幸福のための一番簡単な方法

森野枝 直瑞(もりのえだ すぐるみ)

プロローグ

「幸せに終わるには、どうすればいいと思う?」


 教室に駆け込んできた僕に、先輩が言った。

 視聴覚室の、埃と電化製品が焦げた、独特な匂い。冷やされた教室の空気が、息の上がった僕の体をいっぺんに包み込んだ。一階から四階まで駆け上がってきたから、息が上がってしまっていて、それに気も動転していたから、すぐに先輩の意図をつかめなかった。


「試験でA評価を取って、気の合う友達と笑い合って、大学に行って、好きな人ができて、なりたかった仕事について、子供を作って、みんなに看取られながら、死んでいくことかな」


 先輩は、教室の窓際に並んだ机のちょうど真ん中あたり、椅子だけを教室の後ろに向けて座って、外を眺めているように見えた。先輩から少し離れた窓が一つだけ開いていて、そこから入ってきた風が、外の喧騒と蝉の声とを教室に運び、解かれた白いカーテンを揺らして、一瞬だけ先輩の姿を隠した。


 膝に手をついて肩で息をしても、なかなか息が整わなかった。額から頬から落ちる汗が、パーケットフローリングの木目の上に滴って、さまざまな水たまりを作っていく。止まることなく滲み出てくるそれを夏服の半袖で拭い、先輩を見た。


「立派なことだと思うよ。でも、あの子はね、そうじゃなかった」


 先輩は椅子から立ち上がると、スカートの裾をつまんで引っ張りながらそう言った。そのまま、今度は机にちょっとだけ腰掛けると、まだ教室の入り口にいる僕の方を見た。僕はもう一度汗を拭って、一度大きく息をつくと、どういうことですか、と絞り出すように言った。先輩は答えず続ける。


「あの子がどんなふうになりたかったか、君は知っているかな。引っ込み思案で、友達もいなくて、成績もそんなに良くない。でも、なりたいなって思ってた漫画家になるには絵がヘタクソだし、誰かと結婚したり、まして子供を作るなんて、あの子にはね」


 先輩は開いている窓に顔を向けた。その前には、窓の掃除をするときにそうするように、椅子が外の方を向いて踏み台のように置かれている。息が整ってきた。先輩の言葉を否定する。思った以上に軽薄な、画一的なセリフばかりが飛び出してきて、それとともに、得体の知れない大人たちが、次々と僕前に現れては、僕の言葉を先取って口にしているような感覚があった。先輩は静かに笑った。


「今でも十分幸せだろうって、君は言うんだね。親は両方いて、食べるものにも困らないし、学校にも行かせてもらえて、まだまだこれからじゃないかって? あの子のこと、わかってないなぁ、君は」


 不思議と、非難されているようには聞こえなかった。呆れられているような、それでいて、諦められているような、そのような響きがした。先輩は揺れていたカーテンの裾をいじりながら続ける。


「あの子がそんな簡単なこと、考えなかったと思う? 今でも十分幸せだって? その通りだと思うよ。それに、もしかしたら、なりたかった自分になれるんじゃないかってね。でもね、彼女はとてもだったんだんだな、そして想像力もあった。ちゃんと自分自身のことと、身の回りのことと、世の中のことを考えて、そして、自分にはそんなこと起こりっこないし、できないって、想像できちゃったんだ」


 カーテンをいじっていた手を止め、払い除けると、先輩は腰掛けていた机から飛び降りるようにして立ち上がった。そして、開いている窓の方に、並んでいる机を撫でながらゆっくりと近づいていく。夕日と窓枠の影の間を縫って。じわり、と蝉が鳴く声が聞こえた。


「優しくて、現実的で、想像力が豊かなあの子は、その瞬間の痛みも、意識が途切れて自分も何もなくなることも、その後で自分の両親がどう思うかも、周りの人たちが何て言うかも、当たり前に思い描けた」


 とうとう、開いている窓のところまで辿り着いて外を眺めると、先輩は眩しそうに目を細めた。そして椅子をそっと指で撫でながら、ほんの小さな声で、独り言のように先輩は言った。


「私たちには、あの子の色々な現実を変えたりはできないよ。そんな力は誰にだってないんだから。私たちは、ちょっとアドバイスするだけだよ。幸福なままでいられるように」


 階段を登ってくる誰かの足音が、先に廊下を抜けてくる。それらを背に、僕は先輩に近づく。先輩はまだ外を眺めている。入り口からは見えなかったが、椅子のすぐそばに、スクールバッグが無造作に置かれていることに気がついた。大きめのぬいぐるみが一つだけ下がっている。先輩のものではない、そう思った。しかし、そんなことは明らかで、では持ち主が今どこにいるか、それも明らかだ。


「ねえ、幸せに終わるには、どうすればいいと思う?」


 先輩は僕に笑いかけながら、同じ問いを口にする。


「あの子は、幸せだったと思うな。少なくとも、ここから、地面にぶつかる、その間はね」

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