音楽都市

左原伊純

第1話「早まらないでください!」

「いい加減にしろよな!」


 光月こうきのランドセルを乱暴に取り上げたクラスメートは、しゅんが登場するとすぐに退散した。

 隼は、涙目の光月に手を差し出す。

 それはよくあることだった。


「隼くん、僕ね、やりたい事があるんだ」


 またか、と隼は思った。


 夏休みを間近にした、暑い夏の日だった。蝉が鳴いている。一緒に帰っている通学路の曲がり角を、まっすぐ進めばすぐに隼の家があり、曲がればすぐに光月の家がある。

 光月がぱっちりした瞳を輝かせて、今か今かと隼の返事を待っている。色白の肌で、顔に汗をかかない。

 光月が何かをやりたがるのは、今に始まった事ではない。


「何をやりたいの?」


 隼は目を細めた。汗がこめかみを伝った。

 今度は、と言葉の頭に付けるのは、さすがに意地悪だと思ってやめておいた。


「絵のコンクールに出したくてね。隼くんも出さない?」


 隼はすぐに頷いた。絵描きを目指すわけではないのだから、絵なんて適当に描けばいいと思った。

 小学三年生の絵のコンクールに出すため、隼は家から徒歩十分の田んぼの絵を描いた。

 光月は想像上の景色を描いているみたいだった。

 夏休み明けに、コンクールの結果が出た。隼は奨励賞を貰い、光月は何も貰えなかった。

 またか、と隼は思った。

 前の作文コンクールも、貯金箱コンテストも、似たような結果だったから。


「絵も駄目かあ」


 学校の廊下の壁の掲示板に貼られた結果を見上げながら、光月はそれだけを言うと、ぱっと明るい顔で隼を見た。


「僕ね、やりたい事があるんだ」


 またか、と隼は思った。

 光月くんは仕方のない奴だ、何をしたって……と思っていたところは確かにあった。

 だけど、次は何なのか、隼は光月の言葉を楽しみに待っていた。光月が何かを見つけるという事は、隼の世界を広げる事だった。隼一人では絵も貯金箱も描いたり作ったりしようと思い付かない。

 いつか光月に合うものがあればいいと、幼いなりに思っていた。

 そうすれば、二人でずっと一緒にやりたい。


☆☆



 まだ暗い明け方に、隼はギターケースを背負い、巨大な螺旋階段を上っている。足取りは軽い。ギターの重みが心地いい。島の防波堤である壁の上へ上る階段だ。二百数十段を上り切った。壁の上に立ち、黒い柵越しに海を見ている。

 残念ながら初日の出は天気が悪く見られなかった。波がうねるかの様な荒天には、参った。

 それから三日後。世間では仕事始めの朝だが、この島の街では年末年始など一切関係ない。

 海はいい。どこの常識にも染まらず気ままに海面がうねる。水平線からこれから上るぞと、太陽が光をこぼしてきた。隼が照らされる。

 眉がすっかり見える短髪だ。奥二重の目に、まっすぐな眉と鼻筋と唇。顎が細い。細身な体だが鍛えており、少なくとも毎朝二百数十段をギターを背負って上り下りできる。

 朝焼けで桃色のようなオレンジに染まる海面に、隼は目を奪われる。海面が絶え間なく動く様は、波が重なり合ったり、ずれたりしているように見えた。人の群れに似ている。くっついたり、離れたり……。


「待ってー!」


 突然、オレンジ色の空に、切羽詰まった少女の声が響き渡った。

 どん、どんと大きな音を立てて階段を駆け上がってくる。

 ここは俺の特別な場所であってほしかった……と思っていると、


「早まらないでください!」


「え?」


 少女が、細い腕なのに意外な力強さで、がっしりと抱きついてきた。

 隼より頭一つ分背が低い。年も隼より二つか三つ下だろう。

 丸くてまつ毛が豊かな瞳に至近距離で上目遣いで見上げられて、隼は困る。鼻も唇も小さくて可愛らしい。

 問題は、彼女が隙間なくぴったりとくっついてくる事だ。サイドテールの髪の爽やかで甘い香りまで分かる距離に、二十一才の隼は戸惑うばかりだ。


「なんなんだ! お前……いや、君は!」


「死なないでください!」


「はあ?」


 眉間に皺を寄せた隼の反応を窺った少女は、そっと体を離した。ようやく二人の間に空間ができた。


「だ、だって……」


 必死に息を整え、彼女は姿勢を正した。

 グレーのピーコートとデニムのワイドパンツを着ている。普通の格好だが、どちらも安物ではなくいい品であると、ファッションに詳しくない隼の目にも分かった。


「……死んで、しまわれるのかと思って」


「なんで?」


「だって、こんなに高いところに!」


「ギター背負って死ぬか?」


 隼は本気でそう言った。死ぬなら置いて行くだろうと。

 しかし、彼女はすっと表情を鎮めた。


「むしろ、死ぬからこそ持ってくるのではありませんか。私ならそうしたい」


 はっとして、隼の呼吸が一拍乱れた。

 音楽で生きるためにここに来た者が、例えここで死ぬとしたら、音楽と心中するものなのではないか。そのことが全く頭に無かった自分を恥じた。


「まあ、私の場合はキーボードだから持って来るのが大変ですが……」


 張り詰めた空気を、彼女なりに和らげようとしたのだろう。彼女は遠慮がちながらも笑みを見せた。

 キーボードか。ギタリスト、ベーシスト、ドラマーよりも、キーボーダーは少ない。組みたがるバンド同士がこの少女を取り合いになるかもしれないなと、隼は彼女の明るい未来を考えて微笑んだ。


「あの、それなら何故こんな所にいらっしゃるのですか?」


「ここが好きだからだよ。ほら、海が見えるだろう」


 大海原を開いた掌で示す。彼女は素直に顔を向けたが、少し不満そうな顔をした。


「あの」


 彼女は海を見るのをやめて、自分より背の高い隼を見上げた。


「確かに海はいいですが、島を出て行く時に見た方が格別だと思うのですが」


 少女は隼に大打撃を与えた。隼は波の音だけを聞く顔をした。海はいい。

 それにしても、えらく丁寧な喋り方をするものだと、隼は気になった。


「……ギターを弾いていたんですね」


「……うん」


 しばらく少女は隼を心配そうに見ていたが、日差しが強くなって来ると、背を向けた。


「失礼しました」


 彼女は階段を下りて行った。

 とんだ邪魔が入ったなと、隼は細い目をさらに細めた。だけど、もう大丈夫。

 隼は、背負っていたギターケースを大切にコンクリートの上に置くと、静かにファスナーを開いた。初めてのギターの次に買った、二代目のギターはブラウンのボディのレスポールで、見た目はよくあるものだった。だけど、たった一本の隼の相棒。シールドを繋がず、そのまんまの音を海に向かって鳴らす。アンプに繋いでいないエレキギターの音は、とても空と海まで届かない。それでも、曲を奏でた。

 そしてギターに合わせて歌う。誰に聴かせるためでもない。

 歌い終え、最後の一弦を押さえて音を止めると、誰にも見せない笑顔で隼はギターケースを開き、相棒を大切に収めた。そして二百数十段の階段を下りて行こうとした。


「うわ!」


 驚いた。

 さっきの少女がまだ壁の上にいたのだ。弾き語りに夢中で気が付かなかった。


「なんなんだ!」


「すみません! 歌が聴こえたので!」


 少女は何かを決意したように息を吸い込むと、


「私とバンドを組んでいただけませんか!」


 一気にそう言った。

 隼が硬直している隙に、


「あなたの歌とギターが素敵だと思いました!」


 彼女は大きな声で補足した。


「……悪いけど」


 彼女は少し沈黙してから、


「私は由宇ゆうといいます。自由の由に宇宙の宇」


 いい名前だねと口にする気はない。


「……ご縁があれば」


「あれば」


 隼の短い返事をどう思ったか。


「……では、失礼いたします」


 とん、とん、と由宇が階段を降りる音が響いた。


 太平洋にある外界から閉ざされたその円形の孤島は、等間隔に並ぶ六つの小さな港以外は、岸の全てをコンクリートの堤防でぐるりと覆われている。本来は、海底に放射性廃棄物を埋めるための、住み込みの研究施設として作られた人工島だったが、その研究はだいぶ前に頓挫した。

 この島は棄てられた研究施設から、姿を変えた。分厚い特殊なコンクリートの構造に目を付けたのは、音楽会社だった。強靭な音響施設に改造したのだ。


 ここは海の上の音楽都市。

 この島に住むということは、三年間毎日オーディションにその身を晒すということだ。入島してから、最低三年間は出られない。毎晩ライブが行われ、それぞれが自分の考えでライブに出たり、時には観客になったりして過ごす。ライブは配信されており、島の外からいつでも見てもらえるチャンスがある。さらに、数社の音楽会社にも動画配信されており、実力を認められた者だけがデビューという最高の形で島を出ていく。


 隼は光月と共に高校卒業と同時に入島した。

 まるで円柱のような音楽都市は、一階から三階まである。街の人達は一層、二層、三層と呼んでいる。階層と人の層をかけた呼び名だ。隼は一層から、壁に内側から沿う巨大な螺旋階段を上って、二層と三層を越えて壁の上に来た。

 地上からは一切海が見えないので、わざわざ一時間かけて日の出を見るのが隼の日課だ。


 三年間のうちにデビューできなかった者はおとなしく出ていくか、追加料金を払って島に残るか、選択をつきつけられる。

 隼が階段を全て下りてアパートの自室に帰宅すると、朝八時だった。汗を拭い、シャワーでも浴びようかと考えていると、外から人々の行きかう声が聞こえてきた。

 ライブ後の清掃と打ち上げが終わり、朝帰りをしてきた人たちだった。隼はため息を一つつくと、服を脱いだ。

 シャワーの音に包まれていると、嫌でも脳が勝手にいろいろと考え始める。


 本当は、毎朝健康的に二百数十段を上り下りする運動をする島ではない。どこかの会社の誰かが目にすることを目指し、夜中までギターをかき鳴らすのが、この島での健康だった。


 隼は、あと三か月で――三月いっぱいで――三年の区切りを迎える。

 残る理由は、既に探したが、無かった。

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