どこにも行けない
@nonebutair
#1 静かな生活
よく"彼女"の夢を見る。
彼女との関係は2年に渡った。一般的に言ってそこまで深い関係ではなかったし、たったの2年と言うこともできる。でも、僕にとっては重い2年だった。彼女のことは、仮にエスと呼ぶ。
夢の話をする。僕はビルの屋上にいる。地面は乾いた血に染まっている。四方を囲むフェンスは錆びて変色している。濃い霧が視界を遮っている。霧に覆われた、血と錆の世界。ここには出口がない。僕はそこで立ち尽くしている。耳を澄ますと、啜り泣くような声が聞こえる。とても静かな声。エスがどこかで僕のために泣いている。でも僕はどこにも行けない。ここには出口がない。
そんな夢だ。
目が覚める。ここはどこだろう、と思う。啜り泣く声が脳内で反響している。夢の感触はまだ残っている。ここはどこだろう、と再び思う。飲み残したビールの缶が倒れて床を汚している。片付けようとして、ベッドから立ち上がる。部屋の空気が、配置された家具の一つ一つが、ここがおまえの居るところなのだと主張し始める。外はまだ薄暗い。誰が僕のために泣くのだろう。僕の欲動が夢で表現されているに過ぎない。雑巾で床を拭き、飲み残しを流しに捨てた僕は、さて、と思う。思うだけでなく、小さく声に出してみる。
さて。
とりあえず、お風呂に湯をはろう。
早朝、徐々に明るさを取り戻している浴室で、湯船に浸かるのは好きだ。何か新しいことが始まるような、少しだけ浮ついた気分になる。僕はそこで何時間もiPhoneで音楽を聴いたり、小説を読んだりする。暗い水色をたたえていた曇りガラスは、いまやくぐもった光をあふれさせるままにしている。僕はぬるま湯のなかで手足を伸ばしてみる。白くて、細くて、骨ばっている。あまり健康的には見えない。
お風呂から上がってドライヤーの熱風と騒音を浴びていると、絶望が顔を出してくる。やあ、と。それはいつも僕の背後にいて、ほんの少しでも隙を見せると僕を捕まえてしまう。でも、四六時中警戒することはできない。僕は快適に一日を過ごすためにドライヤーを浴びなければならないし、生命を維持するためにパスタを茹でなければならない。絶望がもっとも活動的なのは、夜、ベッドで横になっているとき。絶望は僕に孤独を感じさせながら、僕を一人にしておいてくれない。
僕は大学に在籍している間、就職活動を一切しなかった。見かねたゼミの担任から、大学院への進学を控え目に勧められたけれど、学力もモチベーションも足りていないことは分かっていた。卒業後は、週に二日だけアルバイトをして生活している。江古田の、父親の名義で借りたアパートで、仕送りを受けながら。
それに、僕には一人も友人がいない。静かな生活。怠惰で無為な日々。実際には何も始まらない。僕の周りだけ時間が滞っている。でも、それで構わないと思っている。至るところにエスの不在を見出しているのだから、それどころではない。一人で目覚めるベッド、聴き慣れた音楽、都心の圧倒的な人混み、誰もいない平日のミニシアター、待ち合わせに利用していた喫茶店。僕はあまねく不在を悼んでいる。
僕はエスに手紙を書こうと思いつく。読まれるあてのない手紙。僕は彼女の現住所さえ知らない。だからこれは、自分のために書く手紙なのだろう。あるいは、あの啜り泣く声に応えるために。
駅前の書店で、便箋とペン、ついでに文庫化された小説を何冊か買う。ペンを持つのは久しぶりだ。手に力を入れすぎてしまって、初めの数行で何度も書き損じた。思考や感情を言葉に変換できないもどかしさは、どこか懐かしい。
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