第49話 文化祭二日目⑥

「な」


 言いかけて声が詰まる。喉奥に飲み込めない何かを引っ掛けてしまったように上手く言葉が紡げない。

 皆の視線を悠然と横切り、神楽坂は舞台の中央――すなわち俺の方に向かって足を進める。その仕草には何の飾りつけも、演技もない。ただ他の人間と同じように歩いているだけだ。

 にも関わらず、それがあたかも演劇の中の一場面のように思えてしまって、俺は思わず目を引かれた。静謐に包まれた体育館内を自在に闊歩する神楽坂の足音は痛いくらいに響き渡っていて、まるで彼女の存在感を物語るようですらあった。


「――ん、でお前が、こんなところに」

「あら随分な言い草じゃない。天ヶ瀬くんが何やら愉快そうなイベントに出場すると聞いたものだからお手伝いしに来てあげたのよ」


 神楽坂はすっとぼけたようにくすりと笑った。こちらがそんな答えを聞きたいわけじゃないと理解した上で曖昧に受け流してくる。まともに反応してしまえばそれこそ神楽坂の思う壺だろう。俺は彼女のペースに飲まれぬよう、小さく下唇を噛み締めた。


 正直、わけがわからなかった。わからないなりに事態を掌握すべく俺は必死に思考を回すが、目の前にある現実――すなわち神楽坂は杠葉の代わりに俺の相手役を務めるべく登場してきたらしいということ以外の真実には辿り着けない。事態の全体像を類推するにはあまりにも材料が不足していた。

 杠葉が俺との約束を放り出すようなことはまず考えられない。無論、手を回したのは神楽坂なのだろう。


 しかし既にここは土俵の上、状況は待ったなしだ。


 今さらのように遅れて広がるざわめき。

 この学校で神楽坂のことを知らない人間は少ない――というかほとんどいないと言っても過言ではないだろう。その美貌は学年を超えて話題になっている。だがそれと同じくらい、神楽坂が誰に対しても距離を置き、決して心を開かないタイプであるということは周知の事実だった。


 その神楽坂が告白イベントの相手役として登壇している。

 観客たちの混乱が痛いほど伝わってくるようだった。


「――ッ」


 俺が混乱に揺れる様子を、いつの間にか目の前まで迫っていた神楽坂はどこか楽しげに眺めていた。至近距離からその視線を浴びるたび、鼓動が一段と早くなる。


 気づけば、ステージ上に残っているのは俺と神楽坂の二人だけであった。

 数メートルも離れていない――手を伸ばせば届くような距離に、二人きり。


 他の参加者や司会の生徒は、いつの間にか舞台袖に退避している。いや、退避したというか避難したという方がニュアンスとしては近いかもしれない。叶うならば俺も同じように逃げたい。いやマジで。舞台袖までであれば、今ならガゼルよりも速く走れる自信がある。


 しかしそうもいかない。

 既に俺と、そして神楽坂の傍らにはスタンドマイクが準備されていた。いったいいつの間に準備したのだろう。随分と手際のいい実行委員だ。その手際の良さがあるなら神楽坂を止められたんじゃないかねと小一時間ほど問いただしたいところである。


 このスタンドマイクはそのまま使うもよし、マイクだけ手に取って動きを付けながらセリフを伝えてもよし、シチュエーションの再現の仕方は参加者の裁量に任されている。


 裏を返せば、このスタンドマイクが設置されてしまった時点で、告白シチュエーション対決は既に開始されているということだ。


 先ほどまでのざわめきはどこへやら、痛いほどの静寂が会場を包み込んでいた。しかしそれが故に、ごくたまに聞こえてくる好奇の小声が耳に届く。どうやら観客としては、純粋な告白シチュエーションを楽しむというよりは、『代打男子』と『学校一の美女』がどういった化学反応を起こすか興味津々といった感じらしい。いよいよ見世物らしくなってきやがった。


 マイクに乗せないよう注意をしながら舌打ちを一つ。

 それを聞きとめた神楽坂は聖女のような、それでいてどこか小悪魔じみた笑みを浮かべる。


「いいのよ、私を舞台上に一人残して逃げてしまっても」

「……出来るわけねぇだろ、そんなこと」


 俺と神楽坂は観客に聞かれないギリギリの小声で言葉を交わす。

 この土壇場で、この観客の前で全てを放り投げるような思い切りの良い芸当が出来る人間には育てられていない。それを幸いと言うべきか残念と言うべきか悩ましいところだけれど。


「では、どうするの?」


 神楽坂の声は尚も穏やかだった。

 まるですべてを見透かしているかのように。

 答えはわかりきっているとばかりに。


「……やるよ」


 神楽坂の思惑に乗せられていることはよくわかっている。だからこそ、その言葉を吐き出すのに、少しだけ時間がかかった。


 実際、ステージ上でアクションを起こさない俺たちに対する観客の目線もそろそろ気になってくる頃だった。とはいえ、事前に準備していたシチュエーションには相手方の協力も必須だ。打ち合わせなしでは再現出来ない。

 となれば――もはや即興で口説き文句を練り上げるしか残された道は存在しない。


 ……マジでどんな罰ゲームだよ、これ。


「えー、その……」


 恐る恐るマイクを口元に近づけるが、緊張と焦燥で思考は真っ白に凍りつき、まともな言葉は何一つ浮かんでこない。焦れば焦るほど思考が遠ざかっていくような、そんな気すらしてくる。

 観客から向けられる視線が容赦なく俺を押し潰していく。脂汗が全身から吹き出し、既に口の中はカラカラに渇ききっていた。


「大丈夫よ、天ヶ瀬くん」


 唐突に、神楽坂の声が降ってきた。

 マイクには乗らない、俺にだけ届く声で。


「あなたと私の出会いを、これまでの関係をそのまま話してみて。きっと、それだけで大丈夫だから」


 それはいつも通り抑揚の感じられない小さな声であったが、余裕のない今の俺にとってはこれ以上ないくらい心地よい言葉で、魅力的な提案に思えた。


 さながら暗闇に浮かび上がる光明のように。

 あるいは地獄の淵に垂らされた蜘蛛の糸のように。


 それに縋りつく以外の選択肢はとうに消え失せていた。ささやき女将に言われるがまま喋ってしまった息子の気持ちがよくわかる。


 ――冷静になって振り返ってみれば、そもそもこんな事態を作り出した神楽坂の提案をありがたがるのはどう考えてもおかしいし、自分に都合のいい状況に持っていきたい神楽坂の甘言でしかなかったのだけれど、そんなことにまで思考を回す余裕はもはや存在しなかった。


「……君に初めて会ったのは二年前だったよな」


 覚束ないながらも、記憶を辿るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

 気が付けば観客のざわめきはすっかり消え失せていた。


「まぁ……と言っても、言われるまで俺はすっかりそのことを忘れてしまっていたのだけれど……いや、その、そのことに関してはマジですまん。こればっかりは薄情だって言われても仕方ねぇ。でも、今ならはっきりと思い出せるよ。君はその頃の自分のことを何者でもなかっただなんて言っていたけれど、少なくとも俺の記憶の中では、名前も知らない君は――十分に只者じゃなかったよ」


 神楽坂を見たのはほんの一瞬だった。けれど、そのわずかな時間で彼女の印象は心に強く刻まれている。ほんの少し幼さの残る美しい顔立ち。それは、それまでに出会ったどんな女子よりも綺麗で、それでいて儚い存在のように思えた。

 だからこそ、当時の彼女が今の神楽坂と結びつかなかった理由も今なら理解できる。外見が大人びただけでなく、その存在感がまるで別物だったからだ。今の神楽坂には、より強く、深く根を張ったような揺るぎない力が感じられる。

 もちろん、神楽坂からしてみれば、こんなものは単なる言い訳に過ぎないのだろうけれど。


 ふと神楽坂と視線が交差する。彼女は何も言わず、ただ静かに俺の言葉を待っていた。

 その瞳の奥にどんな感情と思惑が潜んでいるのか、俺にはまだわからない。


「今年に入ってから、ようやくちゃんと話をするようになったけれど……やっぱり君は只者じゃなかった。どこにいても確固たる自分を持ち続けていたし、この世界に君という人間は一人しかいないことを強く思わせてくれた」


 それは彼女の容姿だけの話じゃない。神楽坂が全校生徒から尊敬と畏怖を集める存在になったのは、どんな時でも自分を貫き通してきたからだ。彼女が周囲に流されるただの女子高生だったとしたら、たとえ今と同じ容姿でもここまでの存在感はなかっただろう。


「君は何者でもない存在に憧れていたと言ったけどさ、それと同じくらい、いつだって何者かで在り続けた君のことを俺は羨ましく思っていたんだよ」


 帰宅タイムアタックに挑み続けた日々、同じ時間帯で同じように駅のホームで列車を待つ神楽坂のことを、俺は自然と目で追ってしまっていた。

 学年で一番ともてはやされる女の子が、自分と同じような境遇にある。それがたとえちっぽけなことであったとしても浮足立ってしまうのが男子高校生というものだろう。誰が俺のことを責められようか。


「だから、君に協力してほしいと言われた時、なんだか俺の存在を認めてもらえたような気がして――ダメだとわかっていても、ほんの少しだけ嬉しく思ってしまった」


 そう口にしたところで、俺はなんとなく自分の核心に辿り着いたような気がした。


 思い浮かべたのは、もう一人の女の子。

 どうして俺は、尤もらしい理由をつけてまで彼女を手伝うことにしたのか。

 それがようやくわかったような気がする。


 多分俺はになりたかったんだと思う。

 いや――きっと今でもそう思っている。

 誰かの役に立つことで自分の存在を認めてもらえるような気がする――そんな幼稚な感情が、ずっと心の奥底にあったんだ。


「君と一緒にいれば、君の隣を歩き続けることが出来れば、いつか俺も何者かになれるんじゃないかってそう思うんだ。だから――っ」


 堰を切ったように溢れていく感情。俺は誰に向けた言葉かもわからないまま、それでも思うがままに言葉を並べていく。目の前の神楽坂に向けた感情のようでもあるし、今ここにはいない杠葉に対する想いのようでもあった。きっとそれはどちらも間違っていないんだろう。


 だからこそ――。


「――っ」


 俺はその先の言葉を想像し、足踏みする。

 ……大丈夫、これはあくまで演技の告白だ。神楽坂に対してその言葉を紡いだとて、この先何かが変わることなんてない。

 そう自分を納得させ、俺はゆっくりと口を開いた。

 

「――俺と、付き合ってください」

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