正直は軽はずみ

あべせい

正直は軽はずみ



「わたし、気まぐれだから……。ついついやってしまうのよ」

「鮎美、気まぐれ、なんて、気安く言わないほうがいいよ」

「どうしてよッ」

「いまキミは、『同僚男性からきたメールには、返信するときも、しないときもある。わたし、気まぐれなの』って、言ったね」

「そうよ。本当に気まぐれだもの」

 職場の男女がファミレスで食事をしながら話をしている。

 男は桑形聡志(くわかたさとし)、女は岬多鮎美(さきたあゆみ)、ともに28才の独身だ。

 2人は、中規模のスーパーマーケットに勤務する同僚。ほぼ同時期に採用され、勤続3年になる。

「『気まぐれ』といえば聞こえは悪くないけれど、気まぐれは言い換えれば、『自分本意』『自分勝手』と同じ意味だ。わたし、自分勝手な女なの、と告白しているンだよ。キミって女は……」

「どういうことよッ」

「そういうことなンだよ。鮎美は、自分勝手な人間だってことだ」

「そんな自分勝手な女とよくつきあっているわね。あなた、って男は」

 この際、言い出すべきか。聡志は一瞬ためらったが、まだ早いと判断した。

 で、昨日から準備していたことを話す。

「おれは、キミがどの程度の気まぐれ女か、見極めたくて、つきあっている。それで、納得できる?」

「ううん」

 鮎美は首を横に振る。振り方が小刻みに激しい。不愉快なのだ。

「いまがいい機会だから、キミが日常よく使うことばの言い換え、すなわち本当の意味を教えてあげる」

「ずいぶん、上から目線の物言いね。まァ、いいけど。いつものことだから」

 2人は互いのアパートを行き来して、泊まったり泊まられたりの仲が、先月から始まった。職場には知られていないが、どちらか一方が、いまの職場をやめたほうがいい。2人は内心そう考えている。

「上から目線じゃない。鮎美の意見を参考にしたい。おれの考えは絶対じゃないから」

「そう言って、いつも自分のほうが正しいと決めつけているくせに。いいから、聡志さん、どうぞ」

「鮎美が若いタレントを見て、『かわいいッ』ってよく言うけれど、かわいい、というのは、『あなたは、わたしの思いのままよ』って、言っているのと同じなンだ。支配できる、自由にできる対象に対して、人は『かわいい』と言うンだ。無意識に使ったとしても、そういう気持ちがその人の根底にあるということだ」

「そうなの?」

「鮎美は、小さな人形に対して『かわいい』と言うだろう。しかし、見ても恐ろしげな怪物や野獣に対して、『かわいい』とは決して言わない」

「ええ、まァ」

「男から『かわいい』と言われて喜んでいる女は、バカとしか言いようがない。おまえはおれのものだ、自由にできる、と言われているンだから。もっとも、女には、好きな男に、自由にして欲しいと思うときがあるのは理解できるけれど、それは一時的だな。おれの経験からすると」

「でも、わたし、聡志のこと、『かわいい』って思ったことがある。つきあう前のことだけれど。一度口に出したこともある」

「そのとき、鮎美は、おれのことが自由にできると思ったンだ。失礼な話だけどな」

「あのとき、聡志はうれしくなかったンだ」

「当たり前だ。つきあう前だからシカトしたが、いまだったら……」

「いまだったら、どうなのよ」

「いまだったら、鮎美のこと、バカな女と思う。おれは鮎美の奴隷じゃない」

「それでもつきあうンだ。聡志は」

「鮎美は、職場の津木(つき)のことを『慎重』なひと、とよく言うね」

 津木は、精肉売場の担当だ。2人より5つ若く、スポーツをやっていたことから頑健な体つきをしている。年齢を問わず、職場の女性陣や女性客からも人気がある。

「都合がわるくなると、話を変えるのは、前々とちっとも変わっていない。まァ、いいか。で、慎重がどうしたって?」

「『慎重』は、『臆病』と同義語だ」

「ヘエー、津木クンは、臆病なのか。知らなかった」

「鮎美、いま津木クンと言ったね。それはよくない」

「意味がわかンない」

「どうして津木サン、じゃなくて、津木クンなンだ? 失礼だと思わないのか」

「別に。津木クン、津木クン、っていつも呼んでいるもの。聡志、やきもちやいてンの?」

「津木はいくつだ?」

「エーッと、去年、大学卒業して入社してきたから、23にはなっているわね」

「23才なら、立派な大人だ。酒も煙草もやれる大人だ。その大人をつかまえ、クンとはどういうつもりだ」

「なに、怒ってンの。聡志、大人になりなさい」

「バカ野郎!」

「バカって、なによ。そのほうが失礼じゃない」

「鮎美、よく聞くンだ。ひとが他人を呼ぶとき、クン付けできるのは、目上の者が目下の者に向かってするときだ。年齢は関係ない。例え、年下の上司であっても、年上の部下に対しては、クン付けで呼ぶ。それが一般社会の常識だ。まして、上下関係のない同僚、平の職員どうしなら、年齢がどんなに離れていようが、サン付けで呼ぶのが社会のルールというものだ」

「そうなの。知らなかった」

 鮎美が沈黙した。

 感心しているのか。そうではない。言い返せることばがないか、探しているのだ。

「わたしが津木さんのことを津木クンと呼ぶのは、親しみを込めているつもりなの。津木さんなンて、よそよそしいじゃない」

「それって、彼といま以上に親密になりたい、って願望なのか」

 聡志は、急におとなしくなった。鮎美の本心が覗き見えたから。

「そう受け取ってもらってもいいわ」

「なンだ、その言い方は。おまえは、二股をかけるつもりか。いや、すでに二股、三股かも知れない……」

 鮎美の表情が一変した。

「聡志ッ、いま、わたしのこと、オマエと言ったわね」

 聡志は、ちょっと驚き、同時にチロッと舌を出した。彼が、まずいと思ったときの癖だ。

「オマエって、失礼じゃないの。女性に対して。わたしたち、まだ結婚もしていないのよ」

「どう失礼なンだ。鮎美に対して、つきあいのある男が、『おまえ』と呼ぶ。当たり前のことだ」

「男女の関係が少し前に出来たから、って『オマエ』呼ばわりは、ないわ。聡志の理屈から言ったら、おかしいでしょ。正式に結婚してからにしてよ」

 聡志は少し、考える。鮎美と関係が出来てまだ1ヵ月足らず。1ヵ月足らずで、確かにオマエはないだろう。しかし、言い出しかけて、ここで矛を収めるのも、なんだか悔しい。

「しかし、おれは鮎美のことを心底愛している」

 エッ。鮎美は信じられないといった顔をする。

 好きだとは聞いたことがあるが、「愛している」なンてことばが、これまで聡志の口から出たことがない。

「愛している、って、別の言い方をしてくれない? あなたが普段使っていることばに言い換えてみてよ。そのほうがわかりいいから」

「ウーム」

 聡志は腕組みをする。そして、数秒後、ヨシッ、と気合いを入れた。

「愛する、愛しているの言い換えだな。『愛する』は、言い換えると『信じている』というのが一般的だが、おれが使う『愛する』は、恋する相手に、『殺されてもいい』だ」

「聡志ッ、わたし、どう返したらいいの?」

 鮎美は目を潤ませる。そして、テーブルの上で手を伸ばし、そっと聡志の手を握る。

「聡志、わたし、幸せ!」

「『幸せ』は、精神的に『充実』していることだよ」

「聡志、もういい。わかったから。わたし、いま、身も心も、充実している」

「鮎美、きれいだよ」

 聡志は、眼をうるませている鮎美を心底、美しいと感じる。

「わたし、恥ずかしい」

「『恥ずかしい』と思う気持ちは、『怖い』と思う気持ちと共通している」

「わたしは、いま怖いの? 何が怖いの?」

「出来の悪い男は、きれいな女性を見ると、邪な欲望を抱くだろう。だから、美しい鮎美は、その男たちの邪悪な欲望の前に、恐怖を抱く」

「そうなの?」

「鮎美は、いま、とっても魅力的だ。女の色気や魅力というものは、女の無力、非力から生まれる。女は、ときどき、力をなくすほうが男のハートをくすぐるンだ。男は、女の弱さに、とても弱い。おれのような男は、特に……」

「聡志、どうしたの? 聡志が女性を口説くのが、こんなに上手だなんて、知らなかった」

「口説いているンじゃない。自分の気持ちに正直に行動しているだけだ」

「正直というのは、『軽はずみ』と同義語なのよ」

「鮎美、どうして知っているンだ」

「聡志は、わたしがバカだと思っているでしょ」

「い、いや、そんなこと……」

 聡志は珍しくうろたえ、握っていた鮎美の手を離す。

「聡志はホント、自分に正直ね」

 まずい。聡志は、鮎美が眉をしかめるのをみて、慌てた。何か、言い返さないと……。

「正直って、おれのこと、軽はずみな男だと言っているのと同じ……」

「そうよ。実際、聡志はそうなンだもの。先々月だったか。私と初めてデートしたときのこと、覚えている?」

「あァ」

 聡志は、鮎美と同じ遅番で、午後9時過ぎに店を出た夜のことを思い出す。


 従業員出入り口で、互いに「おつかれさま」と言い合い、鮎美は聡志の前に出ると、ちょっと小走りに駅のほうに行った。

 鮎美は、ウキウキしているようなようすだった。

 聡志にはそのとき特定の女性はいなかった。気になっている女性は、職場を含め数人いた。鮎美はそのなかの一人だったが、その気持ちを行動に移したことはそれまでなかった。

 聡志は、アパートに帰っても何もすることがない。借りているDVDを観るくらい。

 鮎美が最寄り駅から電車に乗り、どこで降りるかを知っている。聡志も鮎美と同じ電車で、彼女の2つ先で降りる。

 よし。

 聡志は、足音を気づかれないように、鮎美の後を追った。帰り道が同じ方向なのだから、言い訳はいくらでも出来る。

 鮎美は最寄り駅の方向に向かっている。

 やがて駅前商店街に入った。洋品店や雑貨屋は閉じているが、居酒屋やファミレスはまだ営業している。

 聡志が夕食をとりによく入る洋食店も開いている。店内は狭いが、安くて、味がいい……。

 鮎美がその洋食店のドアを開けた。

 聡志は、数分待ってから、後に続いた。

 店内はカウンター席のみ。店は11時閉店。鮎美は、そのU字型のカウンター席のもっとも端にいた。聡志に気づいていない。

 聡志も気づいていない風を装い、向かい側の中ほどの席に腰をおろす。

 鮎美とは、数メートルの距離に過ぎない。しかし、鮎美はスマホをいじっていて、聡志の方を見ようとしない。

 ドアが開いて、男の客が入ってきた。

 その客の顔を見て、聡志は驚いた。

 津木だった。津木は、聡志を見つけて、ちょっと困った顔をしたが、聡志にちょっと頭を下げたきり、

「お待たせ」

 小さく言い、鮎美の隣に腰掛け、小声で何か言っている。

 と、ようやく、鮎美が聡志を見た。

 聡志は職場で、鮎美とはよく話をするが、私的な話はほとんどしない。その程度の間だから、会釈程度しかできない。

 しかし、そのとき、急激に、鮎美に対する関心が湧きおこった。

 鮎美と津木はどんな関係なのだろう。恋人どうしか。例えそうでなくても、それに近い関係とみたほうがいい。

 しかし、2人の年齢差を考えると、たまに食事を一緒にする程度の仲、それでなければ、よほどの深いつながりが……。

 2人は、ハンバーグ定食を食べながら、小さな声で話している。聴きたいが、聴き取れない。鮎美は時折、聡志に視線を送ってくる。

 聡志はいつもの通り、日替わり定食に生ビールをつけた。

 半時間ほどして、2人は同時に立った。

 鮎美は、いぶかしそうに聡志をチラッと見た。

 勘定は2人別々にしている。そういう関係なのだ。聡志は少し、ほッとした。

 聡志はあと数分で食べ終える。ビールグラスはすでに空だ。

 どうする? 2人とこのまま別れるのか。当たり前だ。聡志は、ようやく我に返った。

 5分後、彼は再び最寄り駅に向かった。

 電車は10分間隔で来る。ホームは、都心のターミナル駅に向かう電車が来るため、人は少ない。いつものことだ。レールを隔てた向かいのホームは、逆方向になり、乗客はこちらの倍以上も。

 ?……、そのとき、聡志の眼が、自分がいるホームの一点に釘付けになった。

 電車が入ってきたというのに、ホームのベンチに腰掛けたままの女性が……。

 それが鮎美だった。

 鮎美は、俯いたまま、相変わらずスマホをいじっている。

 聡志は静かに近寄り、彼女の前に立ち止まった。

 すると、

「どう、飲みに行く?」

「エッ?」

 聡志はびっくりして鮎美を見る。しかし、鮎美はスマホから目を離さない。

「待っていたのよ。こうして……」

 そう言って、ようやく顔を上げ、聡志を見た。

 その目はキラキラと輝いていた。

「エエッ」

 聡志はそう言って深く頷いた。

 2人のつきあいはそうして始まった。

 3回目のデートで2人は深い関係に陥り、2週間前から、互いのアパートを行ったり来たりしている。

 

「聡志はあのとき、心にもなくわたしにつきあったの? それとも自分の気持ちに正直に従ったの?」

 正直は軽はずみだ。自分から言い出したことだ。

 鮎美は、おれが女の誘いにのったから、軽はずみな男だと思ったのか。聡志は、深く考えずに、鮎美の誘いに乗ったことを思い出した。それまで親しく話したこともない女だ。いわば、得体の知れない、素性の知れない女。警戒するのがふつうだ。

「自分のことを軽はずみな男だと考えたことはない。でも、そうなのかも知れない」

「聡志、しっかりしなさい。あなたが始めた、ことばの言い換え遊びじゃない。聡志は、慎重さが足りないの」

 鮎美はそう言ってから、聡志という人間に、違和感を覚えた。こんな男だとは思っていなかった。

 正直は、軽はずみだが、もっと言い換えれば、愚かとも言える。この時代、正直に行動することは危険だ。慎重さが求められる。すなわち、聡志の言い換えことばを借りれば、正直でいるには、慎重さ、すなわち臆病になる必要がある。

 津木のよう生き方が、むしろいまの時代、理にかなっていると言えないか。

 鮎美は、聡志を見て、この1ヶ月足らずのつきあいを考え直す必要を感じた。

「聡志、わたし、気まぐれだから言うンけれど……」

 聡志もまた、改まった鮎美をみて、このままいまの関係を続けるのは難しい、と感じ始めている。

 「気まぐれ」を「自分勝手」と言い換えたのは、少し遠慮した結果だ。本当は、「わがまま」と言い換えたかった。鮎美のわがままにはついていけない。もう耐えられなくなっている。

 メールをしても、鮎美はすぐに返信を寄越さない。それでいて、鮎美は自分の気が向いたときにメールを寄越し、こちらが返さないと、「ナニしてんのヨ!」と、矢の催促だ。

 聡志が夜、会いたくなって、鮎美のアパートに行くと、「勝手に来ないで!」と、追い返す。その癖、自分は、深夜でも早朝でも、聡志の生活リズムに関係なくやって来る。

 聡志が不在だと、合鍵を使って中に入り、冷蔵庫を開けて、中のものを勝手に口に入れていく。

 聡志の缶ビールを飲み、ソーセージをかじるのは、いい。そんなことで鮎美を避けるつもりはない。聡志が鮎美についていけないと思うのは、彼女の職場での態度だ。

 鮎美は、職場の男性に対して、愛嬌がよすぎる。だれかれとなく、笑顔をふりまき、話しかける。

「あれじゃ、相手は、その気があると思うよ」

 つきあう前、聡志はそう言って、鮎美の八方美人的な態度を注意したことがある。

 しかし、鮎美は、

「いいじゃない。いちばん好きなひとは一人だけ。わたしは、みんなから好かれたいの。それだけ」

 それも生き方の一つだろう。しかし……。

「聡志、急なンだけれど、きょうでわたしたちのつきあい、終わりにしようか」

 エッ……。

 それは、聡志も考えていることだった。鮎美から言われるとは、思ってもいなかった。

「わたしたち、合ってないみたい。周りはわたしのこと、八方美人だと言うけれど、誉めていないわよね。でも、わたしはこういう生き方が好きなの。それで精神が安定するの。それをやめろと言われても、わたしには……」

 いいじゃないか。だったら、それで。おれのような男は、この先、決して鮎美には近寄らない。そして、おまえも、おれのような男にだけは、愛嬌をふりまくな。それは、罪だから。

 少し前、あれほど、すてきに思えた鮎美なのに……。おれも、鮎美に劣らず、気まぐれなのだろうか。

 聡志はそう振り返りながら、鮎美の次のことばを待った。

                 (了)

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