星の後先

柏望

星の後先

「みんな準備できたな! 」


 窓から入る朝日に照らされながら、自主練習に臨む彼ら彼女らには覇気があった。群舞コールドというバレエ団最下層のダンサーの自主練習に最高峰のエトワールが来てくれたのだから当然だろう。

 群舞だったころの私も、喜佐美きさみ千波ちはが来てくれたときは感激で震えを抑えるほうが大変だった。

 群舞たちのリーダーであるコリフェの鈴木さんがいつでも踊れるとばかりに目線を送ってくる。


 脚全体を外側に向けて直立するアン・ドゥオール。バレエの基本である姿勢を全員がしっかりできているかを確認してから、私はスマートホンを操作する。


 レッスン室にあるピアノ椅子の上に置かれたスピーカーが、ピアニストの代わりに音楽を奏で始めた。


 弦楽器の流れるような音楽と共に、ダンサーたちが舞う。年齢や性別、顔や体つき、身に着けるレオタードやトゥシューズまで様々だが、全員が一糸乱れず正確に踊っている。

 足の上がり方から跳躍の高度。回転の速度に小指の指先の角度まで。様々な個性を持っているはずの団員たちが、同じ意識を共有していると錯覚させるほどに統一された芸術を表現する。

 圧倒的といえるほどの群舞の完成度。世界中を探しても、私たちが所属している東華とうかバレエ団以上の群舞を抱えているバレエ団はないだろう。


 とはいえ群舞は群舞。エトワールにしか見えないものはある。


「みなさーん。ストップですよ、ストップ」


 バレエダンサーが声を出す必要はない。けれど、鍛えた身体が出す声はスピーカーで再生された音を容易にかき消す。


 私の声が響いた瞬間、群舞たちは演技を止めて直立不動の態勢を取った。経験の浅い数名以外はよろけすらしない。流石と言いたいが少し堅苦しい。柔らかい表情や声を心がけてはいるのだが、エトワールとしてはまだまだということだろう。


「リラックスしてくださいな。私はとても驚いています」


 わざとらしいほど明るい表情で、ぱちぱちと手を叩いて感激を表現する。バレエダンサーは演技を演技と見分けるが、褒められるなら明るい表情がいいだろう。


 喜佐美千波というエトワールが目を輝かせながら伝えてくれた感激がどれほど励みになったことか。


「教わった振付をみんなで合わせたのは今日が初めてでしょう。しょせん群舞と思うかもしれませんが自信を持ってください。とてもよくできていますよ」


 ホッとするような息遣いがちらほら聞こえてきた。私にとってエトワールは怖いものではないのだが、喜佐美千波と私の違いをありありと感じてしまう。


「これから始まるレッスンでも、午後の舞台稽古でも、私たちは美術監督にたっぷり絞られます。今は身体を温める程度で我慢しましょう。私もレッスンに備えてここで柔軟をしていますから、質問はどうぞお気軽に」


 口角が上がった団員も少なくない。ダンサーが美術監督から厳しい指導を受けるのはいつも同じで、あの喜佐美千波ですら人前で堂々と怒られていた。


 自分が怒られたことすら笑い話に変えて、喜佐美千波は踊り続けた。

 楽しい思い出を共有した仲間たちだからこそ、お互いにお互いを引き出しあえると彼女は信じていたのだろう。


「あぁ。川井さん、少しお時間をいただいてもいいですか」


 名前を呼ばれた新入りは驚きを隠せていないようだった。

 東華バレエ団所属ダンサー八十余名の中で最下層でかつ新入りの名前をバレエ団の顔ともいえるエトワールが呼ぶとは思っていなかったのだろう。

 驚かれるようでは私もまだまだ団員との交流が足りていない。八十名近い団員の顔と名前と得手不得手を覚えている程度では真のバレリーナとは呼べないのだ。


 自分も移動しながら手招きをして、ピアノの近くへと川井さんを誘導する。

 視界の端に映るピアノ椅子には喜佐美千波も座っていた。可憐な指先で鍵盤を叩きながら楽しそうに私たちに指導していた彼女の姿は、いないのが不思議なほどにありありとこの目に焼き付いている。

 エトワールというバレエを踊るだけでは認められない立場にいながら、喜佐美千波は私たちを導いてくれた。羽に殻をつけたままの雛のようだった頃の私は、目の前にいる川井さんとよく似ている。


 だから言うべきことに迷いはない。


「さっきの群舞。移り変わりの難しいポジションをよく覚えてきましたね。一緒に踊るときが楽しみです。でもね」


 最初は褒めることから始めて、言葉は柔らかく声は穏やかに。川井さんが自分から言ってくれれば私にも出せる助け船があるのだから。


「左のつま先を痛めていませんか。アチチュードが揺れていましたよ」

「あっその。いえ大丈夫です。やらせてください」

「悪いことは言いません。今日は見学なさい」


 東華バレエ団の群舞は舞台に上がった出演料として給与が支払われる。 群舞という立場ではダンサーを続けるだけで現金が減っていくのだ。一回でも多く出演したい川井さんの気持ちは痛いほどよくわかる。


「今日は休んで、次のレッスンまでに足を治すのはどうでしょう。見学でもいつもと遜色ない学びがありますよ」


 川井さんは口を噤んだまま反応しない。言われていることが正しいとはわかっているのだろう。


「バレエ団全員で磨いた作品にあなたという傷をつけますか」


 抑えながらも叱責する声が出てしまった。人と人が入り乱れる群舞は、着地点や滞空時間がズレるだけで大勢が怪我を負うことだってあるのだ。


「わかりました。美術監督へは私から連絡します」

「ありがとうございます。心から感謝を」


 エトワールに言われてしまえば、群舞は黙って従うしかない。


 涙を浮かべてその場に佇む川井さんから目を逸らすと、視界の端にピアノの座席が入ってくる。

 喜佐美千波が一度だけ私を叱ったときもこの座席に座っていた。辛い時だからこそ響いた彼女の言葉を、今度は私が川井さんに贈るべきだ。


「川井さん。泣いていてはバレリーナになれませんよ」


 出てきた言葉は自分でも驚くほど暖かく、目元を拭った川井さんはにこやかに医務室へと向かっていった。そっと見送ると、彼女がドアの外にいた誰かにお辞儀をするのが見えた。


 茶崎総監督は覗き見をする人ではない。バレエ団の敷地内だから関係者だろうが、と扉の覗き窓を眺めると向こう側にいた人物と目が合った。


「喜佐美先輩」

「苗字変わってるんだけど、なんてね。いつも通りのやり取りだ」


 顔をひっこめられたけれどもう遅い。わき目も振らず部屋を出てドアの裏側を覗き込む。隠れたつもりだったのか、喜佐美千波がそこにいる。

 本物のバレリーナの雰囲気は肌で伝わってくる。壁や扉で覆えるものではない。


「お久しぶり、彩子さいこちゃん。先輩なんてもう呼ばないで。あなたは立派なエトワールなんだから」

「いいえ、先輩は先輩です。私のような未熟者はあなたが帰ってくるまでの留守役で精一杯なんですから」


 細く長い手足。美しく伸びる首筋。小柄な体つきの中でもひと際小さい顔には、舞台映えする大きな瞳がついている。踊るために生を授かったかのようなバレエダンサーとして理想の体つきは、最後に会った時と寸分変わった箇所がない。

 人形のように少女然とした雰囲気の彼女が、一児の母だと誰も思いもしないだろう。


「自信を持って彩子ちゃん。本当はみんなに会いたいけど今日はレッスンでしょう。茶崎さんとお話する時間までは来賓室でのんびりしてようかな」

「荷物をまとめてきます。ぜひお供させてください」

「え。彩子ちゃんこれから」

「あなたが抜けた穴埋めのため、新しくエトワールになった私は総監督にさんざんこき使われました。支えてもらいたかった先輩は休業中。とっても心細かったと思いませんか」

「彩子ちゃんには人一倍苦労させちゃったね。本当にごめ」

「なにを謝るんです。いまは帰ってきてくれたじゃないですか。総監督との会談はランチタイムの後ですよね。それまでの間を共に過ごせるだけですべての苦労は報われます」


 東華バレエ団の来賓室は総監督が興行や重要な交渉のために使う部屋だ。エトワールといえどおいそれとは使えない。そんな場所を一日貸し切れるのだから、喜佐美千波がどれほど東華バレエ団に貢献したのかは語るまでもなかった。


「わぁ。ふっかふかだよ。見て見て、私なんか埋まっちゃう」


 海外から招聘した人物を楽しませるため、趣向を凝らした和洋折衷のしつらえも喜佐美千波の天真爛漫さにかかればこの通りだ。


「彩子ちゃん。そんなに可笑しかったかな」

「海外遠征の時を思い出しました。ホテルの部屋に入ったときとまったく同じ反応でしたから」


 喜佐美千波は誰かといるのがとにかく好きで、海外遠征の時は常に同じ部屋を利用させてもらえた。時差のズレや食事の違いで消耗した私を、朝から晩までつきっきりで支えてもらえて貰って、どれほど助かったことだろう。


「楽しかったなぁ。イタリアのバール。中国の屋台。トルコのコーヒーハウス。思い出すだけで日が暮れてしまいそう」

「付き合う私は大変でしたよ。どんな時もぐっすり眠っていっぱい食べて、レッスンの空き時間は観光三昧だったんですから」

「バレエダンサーは身体が基本。よく食べて、いっぱい眠って、たくさん笑わなくちゃ」

「もちろんです。貧血や疲労で倒れるようではバレエダンサーにはなれません」


 東華バレエ団はアジア一の公演数を誇るバレエ団で海外公演の数も多い。海外公演はリハーサルを終えれば本番が始まり、次の劇場へ移動する時間に休息を取る。体調不良で帰国するダンサーも少なくない。

 最下層の群舞ならば眠れなくなるか起き上がれずに脱落するかのどちらかで。ソロシーンを任されるスジェやプルミエは確実に休めるときまで眠らない。

 エトワールはどこにいようと揺らがない。その中でも喜佐美千波は半ば観光気分でさえあった。


「どんなステージでもあなたは文字通りの星でした。パの姿勢一つとっても他のエトワールと一線を画す美しさで」

「そんなことはないよ。アクロバットをするなって先生プロフェスールからは最後まで怒られてたんだから」

「言わせておけばいいんです。チケットは発売すれば即日完売。僅かな数が転売されれば価格の桁が一つ増えてしまう。総監督から聞いた確かな話です。あなたは日本どころか歴史にも類まれなる最高の」


 喜佐美千波はニコニコと私を見守っているが、はっきりと私の言葉を拒絶している。バレリーナは嘘を嘘と見破るが、何年もそばに居続けたからこそわかってしまう。


「ごめんなさい、喜佐美先輩。乱しました。先輩の教師の方もこのバレエ団の元エトワール。バレエ団の大先輩にあたる方に無礼な口を」

「気にしないで。久々に会えたんだから。もっと楽しい話をしよっか」


 憧れのバレリーナが私に話をしてくれる。エトワールとしての心構えか。休みの間に観劇したバレエ公演の感想か。今後のスケジュールについてか。

 どれであっても、どれでなくても、心弾む時間になるのは間違いない。


「じゃーん。かわいいかわいい娘の一沙です」

「ありがとうございます。髪と瞳はお母さん譲りなんですね」

「そうでしょ。毎日すくすく大きくなっててね、この前なんか」


 渡されたスマートホンの液晶画面には小さな赤ん坊が映っていた。フリックしてみれば笑っていたり、眠っていたり。抱かれながら泣いていたり。実に様々だけれど、不思議と「かわいい」以上の感想が湧いてこない。

 栴檀は双葉より芳しいというのだけれど、あの言葉は嘘だったのか。それとも、才能とは遺伝しないものなのか。


 こんな小さな命のために、喜佐美千波は素晴らしいキャリアの中の大切な二年間を。


 背筋に冷たいものが走ってそれ以上先を考えることをやめた。ご結婚されたときも、妊娠のために休業すると発表したときも笑顔で送り出してきたのだ。

 今考えてしまったことを、喜佐美千波へ絶対に知られてはならない。

 恐る恐る横を向けば、喜佐美千波は後輩ではなく娘を見つめていた。最初から私のことなど見ていなかったのだ。しかし、総身が崩れそうなほどの歓喜が今の私を満たしている。


「美しい」

「でしょー。将来は私なんか霞んじゃうほどの美人さんに」

「いいえ。世界で一番美しいのは今のあなたです。今お見せになっている表情をバレリーナとしてぜひお客さんに」


 母親となって更なる深みを得た彼女にきっと全世界が狂乱すると確信した。憧れのバレリーナ、喜佐美千波の全盛期をこれから見られるのだ。こんなに嬉しいことはないというのに。


 喜佐美千波の返事は想像すらしていないものだった。


 出番を控えたダンサーほど神経を削らせている人間はいないだろう。そこが本番であるか練習であるかは関係ない。あの喜佐美千波ですら必ず浮き足立っていた。私にとってはなおさらのこと余計なことが浮かんでしまう時間だ。


『私はね。引退するって決めたの』


 今でさえあの言葉が脳裏で反響している。舞台に上がる重圧で立っているけれど、あのまま総監督が来なければ自分がどうなっていたのか想像すらできない。


拾井ひろいくん踊りなさい。言葉でダンサーの心は動かんよ』


 喜佐美千波に舞台稽古を見せて、バレエへの情熱を思い出させてみせろという意味だ。

 東華バレエ団総監督の茶崎ささき考継たかつぐはそう言って説得しようとする私を来賓室から追い出した。ダンサーを酷使することに定評のある彼が、喜佐美千波を手放そうと思うはずがない。


 舞台に出さえすればすべて忘れて踊っていられる、まさか、喜佐美千波のことを考えてこんなに苦しい思いをするときがこようとは。


「喜佐美先輩。見ていますか、私たちの成長を」


 エトワールとなってから、私は一段と成長した。そして、バレエダンサーとして成長したのはバレエ団全員だ。当然、目の前で演技を披露している群舞たちも含まれている。


 一人一人が主役と同様に役と向き合い、全員で話し合いながら作品への理解と表現を磨いていく。他所のバレエ団ならソリストとしてやっていけるだろう逸材が、文字通り一つの群れとして芸術を作り上げるのが東華バレエ団の群舞だ。


 指先に至るまで同じ角度でアーチを描き。寸分の乱れなく同じ宙を舞い音もなく着地する。回転は加速する速度まで合わせて乱れない。

 ただ機械的に合わせているだけなら、どうして数十人のダンサーたちが舞台の上でこれほど統一された動きができるのだろう。脚さばきや視線の向きに至るまでを呼応するように揃えるなんてできないはずだ。


 一人のバレエダンサーが何十人も分身して作り上げたと錯覚するほどの徹底的な統一性と、個性ある団員たちの意思の力が作り上げた美しい表現。


 群舞を担う一人一人が主役に負けない表現を。全員が共鳴しあうことで主役を越える表現を。東華バレエ団の群舞の在りようが結晶したかのような舞台が繰り広げられる。


 単体でも作品として成立させるほどの完成度を誇る群舞。

 才能や技術しか取り柄のない恵まれたというだけのバレエダンサーなら埋もれるほどの芸術であればこそ、エトワールは一層引き立ち輝きを増すというもの。


 黄金律というべき調和が顕現した舞台を。

 喜佐美千波が。その個性で、技術で、才能で、演技で更なる美しさで染め上げるのだ。


「ここがあなたのいるべき場所なんですよ。喜佐美先輩」


 群舞たちは最高のパフォーマンスを見せてくれた。


 あとは主役の独壇場だ。

 脚を進めて、舞台に上がった瞬間に音楽が変わり、スポットライトが私だけを照らし出す。主役のために流れる幻想的な調べに任せて飛翔した。


 誰よりも高く美しく。バレエ団の頂点に立つエトワールならば当たり前のことだ。

 喜佐美先輩、あなたはどう飛びますか。白鳥のように高く華麗に飛びますか。妖精のように宙を滑りながら幻想的に舞いますか。

 

 地面にまっすぐと脚を伸ばしながら着地をしたあとは、静かなマイムを観客に披露する。表情という顔の作り方や指先一つの肉体的な表現。芸術監督や仲間たちと話し合いながら深めた役への理解。溢れだす感情を表現しながらも、理性は確実に技術を刻んでいく。

 

 ここまではバレエダンサーならできて当然。どれほど質を高めても、エトワールにはなれはしない。


 立ち姿に留まらない華。ポワントやジャンプなどせずとも、愛らしい姫君になれる。神秘を纏う妖精になれる。自由に羽ばたく白鳥になれる。それこそがエトワール。


 東華バレエ団のエトワールの中でも、先を走るものも後に続くものもない。誰も真似さえすることができない。真に不世出のバレリーナが喜佐美千波だった。


 圧倒的な存在感と演技力、持続力と柔軟性を備えたパワフルな身体。比類なき個性の頂点が喜佐美千波だというのなら。私は舞踏の力を受けてエトワールになった。


 高く飛び、滑るように進み、狂いなく回転するだけがバレエではない。

 着地。接地しているつま先のコントロール。静止と躍動のコントラスト。鍛え上げた肉体と技術が織りなす刹那の美しさだってバレエの美しさだ。


 音楽が転調し、照明が明るくなる。いくつもの太陽に照らされたような舞台で踊るのは私だけではない。舞台に上がった全員で美しい芸術を作り上げるのだ。


 ある場所で飛び、ある場所は回転し、別の一団はマイムで喜びを表現する。共に踊る仲間たちがどこでどんな演技をしているのか。私はすべて理解しているから、演技のニュアンスをその時々に最高のかたちで彩ることができる。


 主役である私を中心にして一つの芸術が構成されていく。私を軸にして、輝く個性を持った一人ひとりが集まって全員が銀河のように輝いていく。


 バレエダンサー個人だけではない、東華バレエ団としての美しさで私たちは観客を感動させるのだ。


 音楽が止まり、劇場全体に灯りがともる。稽古する予定のワンシーンがこれで終わった。


 芸術監督が止めてこなかったけれど、通しでのリハーサルの前にシーンの全体像を把握したいという意図があったからだ。

 難しい顔をして総監督と話しているのが舞台の上からでも見える。これから厳しい指導が入るのは間違いない。


 とはいえ手ごたえは十分あった。改善できるところ、理解をもっと深められる部分は見つかったが十分な達成感のある練習だった。仲間たちを見ても、今の私と同じ思いをしているのは確信できる。


「レッスンで言われたこと、あの短期間でよくできるようになったな」

「鈴木さんだって芸術監督が褒めてくれたところ、もっとよくなってたじゃないですか。明日にでも教えてくださいよ」


 励まし。賞賛。質問。聞こえてくるような声はどれも明るく、相手を非難するようなものはいっさいない。

 これまでのバレエダンサーとしての人生のなかでも屈指のリハーサルだった。きっと喜んでもらえる。舞台に上がりたいと思わせたはず。


 それなのにどうして。客席にいる喜佐美千波は泣いているのだ。


 リハーサルは午後七時を過ぎるころに終わった。クールダウンをゆっくり行う団員。生計を立てるために別の仕事へと向かう団員。

 残って自主的にレッスンをする団員もいるが、身体は資本だ。明日はリハーサル、明後日は本番というスケジュールで動いているのだから何時間も長居はしない。


 喜佐美千波はもう去っているだろう。せめてもう一度会いたかったと見上げた来賓室は、灯りが煌々と点いていた。


 転んだらどうなるかなど一切考えずに来賓室まで走り抜け、扉を開く。部屋には椅子に腰かけている喜佐美先輩と内線をかけている総監督がいた。


「運がいいぞ拾井くん。来るとは思っていたが思ったより遅かったんでね。店屋物でも頼もうかと」

「喜佐美先輩」

「彩子ちゃん」


 憧れのバレリーナが胸元へ飛び込むのを受け止め、そのまま抱きとめる。

 ソロパートを上手くこなした時、舞台が大盛況だった時、私が彼女と同じエトワールになれた時、いつも共に喜んでくれた。

 総監督がなにか言っているが気にしない。全神経がこの腕の中にいるバレリーナへと集中していく。


「彩子ちゃん。とってもいい演技だったよ」

「はい」

「本番がとっても楽しみ。私も観にいくからね」

「ぜひ」

「お客さんもいればきっと最高の舞台になるから。私が作り上げたかった理想の舞台を見せてね」

「そんなはずがありません」


 喜佐美千波は真のバレリーナ。あなたを夢見るものはいても、あなたが理想などを夢見るものですか。


 言葉にできたはずの思いが、強張った口の中でうめき声に変わっていく。

 私が彼女の理想を作り上げるなど、あり得るはずがなく信じられず、なにより認められない。言葉で定義できない絶望感をどうして声にできるというのか。


 宝石のような瞳に見つめられながら、鋼のように強靭で誰よりもしなやかな身体を感じつつ、彼女の唇が開くのを見守るしかない。


「彩子ちゃん。今までで一番の舞台を思い出してみて。お客さんはどんな反応をしてくれたかな」


 思い出すのは東華バレエ団がボリジョイ劇場で行った公演だ。

 喜佐美千波が夢を叶えた舞台に上がれたのだからバレエ人生に悔いはないとさえ思うほどの素晴らしい出来事だった。


「あの大きな劇場が爆発したみたいな歓声が、幕が閉じたあとも楽屋までずっと聞こえてきました」

「あの舞台のことを考えてたんだね、とっても嬉しい。最高の舞台はお客さんも一緒に作り上げてくれるんだよ」


 劇場のキャパシティである二千人を超えて立見席まで埋め尽くすほどの観客を喜佐美千波は心から歓喜させた。日本とは次元を越えて目が肥えている本場の観客まで湧かせたのは東華バレエ団にとっても偉業の一つだというのに。


「だからこそ。私だけが讃えられるのに耐えられなかった」

「そんな」


 観客はバレエ団の顔ともいえるダンサーを目当てにやってくる。エトワールと呼ばれてもプリンシパルと呼ばれてもそこは変わらない。

 海外公演の場合はバレエ団の名前で集客できるけれど、その場合でもバレエ団の評価はエトワールが決める。


「初めて踊ったとき、家族みんながとても喜んでくれた。先生の教室に入ったとき、一番教わったのは誰かと踊る喜びだった」


 本番も練習もとにかく楽しむのが喜佐美千波だ。彼女にとって踊ることは喜びだということ、少なからず分かち合ってきた私だって理解しているつもりなのに。


「東華バレエ団に入るまで、お客さんからもらえる応援がこんなに力になるなんて知らなかった。毎回毎回舞台が終わるたび、コンクールで賞を取ったときの何倍も感動していたの」

「ならもっと感動できますよ。喜佐美先輩、あなたの全盛期はこれからなんです。それをお客さんや仲間たちに、なにより私に見せず引退するなんて」


 頷くと喜佐美先輩はそっと離れて、私の手を取った。

 小さな掌に長い指先。すべすべとした肌触りは初めて握手してくれたときそのままで。逃げることを許さなかった。


「私のバレエは私のバレエでしかなかった。どれだけ踊っても、あんなに楽しくても、みんな私のことしか見てくれなかった」


 否定はできなかった。だってなにより、私が喜佐美千波という存在に憧れて焦がれていたのだから。

 喜佐美千波の表情が変わる。憧れのバレリーナと向き合った時のような顔が自分に向けられていて、夢か幻を見せられている心地になった。


「今日見せてくれた舞台。本当に凄かった。誰がいなくてもあんなに素敵なシーンは見れないって伝わってくる。あんな舞台で踊りたかった。あれこそが東華バレエ団の舞踏でしょ、茶崎さん」

「ん、うん。アンサンブルに磨きをかけることが東華バレエ団始まって以来の金科玉条だからな。本番も期待しているよ」


 羊羹齧ってないで引き止める努力をしなさいよ、総監督なんだからあなたは。

 いま喜佐美千波を手放せば、東華バレエ団が逸する利益はどれほどかわかっているのか。


「よかった。私は今日ので」


 喜佐美千波の目尻に指を添える。客席で自分の立場を忘れて涙を流すことはあるだろう。私にだって覚えはある。自分で踊ってしまうくらいにバレエを愛しているのだから。

 でも今の喜佐美先輩は舞台にも客席にもいないから。


「喜佐美先輩。泣いていてはバレリーナになれませんよ」


 初めて、そして最後にあなたにお叱りを頂いてから。私はバレエダンサーを引退しようなどとは考えなくなった。今度は私があなたにこの言葉をお返しする番なのだ。

 なだらかな肩をポンと叩けば、彼女の目尻はもう濡れていなかった。


「嬉しかったから踊り始めて、楽しかったから踊り続けたのでしょう。誰かのために踊ってもいいんじゃないですか」

「拾井くんの言うとおりだ。これからは君を楽しませ続けてくれたお客さんへの、同じダンサーたちへの、そしてバレエへの恩返しとして踊るんだ」


 世界各国の劇場や国内外のダンサーたちと交渉して、スポンサーを見つけてくる興行のカリスマ。東華バレエ団総監督の言葉で喜佐美先輩の表情が揺らぐのを見た。

 彼女が迷っているのなら、誰のために踊ればいいのかを私は既に知っている。


「お母さんが踊っている姿を、娘さんにもいっぱい見せてあげませんか」

「はい」


 滲む視界にまったく新しいバレリーナの姿が映っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星の後先 柏望 @motimotikasiwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ