元カノが幽霊のフリして僕の部屋に住み着いている件

三輪晢夫

本編

 中学二年生の僕のクラスに、三河絢みかわあやという女の子がいる。

 黒髪ロングの清楚系美少女である。

 容姿端麗、文武両道、でもって優しい。

 こんな具合だから当然男からよくモテる。

 しかし当の本人は恋愛には興味がなく、何度言い寄られても不動のNOを突きつける。

 いわゆる高嶺の花的な存在。

 無論僕のようなナメクジにも劣る卑劣漢にはまったく関わりのない殿上人のごとき存在である。

 そんな彼女から告白された。




 ………っていうのが、大体二、三年前の話。

 断る理由もないので絢からの告白を受け入れた僕は、高校二年生の五月、つまり先月に彼女と別れた。

 厳密には僕から振った。

 絢自身には特に不満もなかったのだが、あまりの美人と付き合うとかなりの面倒を背負うことになるのは、なにもフィクションに限った話ではなかったらしい。

 まあひどい嫌がらせを受けた。

 これ以上嫌がらせを受け続けるのと、彼女と別れるのとを天秤にかけたら後者に傾いた。

 なので別れたいと思った。

 ということを電話で話した。

 電話口で彼女はすすり泣きながら、


『なんでそんな理由で別れようとするの』


 と言ってきたが、まあ仕方ない。

 多分誰でもそうすると思う。


『本当は私のこと、もう嫌いになったんでしょ』


 言ってしまえば初めから好きでも嫌いでもなかった。

 ただ断る理由もなかったから付き合っただけである。


『別れたら私、本気で死んじゃうかも』


 死なれるのは困る。

 しかし大抵の場合、こんなことを言う女は別れても別に死にやしない。

 が、ここで対応を間違えるとそれと同じぐらい面倒なことになる。

 なにか適当なことを言ってなだめよう。


『私が嘘言ってると思ってるんでしょ? 私、本気だからね』


 あー、面倒くさい。

 時計を見たらもう一時間半も話していた。

 十二時をすでに回っている。

 明日も学校がある。

 早く寝たい。

 ぼーっとして、気がついたら電話が切れていた。

 まあいいか。

 明日のことは明日の自分がなんとかするさ。




 なんとかならなかった。

 学校から帰って部屋の扉を開けると、白装束の格好をした絢がいた。

 それも僕のベッドで仰向けに寝転がっている。

 家には誰もいないはずなのになんで入れてるんだ……と思ったが、そういえば今朝は鍵をかけ忘れたんだっけ。

 勝手にひとんちに入ってなにしてんだ。


「私は幽霊です」


 彼女は無表情のままそう呟く。

 しばらく考えて、彼女の豊満な胸を鷲掴んでみた。

 手のひらに吸い付いてくるような柔らかい感触である。

 ついでに頬も赤らんでいる。


「私は幽霊です」


 軽く揉みほぐしたのち、股へ手を伸ばそうとしたら手首を掴まれた。

 真っ赤な顔をしている。

 幽霊じゃないのか。


「幽霊です。でもやめて」


 学校では普通に制服で授業を受けていたのになにが幽霊か。

 まあ幽霊だろうがそうじゃなかろうがいいか。

 何しにきたんだろう。


「別れるっていうので死にました。幽霊なので今日からあなたに憑きます」


 傍迷惑な話である。

 だが僕にも少しは責任というものがあるかもしれない。

 数日ぐらいは滞在を許可するが、気が済んだらもう帰ってほしい。


「私と別れないって言うまで帰りません」


 はぁ、とため息を吐く。

 と同時に、ぐうと彼女の腹から変な音が聞こえた。

 そういえば僕も今日はあまり食べてないんだ。

 少し早いけれど夕食にしよう。


「絢も食べる?」


 彼女は赤い顔でうなずいた。

 まあ、彼女も僕にその気がないと知れば諦めて帰るだろう。

 それまでの辛抱だ。




 それから一ヶ月になる。

 未だ彼女は幽霊のフリをつづけて僕の部屋にいるし、僕も彼女を追い出したり復縁したりはしていない。

 というのも、僕と彼女が別れたという噂が広まって嫌がらせは絶えたので、復縁するよりはこのまま半同棲生活を続けたほうが楽なのだ。(一度本気で追い出そうとしたら警察沙汰になりかけたのでよした)

 ちなみに彼女の親は放任主義なようで、家に一ヶ月娘が帰らなくてもきちんと学校に行き成績も維持しているようであればなんでもいいらしい。

 まさか僕のようなフンコロガシと同程度の価値しかないダニ野郎の家に転がり込んでる(フンコロガシだけに)とは思ってもみないだろう。

 言い忘れたが僕は一人暮らしだ。


「ここはどうやって解くの?」

「えっとね、見せて。これはここをこうしてそれをどっこいしょしていろいろやったら解けるよ」

「なるほど」


 ただ、期末試験が近づき、こうして勉強を見てくれるのはありがたい。

 その代わりに、家とベッドと飯を提供しなければならないのが難点だが。


「ねえ、そろそろまた付き合う気になった?」

「ならない」

「どうして? それに、こんな可愛い子と一緒に暮らしてても、ぜんぜん手を出すそぶりも見せないし」

「セックスなんて面倒くさいだけ」

「もしかして妊娠したら、とか気にしてる? 幽霊だから私妊娠しないよ」


 そういう問題ではない。

 僕は冗談で下ネタを言ったりセクハラすることはあっても、性欲は極薄い、というかほぼまったくないのだ。

 べつに顔がいいわけでもないし、わざわざ手間をかけて女の子を口説いてまでセックスなんて面倒なことをする必要性を感じない。

 というか彼女にしても、前まではそういうそぶりを見せることすら嫌っていたのに、どういう心境の変化だろう。

 考えるだけ無駄か。




 三年生になった。

 依然として彼女は僕の部屋に住んでいる。

 たまに実家に顔を出すようになったようだが、一日でも家を空けることはない。

 あと、今まではベッドを彼女に譲って自分は毛布にくるまって寝ていたが、さすがに冬になると寒すぎてベッドで彼女と寝た。

 人の体温というのは案外温かい。


「付き合う気になった?」


 彼女が毛布の下で身体を押し付けながら言う。


「ならない」

「襲っていい?」

「どうぞご自由に」


 というわけで、クリスマスの夜。

 僕は童貞を彼女に奪われた。




 三年生の秋ごろ。

 クラスメイトに同棲がバレた。

 なんでも誰かに僕の家から絢が出るところを見られていたらしい。

 しかもそいつがかなりやんちゃなやつで、放課後、僕はそいつとそいつの取り巻きに校舎裏でぼこぼこにされた。

 身体中にあざができて顔中血みどろになった。

 痛いのは慣れてるからとくに反撃しようとも思わなかった。

 ただじっと耐えてればいい。


「二度と三河に手出すんじゃねえぞ」


 空が暗くなりはじめて、そう言い捨てると彼らは去っていった。

 僕は土の上にぼろぼろのまま寝転んでいた。

 痛いのは慣れてる。

 でもこうして一人なのはさみしい。



 家に帰るといつも通り白装束の彼女がいて、ぼろぼろの僕をひどく心配していた。


「どうしたの」

「転んだ」


 彼女はその端正な顔を少し歪めた。


「なんでそんな嘘つくの? ……本当のことを言って」

「ちょっと喧嘩した。顔が少しひりひりするぐらいだから気にしなくていい」


 しかし彼女は僕の服を脱がして下着だけの姿にした。

 どうやら彼女から見て、僕の身体はそうとうにひどい状態だったらしい。

 どう見ても喧嘩ではなく、一方的に殴られ蹴られた痕だと言った。


「誰にやられたの」


 僕は正直に言った。


「許せない」


 彼女は憤怒に顔を赤くしていた。

 しかしここでなにかされる方が迷惑だ。

 少なくとも彼らはこれで満足したろうし、彼女が出張ってくるとまたなにかされる可能性がある。

 もちろん彼女に危険が及ぶ可能性もある。


「別にいいよ。これぐらい慣れっこだし」

「慣れっこって、君が喧嘩してるところなんて見たことないよ」

「喧嘩じゃない。………虐待だよ。昔、父さんが死んでから母さんに虐待されてた。それだけの話」


 そのときの後遺症は今でもいくつか残っている。

 右腕は水平より上には上がらないし、左手の親指は四十度ぐらいまでしか開かない。

 歩き方にも若干の癖があって、僕はいつも左足を引きずるようにして歩く。


 絢はそれを聞くと、絶句したように口を開き、それからまた口をつぐむと静かに涙を一筋流した。

 僕には意味がわからなかった。

 絢からすればまったく他人の話なのに。

 彼女は優しく僕を抱きしめた。

 そうして僕の頭を撫でた。


「どうして言ってくれなかったの?」

「………面倒だったから」

「………………ごめんね」


 僕には彼女が謝った意味が分からなかった。




 数週間前に高校の卒業式があった。

 僕と彼女は同じ大学に進学した。

 やはりというかなんというか、彼女はまだ僕の家にいる。

 絢ほどの学力があれば、今よりももっと上の大学に行けたはずなのに、わざわざ僕に合わせてこの大学にしたらしい。

 それには若干の申し訳なさを感じている。


「ねえ、付き合う気になった?」


 高校のときと違って、今は誰も嫌がらせなんかしてこない。

 僕たちは今まで家でしか関わってこなかったが、最近では色々なところへ遊びに行ったりしている。

 現にここは水族館だ。

 イルカショーを見終わり、人が少なくなったびしょ濡れの座席に座りながら、彼女はそう訊ねた。


「じゃあ付き合おうか」

「もういいかげん付き合う気に………え?」


 茫然とした顔のまま、絢は数十秒ぐらい静止して僕の顔を見つめ続けた。

 そして泣いた。

 周囲の目が痛いので抱きしめて顔を隠した。

 それでも嗚咽は止まない。


「付き合おう」

「うん………うん……………」


 この瞬間、彼女は生者としてよみがえった。




 大学にいるあいだ、僕たちは死ぬほど遊んだ。

 家庭教師やらカフェやらのバイトをして金を貯め、思いつく限りの遊びをした。

 今までの僕の人生、そしてこれからの人生も含めて、間違いなく一番活発的だったと思う。

 ちなみに酒は飲めなかった。

 煙草もまったく吸えなかった。

 絢は酒に弱いくせに恐ろしく酒好きだった。

 ゲロを吐いて何度もうちのトイレを詰まらせては具合の悪そうな顔で僕に謝った。

 そんな彼女も僕と居るとき以外は酒を飲まなかった。

 僕の気持ちを配慮してくれたんだろうが、同性しかいない場でもそうだったのだから驚きだ。

 なんでも彼女ほど美人になると、言い寄ってくる相手が男とは限らないのだという。

 ちなみに一度、そういう場で僕がお酒を飲んで帰ってきたとき彼女は烈火の如く怒った。

 それで、わざわざその場に僕を誘ったある友人に電話をかけて「もううちの人を誘うのはよしてください」と怒鳴った。

 のちにその友人と会ってご飯を食べたとき、このことが話題に上がったのだが、


「うちの人って当たり前のように言うもんだから、お前にもう奥さんがいるのかと思ったよ」


 と言われて僕は恥ずかしかった。




 大学を卒業すると、僕はある広告系の中小企業に就職した。

 給料は、新卒にしてはそこそこといった程度だろう。

 彼女は仕事には就かず、僕の家で専業主婦みたいなことをしている。

 文武両道、くわえて音楽やら絵画やらといった芸術にも精通している彼女であるが、家事は大の苦手分野らしい。

 初めて料理を出されたときは炭と間違えたし、掃除ができたといって掃除をする前よりも部屋を汚していたときには頭を抱えた。

 ダメにした皿や服も十を軽く超えるかもしれない。

 しかしそれでも、僕は努力する絢を応援したかった。


 ふと気がついた。

 以前の僕だったなら、彼女のあまりに無惨な姿に耐えかねて自分で家事をやりだすはずだった。

 まして努力する彼女をいちいち応援したいだなんて、たった一片すら思いもしないだろう。

 だが、今ではそれらが僕の胸中の大部分を占めている。

 変わっている。


 いやそもそも、変わっていなければ大学時代にあんなに遊んだりもしなかったはずだ。

 前までの僕はいつも、最低限の人間関係だけを維持したまま、ほどほどの力で人生をやり抜こうとしてきた。

 ………それが変わったのは、いったいいつからだ?




 やらかした。

 入社してから四年が経っていた。

 仕事に慣れて、どこかに油断が生じていたのかもしれない。

 大きな会社からの依頼だった。

 会社が一つ上のステージに上がることのできる、稀なチャンスだった。

 社員の誰もが張り切っていた。

 それを全部、僕の単純なミスでことごとく台無しにした。


「おかえりなさい」


 彼女が無邪気な笑顔で出迎えてくれても、僕の沈鬱な気持ちは消えなかった。


「ご飯、できてるよ」

「今日はいい」

「え、どうして?」

「食欲がないんだ」

「会社でなにかあったの?」

「絢には関係ないだろ」

「やけに不機嫌ね。……ねえ、やっぱりなんかあったんでしょ」


 僕はスーツを脱ぎながら怒鳴った。


「うるさいなあ、関係ないって言ってるだろ!」


 すぐにハッとした。

 なんで絢にこの苛立ちをぶつけてるんだ。

 責任は何もかも僕にある。


「ごめん」


 僕は素直に謝った。

 しかし彼女の顔を見ることはできなかった。

 もしも彼女がひどく傷ついた顔をしていたら、きっと僕は僕自身を許せなくなる。

 いや、それすら結局は言い訳だ。

 彼女を傷つけてしまったという事実から顔を背けたいだけだ。


「ごめん」


 僕は繰り返して言った。

 懐かしい感覚だった。

 あのとき、………母を失望させてしまったときの、母からの暴力が始まるまでの永遠にまで伸びきった時間。

 これから始まる時間への恐怖、不安、自身への失望、頭がくらくらとする。


 沈黙のまま、数秒が経った。

 僕は恐る恐る彼女を振り返った。

 なにかを口に出そうとしたが、……その前に彼女は僕を抱きしめた。

 昔、高校生だったとき、僕を優しく抱きしめたときのように。


「私も、しつこく訊いてごめんね」

「違うよ。全部僕が悪いんだ。全部………」

「大丈夫、大丈夫だから」


 絢は僕の汗まみれの背中をさすった。

 そしてキスをすると、顔を赤くして照れくさそうな笑みを浮かべた。

 それだけで僕のなかにあった緊張感はほぐれた。

 我ながら単純であると思った。


「…………やっぱり、ご飯食べるよ。安心したらお腹が空いてきた」

「ほんと? じゃあご飯ついでくるから、ちょっと待っててね」


 このとき、僕は彼女と結婚しようと思った。




 翌年に籍を入れ、さらに二年後、子供が産まれた。

 長男と長女の双子である。

 僕は子供のころ、自分より下の子供や赤子が大の苦手だったが、まさか自分の子供がこんなに可愛いとは思わなかった。


 ちなみに妊娠を機に郊外の一軒家へ引っ越した。

 思えば何故今まで、高校のときの家にずっと住んでいたのだろう。

 ………無意識に、あの家を離れたくないと思うほど思い入れがあったからかもしれない。


 子育ては想像以上に大変だが、やはり楽しいところもある。

 仕事から帰って子供の顔を見るとびっくりするほど疲れが安らぐし、大変だと思うこともまた成長の喜びにつながってゆく。

 父さんが死ぬ前、母さんもこんな気持ちだったのだろうか、なんてことを考えもする。

 けれど母さんは母さんで、僕は僕だ。

 母さんのしたようなことを子供達にはしたくない。

 だから、僕なりに最善だと思った形で彼女と子供を育てられたらいいと思っている。


 そういえば、少し前に中学の同窓会があって、絢とともに子供を連れて行くと皆からひどく驚かれた。

 中学時代から付き合っている人と結婚までいくのがよほど珍しいのだろう。

 子供がまだ小さいために、その場には軽く顔を出す程度ですぐに帰ったが、久々に知り合いの顔を見るとなにかなんとも言えない感慨深さがあった。

 なにより印象だったのが、概して皆から、


「変わった」


 と言われたことである。

 なんでも昔の僕は無表情でいかにもぶっきらぼうといった感じであったらしく、近寄り難い空気があったらしい。

 今は全体的に柔らかくなって、表情が優しくなっているという。

 きっと絢の影響だろう。




 子供が幼稚園を卒園して小学校に入った。

 鏡に映る自分はすっかりおじさんになり、顔には小皺が増えている。

 抜け毛も増えた気がする。

 禿げるのは嫌だが、時の流れには何人たりとも逆らえない。

 甘んじて受け入れるしかないのだろう。


 絢は相変わらずの美貌を保っている。

 このまま僕だけが年老いてゆくのだろうか、と不安になることもある。

 死について考えることも増えた。

 子供の将来も、多分子供が自分の将来を考えるときよりも不安な思いである。


「ねえ、もしも晴行はるゆきが将来学校に行かなくなったり、引きこもりになったりしたらどうする?」


 と彼女が訊ねてきたことがあった。


「どうもしないよ。僕たち親にできるのは、子供がやりたいことを見つけるか、生きる術を見出すまでの宿になってやることだけだ。そして、一度僕たちの膝下を出て行ったら、そのあとの道しるべは自分で見つけだすさ。子供、とくに男ってのはそういうものだから。たとえそれが見つからなくたって、また支えになってやればいい」

「そんな楽観的でいいものかしら」

「それだけ子供を信じてるってことだよ。なにせ子供たちには、絢の血が入ってるしね」

「たしかに、あなたの子なら心配いらないかもね」




 だが、問題は妹の菜月なつきの方にあった。

 二人が小学四年生に上がってしばらくしてからである。

 仕事から帰ると、絢に話があると言われてテーブルに座らされた。

 子供二人は部屋にいるよう言ってあるという。


「それで、なんの話だ? 子供に聞かせたくないような話ってなんだ?」

「実は、今日のお昼頃に学校から電話があって、菜月について話があるから来てくださいって言われたの。それで行ってみて話を聞くとね、菜月がクラスメイトをいじめているかもしれないって」

「………なんだって」


 僕は一瞬信じられなかった。

 菜月はやんちゃな晴行よりも大人しくて賢いし、そういう問題をもしも起こすとするならば晴行の方だと思っていた。


「でもいったい、どうして」

「あなたが帰ってくる前に菜月とお話したんだけど、ぜんぜん口を開いてくれなくて。不貞腐れたような顔でそっぽ向いて、いつものあの子じゃないみたい」


 言われれば勉強も真面目にやる菜月のそんな姿など想像できない。


「いじめているっていうのは、確実なのか? 誰かが嘘を言って、いじめっ子に仕立てあげようとしてるんじゃないか?」

「それが、実際に怪我をしてる子もいるって。いじめているってのは、本人も認めてるみたい」

「…………そうか」


 とにかく本人と話してみないことには始まらない。

 僕はちょっと行ってくる、と言って菜月の部屋に行き、扉をノックした。


「入るぞ」


 六畳間もない狭い部屋に、箪笥や勉強机やベッドがあって、菜月は風呂上がりの濡れた髪を乾かしもせずに、勉強机に向かって勉強していた。

 僕は彼女の背中に、


「今日はよせよ。それより、お父さんと話そう」


 と言葉を投げた。

 でも菜月はこちらを振り返りもせずに、意地を張って鉛筆をノートの紙面に辷らせつづけていた。


「お父さんと話したくないのか」

「…………」

「そうか。お母さんから大体聞いたよ」

「…………」

「父さん、お前が友達をいじめてるって聞いたとき、正直言って、ぜったいに嘘だと思った。だって毎日宿題もがんばってやってるし、学校にも休まず行ってる。母さんの手伝いもよくしてくれてる。誰がどう見てもがんばってる。こんないい子が、どうしていじめなんてするんだろうって。するわけないよなって、そう思った」


 菜月は変わらず鉛筆を握りつづけている。


「………もしかして、それのせいか? 菜月が友達をいじめたのって。父さんや母さんが、そんなふうに期待しているのが、辛くなっちゃったのか?」

「……………」


 菜月の肩がふるえている。

 僕が菜月にかけている言葉が、いったいどれぐらい通じているのか分からない。

 ぜんぜん通じてないかもしれないし、伝えたいことが百パーセント通じているかもしれない。

 でも、べつにどっちでもいいんだ。

 通じようが通じまいが、彼女のことは彼女自身が規定する。

 それは僕が親であっても口を出すべきことじゃない。


「なあ菜月。今度どこか遊びに行こうか。父さんは仕事休んで、菜月と晴行は学校をズル休みして、気分転換に遊びに行こう。レンタカーを借りれば、どこにだって連れてってやるぞ」


 まあ僕は運転免許を持ってないので、絢に頼むつもりだが。


「…………違うの」

「違う?」

「私、悪い子だから。……お父さんとお母さんは、なんにも悪くないから…………私が、ひどいこと言わないと、叩かないと、今度は私がいじめられるから」


 しだいに嗚咽が洩れてきた。


「私がいじめないと、いじめられて、やめられなかった……初めは私がいじめたくなっていじめたけど、だんだん、怖くなってやめられなくなって、それで………」


 僕は彼女を後ろから抱きしめた。

 彼女がどれだけひどいことを言い、どれだけ強く叩いたのか知らないから、何も言えない。

 でも多分、もう二度とこんなことは起きないと思う。

 この子は自分がよく見えている。


「ごめんなさいって、言える?」

「ごめんなさぃ………」

「よし。いじめた子に謝ろう。許してもらえるかは分からない、でも悪いことをしたからには許してもらえなくても謝らなきゃいけない。…………色々あって辛かったな。もう大丈夫だから。大丈夫」


 僕はいつか絢がそうしてくれたように、そう言いながら、菜月の頭をそっと撫でた。




 二人が起こしたような大きな問題はそのぐらいのものだった。

 というか晴行に関しては別に何もしていないのだが。

 その後、僕や絢や菜月がいじめた子とその家族に謝ったらなんとか許してもらえた。

 高級な桃を渡したのがきいたのかもしれない。

 いずれにせよ、菜月が言った言葉や負わせた怪我も小学生の喧嘩レベルに過ぎないらしく、相手の子供もそこまで気にしていないようで、菜月を許してくれた。

 あまりこういうのは言うべきではないのだろうが、今回のことは親としてもよい勉強の機会となった。

 菜月もそれからは楽しく学校生活を送れているようなので、ひとまずは安心である。


 その後数年が経過し、二人の子供が大学に入ると同時に一人暮らしを始めたので、僕と絢は久々に二人きりになった。

 互いに顔を見合わせると、老けたなあと洩らすことがよくある。

 僕は髪の毛が薄くなり、彼女は口調や雰囲気がおばさんみたいになった。

 でも喧嘩はしない。

 喧嘩をするには歳を食い過ぎたのかもしれない。

 四十も半ばを超えて、そろそろおじいさんと呼ばれる日も近いかもしれない。

 寝る前になると、そんなことを話したりする。




 五年が経ち、子供たちは大学を卒業し就職した。

 晴行は意外にも大企業でエリートサラリーマンを務め、菜月はデザイナーとして活躍している。

 そんなある日、晴行が恋人を連れてきた。

 厚化粧で、三十も半ばは越えているだろうという大きな図体の女性。

 晴行とは十歳近い年齢差があるらしい。

 今は仕事についていないが、いずれゲーム実況とやらで大成するつもりだという。

 晴行も彼女の夢を応援したいとのこと。


 僕はなんて言おうか悩んだ。

 ハッキリ言ってしまえば、そんな夢物語にうつつを抜かしている女性に息子をやりたくはない。

 だが息子は、彼女以外に結ばれる人なんて考えられないという。

 僕は絢の方をちらと窺った。

 彼女は凛とした眼差しで息子の恋人を見つめながら、


「あなたがどれだけ自身の夢を追いかけ、挫折し、絶望しようと構いませんが、そのせいで大切な息子を不幸にすることは許しません。息子を幸せにし、支えられるだけでなく、支えることを約束できるなら、私に言うべきことは何もありません」


 きっぱりとそう言った。

 恋人は少し動揺したようだったが、すぐに了承の返事をした。

 僕も絢が言ったことにはおおかね同意であったので、特に意見を出すこともなく、二人は結婚することになった。

 その後の顛末を簡単に書き記す。

 まあ一言で言えば、大成功だった。

 というのもあの彼女、妻としての仕事も欠かさず、ゲーム実況とやらで一生遊んでも使いきれないほどの大金を稼ぎまくっているらしい。

 さすがにこれほど成功するとは思っていなかったそうで、息子が酒の席で「立つ瀬がない」と嘆いているのには笑った。

 のちに孫もできた。

 それに彼女は性格も非常によく、よく気の利くいい娘だった。


「あのときお前、よく結婚を許可したなあ」


 と僕は絢に言ったことがある。

 言ってしまえば僕はこんな女に息子はぜったいにやらんぐらいは心のうちで思っていたのである。

 それに対して彼女は、


「だってあなたの子供が選んだ人だもの。いい人に決まってるでしょ?」


 と言ってはにかんだ。

 この歳になっても妻の笑顔は可愛い。




 最近、彼女が「胸が痛い」とよく言うようになった。

 僕は何度も病院にかかることを勧めたが、


「すぐに治るから」


 と言ってろくに相手にもしない。


 ………ある日、絢が倒れた。

 僕は焦って救急車を呼んだ。

 まったく動揺してしまって、救急の人に「気持ちはわかりますがもっと冷静になってください」と怒られた。

 搬送された先の病院で検査した結果、脳梗塞が原因で倒れたらしい。

 幸い命に別条はないが、………がんが見つかった。

 末期の乳がんである。

 すでに胃やさまざまなところに移転してしまっていて、治療は困難とのこと。

 もって三ヶ月だと医者は言った。


 僕は何を考えていいか分からなかった。

 それはあまりに突然の出来事だった。

 本当の絶望の底に沈んだ。

 何故、彼女がそんな酷い目に遭わなければならないのだろう。

 彼女が今までどれほどがんばってきたか、一番僕がよく分かっている。

 なのに。

 どうして。




 絢が目覚めたのは倒れてから二日が経ってからだった。

 医者が以上のことを話しても彼女は、


「そうですか」


 という一言しか言わなかった。

 医者がいなくなると、広い病室に僕と彼女の二人きりになった。

 彼女は僕に沈鬱な表情をいっさい見せなかった。

 僕はただ絶望に俯いていた。


「………私、三ヶ月後には死んじゃうのかぁ」


 何も言えなかった。

 僕はただ俯いているしかなかった。


「晴行の子供は見られないかな。………残念」


 そのとき晴行の妻は妊娠していて、五ヶ月後には出産するはずだった。

 その一言で、僕のなかの何かが決壊した。

 僕は大粒の涙をこぼして泣いた。

 彼女の身体を固く抱きしめた。


「ちょっとちょっと、なんであなたが泣くのよ、もう」

「ごめん、ごめん。僕の、せいだ」

「あなたのせいなわけないでしょ。病院に行かなかった私のせいよ」


 違う。

 彼女がどうして病院に行かなかったのかを僕は知っている。

 絢は僕のために手袋を編んでくれていたのだ。

 冬になると手がかじかんで辛いという僕のために。


「ごめん………ごめん………」





 どれだけ受け入れ難くても、時間は僕らを嘲笑うように残酷に過ぎ去ってしまう。

 時間を巻き戻す術なんてない。

 ただ未来に向かって今という時間を離れゆくだけだ。

 何もかもを過去にして。


 僕たちは残された時間のなかで、色々なところへ行った。

 初デートで行った場所や、大学生のときに遊んだ場所、………大体は時間の流れに押し流されてしまっていたけれど、あの水族館だけはまだあった。

 僕たちはイルカショーを見に行った。

 昔と比べて人の少なくなり、施設も古くなったなかで、イルカの演技だけがあのときと同じ鮮やかさを保っていた。

 水飛沫が飛んできて、ひどく濡れた。

 年甲斐もなく笑った。

 僕たちは楽しかった。


 イルカショーから家に帰ってくると、久々に僕が手料理を振る舞った。

 何十年も経っていても、案外感覚は身体が覚えているもので、特に戸惑うこともなかった。

 僕は何度も彼女につくったチャーハンを出した。

 絢はにこにこしながら僕のチャーハンを食べていた。


「あのときと変わらない味」

「美味しい?」

「もちろん」

「そりゃよかったよ」

「これだったらいくらでも食べれちゃいそう」


 しかし彼女はチャーハンを半分以上残していた。


 一緒に風呂に入った。

 年老いた彼女の身体は病に侵されて細くなり、皮膚を内側から固い骨が張り上げていた。

 湯船はイルカショーで濡れた身体を温めた。


「前まではあなたの方が禿げてたのに、今じゃ私の方が禿げてるわね」

「でも可愛いよ」

「やめてよ、もういくつだと思ってるの」


 彼女は顔を赤らめながらそう言った。

 僕は彼女を愛している。


 風呂から出ると、一緒のベッドで寝た。

 僕たちは互いに互いの身体を抱きしめ合いながら目を瞑った。


「………まだ起きてる?」


 と彼女は言った。


「起きてるよ」

「今日は本当に楽しかった」

「また明日も何処かへ行こう。何処にでも連れて行ってあげる」

「ありがとう」


 その声はやけに寂しく聞こえた。


「私、あなたのことをずっと愛してる」

「僕も愛してる」


 僕は絢のかさかさな唇にキスをした。


「私のこと、忘れないでね」

「忘れないよ。ぜったいに」





 翌朝になるともう絢の身体は冷たくなっていた。

 まだ余命宣告から二ヶ月も経っていなかった。






 彼女がいなくなってしまっても、世界は変わらず回り続けている。

 僕は絶望のなかで日々を過ごしていた。

 あの時みたいに、彼女が幽霊になって現れてくれたらいい。

 そしたら僕はどんなに喜ぶだろう。


 でも、今度はもう二度と彼女は現れなかった。

 もう白装束を着て、おかえりなさいと僕を出迎える彼女はいない。

 そう考えるとちょっと、いやひどく悲しい。


 けれども明日はまた回ってくる。

 明日の次にはまた明日がくる。

 そんなふうにして、昨日はどんどん過去のなかに置き去りにされてゆく。

 彼女の姿が離れてゆく。

 あの日誓った言葉も守れるかどうか分からない。

 僕は日に日に彼女の声を、匂いを、笑顔を忘れてしまうかもしれない。


 それでも僕は生きていくしかない。

 面倒だと思っていた人生を、退屈だと思っていた人生を、彼女が変えてくれた。

 最後に残してくれた手編みの、少し不細工な手袋もある。

 僕の人生は彼女がいなくなっても続いていく。

 彼女のいない世界で、僕は未来へ歩いてゆく。


 決して忘れぬことを信じて、彼女の記憶を胸に背負って。

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