豊かな暮らし

ぽんぽん丸

豊かな暮らし

疲労した人間の匂い。

疲労して酒を飲んだ人間の匂い。

疲労して酒を飲んだ人間の吐瀉物の匂い。


終電は平日でも満員だ。隣の車両に繋がる連結ドアに大勢が向かう。私はその最後尾にいる。


隣の車両も満員だ。背伸びして覗くと連結部の激しい揺れに人が揺られてしんどそうにしている。新たな吐瀉物を生むわけにもいかず私は結局吐いた男から2mほどしか距離をとれずにいる。


「息してなくない?」


私の横で一日を過ごして綺麗なメイクを崩した女性がそうつぶやいた。彼女の友人はもうそちらへ目線もくれずにただ押し黙っている。


確かに吐いた男はそれ以来ぴくりとも動いていない。ただつり革の方へと顔を向けていっそ気持ちよさそうにさえ見える。


死ぬときはああいう風なのかもしれない。


幸いなことに次の駅が自宅だった。車両端に詰め寄った我々は一つの塊になって電車の減速に合わせて同じように揺れた。私は吐瀉物と吐いた男を見ていた。吐瀉物も慣性に従って我々と同じように揺れた。男は慣性に耐えずに柔らかい座席に倒れ込んだ。さっきの女性は死んでない?と改めて声をあげた。そしてやはり友人はそちらを見もしなかった。


終電まで運ばれる死体かもしれない男を避けながら私は開いたドアに急いだ。


改札をくぐる。衣服が匂いを吸い取っていてまだ吐瀉物の近くにいる気がした。


駅の出口からロータリーを抜ける。線路の下を潜る地下道を通る。満員電車からは20人近く降りた。そこから地下道の階段を下りた人数は私の他に4人。


同じ地域に住む知らない人。等間隔に設置された蛍光灯の下をくぐる度に鮮明に見えて観察する。4人の人間の特徴を掴む。地下道の階段を上る。


スーツパンツを履いたメガネの長髪の女性はすぐにタバコと酒の自販機のところを折れていなくなった。大きなリュックを背負った男はこの通り沿いの2階建ての古いアパートに入っていった。ギターケースを背負った若者は川沿いの道に出たところで橋を渡って対岸の住宅街に消えていった。


恰幅の良い中年のおじさんと私だけになった。


この川沿いの道は静かだ。川と道の間には細長い公園のような場所がしばらくの距離整備されている。左手には大きなリュックの男が住んでいたようなサイズ感のアパートが並ぶ。


もしも今暴漢に襲われたら私が死ぬまでに助けがくるのだろうかと考えてみた。あのおじさんは助けてくれるようには見えない。私は後ろを振り返る。右手は川だ。左側の細い道の奥の方まで目を凝らす。そうしていると右側の公園にこそ暴漢が潜んでいるのではないかと勘繰ってしまう。


いよいよおじさんにも疑いが及ぶ。あのおじさんは駅から先頭を歩いている。6mほど先を同じペースで進んでいる。人を襲うのなら私のように観察したりはしないのではないだろうか。その気配を消してただ背中に感じる足音が減ったら頃合いで振り返り何かコンビニで買い物でも忘れて引き返すフリをして、すれ違いざまに刃物でも突き立ててしまえばいい。その方がよっぽど警戒しようがない。


もし私が人を襲うなら背後からなんてありきたりな方法をとらずにそうする。ならおじさんはもう容疑者と言っていいのかもしれない。


そんなことを考えているとちょうど交番を通りすぎる時におじさんは来た道を、私の方を振り返った。私は咄嗟に視線をスマホに移して見ていないふりをする。


スマホのホーム画面の時計は12時を過ぎていた。5時間後には起きて仕事に行かなければいけない。


何事もなくおじさんの後に続き交番の横を通り過ぎる。交番の蛍光灯は少し緑っぽく見えた。誰もいない室内の机に固定電話が一つ置かれているだけだった。前を向くとおじさんはいなかった。


私はあと5分ほどおじさんの向かった方向へと進まなければならない。私は左側の細い道も、左側の川べりの公園の茂みも、後ろにも警戒を向けることをやめた。ただ前を見て歩いた。


おじさんが私を襲うのなら、反射的に蹴りを入れて距離をとり走り出さなければいけない。またもし茂みに屈んで潜むおじさんを見つけてしまえば先制して手に下げたカバンを投げつけて怯んでいるうちに首を狙ってやはり蹴りを入れなければならない。どこかに意識を向けていては間に合わないかもしれない。


何事もなく自宅のマンションに到着する。


玄関のドアを開ける。冷房をつける。ネクタイをほどいてシャツを脱ぐ。風呂に入ろうか迷う。そういえば嘔吐物の臭い。記憶を遡るついでになぜおじさんが襲ってくる妄想をしたのかを考えしまう。小学生の頃を思い出した。


シャワーを浴びる。


あのころは教室に凶悪な人間が押し入ってきたら机や椅子を投げつけて精一杯懲らしめてやろうと妄想した。教室の入り口には谷口さんが座っていて彼女は臆病だからその場で動けないかもしれない。そうなると物を投げることはできない。机を体の前にかかえて突進する方法が最適だと今もそう思う。バスルームから出る。


ふと、部屋を見回すと1人。

両親も亡くして兄弟もいない。従妹や叔父叔母は血縁以外は他人。


11時まで働いて、今から4時間後には起きて出勤する。


その甲斐あって買ったソファーに腰をかけて海外の軟水のボトルを開けて飲む。馬革のソファーは二人掛けだが私以外が座ったことはない。馬が好きだからとその死骸からはぎ取った革でこしらえたソファーを買ったことを思い出す。


理屈で言えばこのソファーに座る人とも十分に打ち解けたら革をはいでソファーにしてしまうかもしれない。中央だけがくたびれたソファーは当然に出来上がったものなのだ。


家賃は月16万円で家財を全部合わせると500万円くらいになる。


美味しいパンが焼けるらしいトースター。冷風凍結機能の付いた調味料しか入っていない冷蔵庫。4本だけ入る小さな貯蔵庫には1本だけ良いシャンパンを2年も寝かしてある。玄関の敷物も読めない名前のセレクトショップで3万円後半した。


友達と100円で駄菓子屋をたくさん買った日を思い出してすぐに寝室に向かった。湿度を調整した上にフィルターを通った清浄な空気を吸い、スイスダックの羽毛に包まれても、4万9000円のシルクの寝巻に包まれても私は眠れない。


明日は仕事を定時で切り上げて気晴らしにジムに行こう。いや都会には必要ないと思ったけど免許をもう一度とる準備をしよう。車を買おう。もう職場の側にも駐車場を借りよう。会社の人に見られるから高級車がいい。いやその前に犬を飼おう。それがいい。そうしなければいけない。


大きくなってお金を稼いで誰もいない豊かな暮らし。私のヒロイズムは死んでいた。

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