幕間SS ローザ
「……ああ、最後に忠言を。どうか、外ではもう少し……愚鈍に振る舞うことです。貴方様の聡明さが知れ渡れば、王も廷臣も警戒するでしょうから」
私の父、アドルフがそう言うと、ディオス王子は「聡明なら謀反など企ててはおるまいよ」と言い残して退室し、扉を閉めた――一瞬だけ見えた横顔には怒りと後悔、そして苦悩の色が浮かんでいた。
私と父は、ディオス王子の足音が遠のいていくのをじっと待っていた。やがて父が口を開く。
「彼をどう見る、ローザ?」
私は先程まで流していた涙を指で拭い、表情を消して父を見る。
「良識と感情の間で揺れているようですが、感情に流されやすい傾向があるように思います」
ディオス王子は私の涙の意味を常識的に解釈し、自分の境遇と重ね合わせ、苦悩していた。
「扱いやすいと思うか?」
そう問う父の瞳には「こちらからハメにいって、見事にハマってくれたわけだが」という前置きが隠されているように思えた。
私は栗色の巻き毛――母譲りの自慢の髪――を指でいじりながら思考を巡らせる。そしてこう答える。
「……はい、十分に御しきれる範疇だと思います」
父は私をじっと見た後、小さくため息をついた。虚勢を張ったとでも思われただろうか?
「お父様はそうは思っていないと?」
「……正直、判断に迷っている。時間がなかったからきみには伝えていなかったが、『
『
「裁判直後、従士ヘルマンが一目散に娼館に駆け込んだそうだ」
「ふむ?」
今はまだ朝と呼んで差し支えない時間帯だ。しかも主人が流刑に処された直後という状況。性欲を満たしに行った、ということはあるまい。
そして娼館とは、単純に女や少年を抱くための場所というわけではない。情報の集積所でもあるのだ。なんでも人というのは、
「しかし、今この状況で娼婦たちからどんな情報を集めるというのでしょう?」
「あるいは有力者とのコネを作ろうとしているのかもしれないね」
娼婦たちが抱える太客にそれとなくディオス王子のことを伝えさせる、などの手段は考えられる。後々のクーデターの際、確かにそれは活きる可能性がある――ああ、父が言いたいことがわかった。
「既に我らアンデルセン商会以外の協力者を募ろうとしている可能性がある、と」
父は頷いた。それが本当だとすれば、あの裁判直後にもうクーデターの布石を打ち始めていることになる。判断が早い――なるほど、私の「ディオス王子は十分に御しきれる」という認識には疑問符がつく。彼は想定よりもう1段か2段、頭が回ると考えたほうがよい。
「ディオス王子への認識を改めます」
「そうするべきだろうね。そして旅が始まったら、ヘルマンについても良く観察しておくように。正直、愚劣な男だと思っていたが……」
「こういった複雑な任務に駆り出されているとしたら、こちらも認識を改める必要がありますね。……いえ、むしろ整合性が取れてきた気がします。彼、魔術の名手なのでしょう?」
父は頷いた。私たちが持っている情報では、ヘルマンは「直情的で、あまり頭が回らない男。ただしディオス王子と同等の訓練を積んでいるため、戦闘能力は高い。特に魔術についてはディオス王子を上回る腕前らしい」という認識であった。
魔術は自然現象を深く理解し、それを樹形図型の魔術回路として記述し、再現する技術だ。魔術盤を使えばそれらのプロセスを省くことが出来るが、これは魔術盤に記述された魔術しか使えないという制約がつく。
だが「魔術の名手」と呼ばれる者たちは即席で魔術回路を組み上げ、臨機応変に様々な魔術を使うのだという。高度な頭脳と想像力が無ければ不可能な業だ。
「ただのバカではあり得ないと思います」
「能ある鷹は爪を隠す、か。……だがなぁ」
と父は天井に視線をやった。
「ヘルマンについては、どうにも考えすぎな気もするんだよ。直感だがね」
「……『相手を見くびらず、常に客観的に評価せよ』とはお父様の教えじゃないですか。それを直感なんてふわふわしたものでひっくり返されましても」
「それはまあ、そうなんだが」
私が「ディオス王子は十分に御しきれる」旨を言った時、叱責しなかったのは直感とやらで判断を迷っていたからなのだろうか。だが、と私は首を横に振る。
「どんな愚劣な男でも、主人が流刑に処された直後に……その、性欲を満たすためだけに娼館に駆け込むとは思えません。あり得ないでしょう? 人として」
「ああ、それはあり得ない。だがこう考えることも出来る。『ヘルマンは愚劣だが、ディオス王子には他に使える駒がないので彼を使うしかなかった』と。質を選ばずがむしゃらに打てる手を片っ端から打っている可能性だね」
――私は自分の浅慮を恥じた。点と点が繋がった快感に流されて、他の可能性が見えなくなっていたのだ。普段父から「まだ商人としては未熟だな」と言われる理由の1つだ。
父は私を慰めるように柔らかく微笑んだ。
「反省するのは大いに結構だが、それは後で良い。今は……問い直そう、ディオス王子をどう見る?」
「はい。彼は相当に頭が回ります。ただ手駒の少なさから、取れる手段は限られています。そして感情に流されやすい傾向と合わせて考えると、こちらの予想もつかない動きをする可能性が高い……やけっぱちで何をしでかすかわからない」
「うん、私も同意見だ。さてもう1つ質問だ、彼が成長した場合どうなる?」
一流の商人は利殖によって儲ける。未来を見て物事を考えるのだ。――欠点は成長によって補い得る。ディオス王子はまだ18歳だ。
「……成長すれば、感情に流されず常に冷静な判断を下せるようになり得る。手駒が増えればその頭脳は遺憾なく発揮され、こちらの手に追えない存在になりかねません。武術の達人であることも鑑みれば……」
言いながら、私はゆっくりと肝が冷えてゆくのを感じた。
「――アレクシアレス王に比肩する存在になりうる?」
私が生まれた頃には、既に平和な時代が訪れていた。だが神の如きアレクシアレス王の「活躍」は、大人たちから嫌というほど聞かされていた。あれは、誰にも制御できない存在だ。
父は小さく頷いた。
「可能性としては十分あり得る。まあそもそもアレクシアレス王を倒すからには、彼と同等の存在になって貰わねば困るのだけれどね」
「……御せるのでしょうか、そんな人を」
「キングメーカーも楽ではないのは確かだ。だが今はまだ、ディオス王子は芽にすぎない。私たち好みに育てる余地がある」
父は立ち上がり、窓の外を眩しそうに眺めた。
「今は注意深く観察し、手を入れる余地を探ろう」
私は頷き、与えられた「任務」の重みをしっかりと胸に刻み込んだ。
「ひとまずは募兵のお手並み拝見、ですね」
どのように募兵を進めるのか、私も案を巡らせてみる。きっと一筋縄ではいかないだろう。足りないものはなんだ? どうすれば恩を売れる? ……と。
――この時の私はまだ、『
誰が……誰が予見できるかこんなこと!
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