吹雪とともに走るもの
藤原くう
前篇
三年前の【ラリー・グリーンランド】における行方不明事件は、いまだに不可解な点が多い。
その年はいつもよりも積雪量が多かった。吹雪はごうごうとうなりを上げ、フロントガラスを叩きつける。一寸先は白、外に少しでも出ていれば、凍死してしまうほどの寒さだったという。
大会当日、グリーンランドには100年に一度の大寒波が訪れていた。
何人かの選手は棄権した。こんな状況で走れるわけがない。よしんば走れたとして、大した記録は出ない、と。
が、ラリーをやっているやつは前なんか見えなくても走れるし、森の中を時速百キロオーバーで駆け抜けていく。バナナが凍り付くほどの寒さなんて、気にもならないクレイジーなやつらだった。
そういうわけで、レースは行われた。
出場したのは、7チーム。
そのうち完走したのは3チームだけ。
2チームがマシンの故障により途中棄権し、残りの2チームの選手は今もなお消息不明となっている。
各ラリーカーにはGPSが搭載されていた。車の位置情報はコース上にマッピングされ、タイム計測などに用いられる。
今回のような視界の効かない吹雪の中では、観戦客はいない。カメラマンもおらず、定点カメラも凍ったように真っ白、うなり声のような風でエンジン音すらしないありさま。
そんな状態で頼りになるのは、分厚い雲の向こうからもたらされる位置情報だけであった。
だが、それすらも止まった時間があった。
その数十分の間に、二つの位置情報は
消えたことも驚きであったが、何より大会関係者を驚かせたことがある。
行方不明になった車は、南極とチベットで見つかったのである。
当然、選手たちにも聞き取り調査が行われた。
ラリーでは基本的に一台一台走る。同じコースを走り、だれが速かったのかを競うタイムアタックだ。
だから、レース中に事故があればすぐわかる。
だが奇妙なことに、行方不明になった二台を見たものはいなかった。
舞い上がる煙も、爆発音も、なにもかも聞こえなかった。
それどころかなにも見えなかったと、選手たちは口を揃えてそう言った。
まるで、異世界へと吸いこまれていったかのようだった。位置情報の
この科学の時代において、まだ神のような存在がおり、その見えざる手がこの世ならざる場所へとすくい上げていったかのような。
奇妙といえば、選手たちは――ナビゲーターを務める
声が聞こえた、と。
風の音が、唸り声のように聞こえる。
手垢のついた表現であるが、選手たちはそう訴えたと記録されている。
ドイツ人コ・ドラが言うには、その声は古めかしいドイツ語だった、中国人は若い女の声だと言い、イギリス人は老婆だったと答えた。
バカ正直に受け止めるなら、風の声は聞いたものの言語に合わせて聞こえるということになる。
そこで行くと、日本人グループの供述は興味深いかもしれない。
「釜戸元めう」は、日本チームのコ・ドラである。
コ・ドラはテスト走行時に、どこにカーブがありどこに段差があるのか、路面状況はどうなのか、などをノートに書き、それを読み上げる。
そんなのカンタンだと思われるかもしれないが、時速百キロで大自然をかっ飛ばす車内でそうしなければならないのだ。
ひとつ間違えれば、崖の向こうへ落ちるかもしれず、木に激突するかもしれない。そこにはサムライめいた胆力が問われる。
そういう意味で、元アイドルであるめうは適任だった。ステージ上のプレッシャーをものともしない彼女は、ラリーにおいても平然としていた。
だからこそ、彼女は他の選手よりも多くのことを見聞きすることができたのかもしれない。
めうが「声」を聞いたのは、スタートしてすぐのことであった。
ラリー用の眩いライトにもかかわらず、視界は真っ白。
エンジン音をかき消すほどの吹雪の中から、その声は聞こえてきた。
――いっしょにあそぼうよ。
めうはペースノートから顔を上げる。そこには、今走っているコースのことが事細かに書かれている。
現在は、しばらく直進。多少の余裕があった。
外は相変わらずの猛吹雪。
雪はあたりを陰気な白に染め上げている。フロントガラスに叩きつけられるふかふかの雪が、ワイパーによって退けられていく……。
(気のせいだろう)
さすがにめうも、タイムアタック中に「なにか聞こえませんでしたか」とは言えなかった。ドライバーの集中をかき乱すわけにはいかなかった。
再びノートへ目を戻す。
直進から先の見えないカーブが続いていた、
めうは吹きつける風の音に負けないよう声を張りあげ、ノートに書かれていることを読み上げる。
車は、覆いかぶさってくるような雪の壁にケツとハナをこすりつけながら、コーナーを曲がっていく。
そこから先は、また直進。左方向へのペアピンカーブの向こうは、コース一の直進があり、クレスト――先が見えないほど大きな起伏があった。本大会の目玉である、ジャンプ台だ。
(この雪だから、もうちょっと速度を落とすべきか……)
猛吹雪で視界は一寸先だって白い。ジャンプした先で、車が横転していたらと思えば、ゾッとする。
そうじゃなくても、台風のような暴風では、車はバランスを失いがちだ。
ムムム、とめうは小さく唸り、ノートを睨みつけていた。
――ねえ、あそぼうよ。
今度ははっきりと聞こえた。
少年の声。
まるで、すぐ近くにいて、耳元で囁いて来たかのように。
周囲をキョロキョロ見回してみても、景色は変わらない。荒い筆で塗りたくったようなスノーホワイトは、その勢いを増しているようにさえ感じられた。
「声がしませんか……」
めうは、ぼそぼそ口にした。
だが、ドライバーからの返答は芳しいものではなかった。
後日の聞き取り調査でも、何も聞いていないし見ていないことが、ドライバーの口からは語られている。
返事はなく、めうも口を閉ざした。
この視界の悪さの中、ドライバーは極度に集中していたのだ。
その目は、白いベールの向こうに伸びているコースを睨みつけていた。
余計な質問を繰り返すのを、めうはためらった。
車が減速し、カーブへと突っ込む。アウトインアウト。スパイクのついたタイヤが回転し、再び速度を上げる。
コース一長い直線。全長にして二キロ。その途中には、先ほども言ったように、「ジャンプ台」もある。
めうは自分がそわそわしていることを、自覚していた。だが、抑えられそうになかった。
――かけっこってこと? それなら負けないよ。
などという声が、耳元で確かにするのだ。
無邪気な邪気をはらんだ、少年のあどけない声が、どこからともなく聞こえてくる……。
果たして、これは妄想なのだろうか。
めうは、隣に座るドライバーに聞きたくて聞きたくてしょうがなかった。
声なんて聞こえていないと一言言ってくれるだけで、どれほど気が楽になるだろう。
だが同時に、この無口なドライバーが競技中に口を開くとも思えなかった。
ドアの窓をちらりと見れば、サイドミラーが雪にまみれている。
左後方を映しているはずの銀板は、霜に覆われ曇っていた。
びゅう。
不意に、車が揺れた。
――このことをドライバーは、後方からの強風にあおられたにすぎない、と証言した。
実際、揺れは後方からやってきていた。渋滞中に後続車から追突されたときのような衝撃だったらしい。
凍えた直線をかっ飛ばしていた車がクラクラとふらつく。スピンしないよう制御するので、ドライバーは精いっぱいだった。
だが、助手席のめうには背後を見るだけの余裕があった。幸か不幸か、サイドミラーを凝視していたのだから。
突風によって、サイドミラーを覆っていた霜が吹き飛ばされていく。
そこに映っていたのは、風のかたちをしたヒトだったという。
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