第三〇話 彼女は本気

 さて、放課後である。

 翠川の家は学校からわりと離れたところにあって、自転車で向かうにはそれなりの時間を要した。

 そういえば、翠川は電車通学だった気がする。

 確かに、この距離を毎日自転車で往復していたら必要以上に脚が鍛えられてしまう。

 翠川にはぜひとも柔らかい太腿を維持してほしい。

 まあ、翠川の太腿が柔らかいかどうかは定かではないが。おっぱいならいざしらず!


 ともあれ、僕は家の前に自転車をとめさせてもらい、カメラつきっぽいインターホンのボタンを押して応答を待った。


「はい」


 何処かで聞いた覚えのある声がスピーカーから聞こえてくる。


「天能寺高校のアサキと申します。学校で配られた課題のプリントを持ってきました」


 ふふふ、我ながら完璧な理由づけよ。

 もちろん、プリントなんて持ってきちゃいないがな。


「あら、アサキ……くん? 今開けるから、ちょっと待ってね」


 気さくな感じで答えが返ってくる。

 これ、たぶんアンドーのお母さんだな。だんだん思い出してきた。

 玄関の扉が開き、奥から若々しい女性が姿を見せた。

 記憶の中のアンドーのお母さんとまったく変わっていない。

 翠川も相当な美人だが、お母さんも超絶な美人である。

 幼き日の僕よ、何故、この女性を見て未来のアンドーを想像できなかったのだ。

 あまりにも愚かすぎて涙がでらぁ……。


「こんにちは」


 ひとまず挨拶をする。


「ああ、やっぱり、あのアサキくんよね。蔵野の道場の……」

「はい。お久しぶりです」

「ほんと、久しぶりねえ。同じ高校に入ったとは聞いていたけど、大きくなって……おばさんのこと、覚えてる?」

「はい。変わらずお綺麗ですね」

「あらやだ、お上手ね。あなたのお父さんにそっくりだわ」


 おっと、今のは聞かなかったことにしよう。

 母上はああ見えてかなり嫉妬深いからな。

 親父の寿命を縮めることは、僕も望んじゃいないぜ。 


「陽菜に会っていくわよね? あの子、学校でイヤなことがあったとかで、昨日から部屋に籠もったっきり出てこないのよ。イジメとかじゃないらしいんだけど、アッくん……あ、ごめんなさい、アサキくんは何か知ってたりする?」


 やべえ、こんな超絶美女の未亡人からあだ名呼びとかされちゃったら、耳から脳みそが蕩け出てしまう。


「アッくんで良いですよ。陽菜さん、イジメとかじゃないんですけど、ちょっと心当たりがあるのでお話をさせてもらってもいいですか?」

「もちろんよ。上がってちょうだい。陽菜の部屋はそこの階段を上がってすぐ右の部屋だから、声をかけてあげて。わたしは何か飲みものでも入れてくるわね」

「どうぞお構いなく」


 廊下の奥に消えていく翠川のお母さんを見送って、僕は翠川邸に上がらせてもらった。

 そのまま階段を上り、言われたとおりすぐ右手の扉の前に立つ。

 部屋の扉には『HARUNA』と不細工な字で彫られた表札がかけられていた。

 ――小学生のころ、学校の授業で僕が作ったものだ。

 あのとき、図画工作の時間に僕らはお互いの表札を作り合った。

 僕の部屋にも、同じように不細工な文字で彫られた表札がかかっている。


「翠川さん」


 軽くノックをして、扉越しに声をかける。

 反応はない。ただ、扉の向こうで何かが動く気配はした。


「翠川さん」


 もう一度、声をかける。

 今度はまったく反応がなかった。


 これは何度も呼びかければ良いパターンか?

 それとも、正しいキーワードを言えば開くパターンか?


 まあ、本当のことを言えば……。

 扉を開くための言葉なんて、最初から分かっていたのだ。


「アンドー」


 扉が開いた。

 パジャマ姿の翠川が、大きく目を見開いてそこに立っていた。


「ごめんな、アンドー」


 僕はそんな翠川の顔を見上げてから、頭を下げた。


 その瞬間、僕は思いっきり腕を掴まれて部屋の中に引きずり込まれた。

 バタンッと部屋の扉が閉まり、そのまま僕は信じられないほどの力で抱きしめられた。

 うおおお、おっぱいで顔が包み込まれる! ここが楽園か!

 しかも、ブラをつけてないぞ! パジャマの隙間から生肌に触れてる!

 生おっぱいだ! 生ぱふぱふだ! ワッショイ! ワッショイ!


「ごめん……わたしも、ごめんね、アッくん……」


 頭の上のほうから、涙まじりの翠川の声が聞こえてくる。


「本当は、あんなこと、言うつもりじゃなかった……」


 あんなこと――か。

 それはきっと、ついこの間、特別教室で放たれた言葉のことではない。

 あの夏の日、物別れになってしまったときのあの言葉のことだ。


 僕は自分の煩悩を抑え込みながら背中をヨシヨシしてあげると、ゆっくりと翠川の体を押してその腕の中から離脱した。

 こんなところ、おばさんに見つかったらヤバいしな。


「飯塚から、ぜんぶ聞いたよ」


 翠川の肩がビクッと揺れる。


「あのスケッチブックを落としたのも、飯塚のアイディア?」


 コクンと翠川が頷く。


 そうか……安心したぜ。

 つまり、おちんちんに興味津々な美少女なんてはじめから存在しなかったのだ。

 すべては飯塚によってプロデュースされたシモネタエンターテインメントだった。

 やっぱり、一人くらいは身の周りに正統派な美少女がいてほしいもんな。

 

「……その、それは……」


 ――と、翠川の頬が赤く染まる。

 そして、もじもじとしながら俺の手を取ると、そっと自分の胸の上に重ねてきた。


「……おちんちんとか……エッチなことに興味があるのは……ほんとなの……」


 なん……だと……? くっ……僕は死んだ!

 言葉は甘く、指先には柔らかな双丘の感触——耳からも指先からもエッチの波動が押し寄せてくるのを感じる!

 これは本当に現実か……?

 このままでは脳も体も文字どおり骨抜きにされてしまう!

 ――いや、まだだ! まだ死ぬわけにはいかない!

 僕には守るべきものがあるんだ!


「み、翠川、僕が美術室で言ったこと、覚えてる?」


 じっと正面から翠川の顔を見上げる。

 翠川は、何やら蕩けたような表情で僕を見下ろしていた。ヤベエな。


「覚えてる……でも、わたしにとって、この人しかいないって人は、アッくんしか……」

「いや、でも、ひょっとしたら、これからもっと良い人が現れるかもしれない!」

「……じゃあ、アッくんは、その人と、わたしがエッチなことしても、良いの!?」


 うお!? 急に気配が変わった!?


 翠川の僕の手を握る力が明らかに強くなる。握り潰される勢いだ。

 そのまま翠川は僕の手を前に押し出してくると、両足を踏ん張りながら体ごと押し倒そうとするように体重をかけてきた。

 ヤバい! 凄まじい膂力だ! こいつ、本当にあの翠川か!?

 僕だからなんとか耐えられているが、普通の人間だったら確実に押し倒されてるぞ!


「それは、絶対に嫌だけど……!」


 翠川の力を真っ向から押し返しつつ、僕が答える。


「だったら! わたしと、エッチなこと、して!」


 ぐぬぬ、またしても耳からエッチの波動が!

 あと、翠川の汗の匂いかなにかしらないけど、すごいエッチな匂いがする! 

 というか、こいつ、マジだ!

 本気の本気で僕のことを押し倒しにきてやがる!

 飯塚なんか目じゃねぇ!

 とんでもないモンスターを覚醒させちまった!


「で、できない!」

「なんで!?」

「ど、童貞を拗らせてるから!」


 我ながらすごい理由だ。


「そんなの、わたしが散らしてあげる……っ!」


 ――と、そのとき、部屋の扉が開いた。


「ごめんなさい、お待たせしちゃったわね。ケーキもあるんだけど、アッくんはチョコとストロベリーだったらどっちが好きかしら? ……って、あら?」


 お盆にティーカップを乗せた翠川のお母さんだった。

 めっちゃ良い香りがする。

 これはたぶんティーパックとかの安物じゃない本物の紅茶だな。


 というか、マジで女神の降臨だ。

 僕はなんとか僕たちの純潔を守り切ることに成功したのだ。


「プロレスごっこだなんて、もうすっかり仲直りしたのね! あなたたち、ほんとに昔から格闘ごっことかプロレスごっことか好きだったものねえ」


 お母さんはコロコロと笑っている。

 よかった、この人の中では僕たちの関係はあの夏の日のままなのだ。

 すっかり気勢を失った翠川は、風船みたいに頬を膨らましてそっぽを向いてしまった。

 まあいい。今日のところはお茶だけ頂戴してさっさと退散しよう。


 僕たちには明日がある。明後日もある。ずーっと未来に続いていく。

 翠川が明日を散らそうとするなら、僕はその明日を守ろう。

 そうして連なっていく日々の果てに、変化があるならば受け入れればいい。


「アッくんにケーキなんていらない。どっちもわたしが食べる」


 完全にむくれてしまった翠川の横顔に、僕は少し不安な未来を予感する。

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