四歳のスロー子爵令息。リズベットが学院を卒業するまで待ってくれているらしいと聞いた。伝聞のみなので真意はわからない。
なにしろリズベットは自分の婚約が継続していることを知らなかった。ちっとも音沙汰がないものだから、とっくに破談になっていると思い込んでいたのだ。
だというのに急に連絡が入った。
おそらくグレニスタ伯爵家の窮状を知ったのだろう。いままで放置していたのが嘘のように押してくる、いっそ怖いぐらいに。
しかし、平民落ちする貴族令嬢には需要でもあるのだろうか。
じつは婚約者だけではなく、他の令息からも誘いがかかっているのだ。
正妻としてではなく愛妾としての声かけではあるが、「うちに来ないか」という手紙が舞い込んでくるようになっている。融資を盾に迫ってきており、つまるところリズベットは、お金で買われようとしていた。
社交界の華と讃えられた美人の母に
ただ際立って美しいと褒めそやされるのが、はちみつ色の艶やかな髪。癖のないまっすぐな髪はサラサラで、友人たちには羨ましがられる。話題のドレスや小物を身に着けていても、褒められるのは髪の美しさ。ダンスを頑張っても、相手は「なびく髪が美しい」としか言わない。後ろ姿で惚れられて、前を見て苦笑いを浮かべられる残念令嬢の異名を取っているリズベットである。
ここまでくると、もはやコンプレックス。髪の話が出るとお腹が痛くなる。
町で見かける平民女性たちのなかには、まるで男性のように髪を短くして働いている者もいて、リズベットはあれを羨ましいと思っていた。もちろん彼女たちには彼女たちの悩みがあるだろう。こういうのを『隣の芝生は青い』というのだ。これも外国の本で読んで憶えた言葉。
とにもかくにも金策である。
かといって身売りする気はない。愛妾として生きていくつもりはさらさらなかった。
同じ返事を書くのが面倒になってきて、最近ではダグラスが代行して書いてくれるので助かっているところ。
手紙だけでは飽き足らず直接訪ねてくる男も若干名居たのだが、それらもすべてダグラスが追い返してくれた。慇懃無礼という言葉は彼のためにあるのではないかというほどの言動で、相手を丁寧に遮断して精神を叩き割って追い返す姿は見事といっていい。
リズベットが幼いころから家族総出で我が家に仕えているため、兄のように慕っている父の従者の青年・ジムは「えげつねえ男だな」と顔を青くしていたが、リズベットはそんなダグラスにひそかにときめいていた。我ながら、ちょっといろいろ終わっていると思わなくもないけれど、恋とは自分ではどうにもならないものらしいので仕方がない。
つい重い溜息を吐いてしまったとき、ダグラスもまた息を吐いた。
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