六章 佐原莉子 4(さはら りこ)
「――あ」
その時、稲妻のような衝撃が頭の先から爪先までを貫いた。
「まさか……」
心臓が急速に早鐘を打ち始める。
鳥肌が首筋から這い上がり、指の間からスマートフォンが滑り落ちた。
「まさか……まさか……」
慌てて拾い上げようとするが、何度やっても指が震えてスマートフォンが掴めない。諦めてゴザに置いたまま這いつくばるようにして画面を操作した。
「まさか……まさか……まさか……」
指の震えが酷過ぎてまともに画面が触れない。
人差し指に噛みついて、ようやくアイコンにタッチできた。
『やめて、
何度も聞いた莉子のお母さんの悲鳴が、スマートフォンのスピーカーから流れ出した。
「まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか……」
もう何十回も見たから覚えている。時間でいえば七秒過ぎ、先生の怒鳴り声が聞こえた直後。
『
この後すぐだ。カメラが回って佐原悟の顔を捉える。
その一瞬、前。
そんな。
ああ、そんな
写っている。
壁に張られた旗、蛇の十字の刻印が。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
叫び声が小屋中に響き渡った。
叫ばずにはいられなかった。私の頭に生じた爆発的な衝撃は、声に出して外に逃がさなければ、体をバラバラに破壊してしまうほど大きなものだった。
「……私だ」
私が送ったんだ。
『鈴前、もう一度動画見せて。最後のところ』
『あの先生、動画送りましょうか?』
『父さん儀式の部屋の写真すごく欲しがってたし。動画があれば最強だよ』
『本当に? じゃあ、百地に動画送るね。よかった、役に立って』
『そうだ、あの動画芝にも送るね。呪い返しのヒントを探す手助けになるかもだし』
『おお、頼むわ。じゃあな』
『これ見てよ智恵理、送るから』
『何? え、動画? これ、莉子んちのキモい小屋じゃん』
みんな、私が配ったんだ。
私が最後のトリガーを引いたんだ。
また雷鳴が轟いた。今度も極々近くで。
でも、動けなかった。
夜風が庭を駆け抜けて開きっぱなしの入り口から雨粒を呼び込む。頬が濡れ、剥き出しの両手両足に滴が落ちた。
扉を閉めるべきなのはわかっていたけれど、私はゴザに這いつくばったまま身動きも取れず、ただただ同じ言葉を呟くことしかできなかった。
「違う……違う……違う……」
私じゃない。
違うんだ。
だって、私は生きているから。私の送った動画が最後のトリガーなら、私がいま生きていることが説明つかない。
私だって五つのトリガーを踏んだはず。真っ先に死ぬのは私のはず。
座布団にも毎日座っていたし、晴れの御まじないは口に馴染んでいるし、この小屋にも入ったし、動画だって保存している。それに――。
あれ、あと一つは何だっけ?
《四、舌に『宗主の血』を――標的に宗主の血を飲ませる》
飲んだか、そんなもの?
莉子の日記では達成したことになっていたけれど、そんなもの飲んだ覚えがない。
開きっぱなしの天文ブックに這い寄った。急がないと。充電はいつ尽きてもおかしくない。検索欄に「宗主の血」と入力してソートする。
あった。日付は去年の冬。
「この日って、確か……」
《2019年 1月23日》
《第二、第三のトリガーを発動》
《ああ、やっぱり私は天才なのだろう》
《最強のネクロマンサーになるために生まれてきたんだろう》
《最難関だと思っていた第二と第三のトリガー、こうもあっさりとうまくいくとは》
《失敗知らずの二枚抜き》
《全員馬鹿みたいに御まじないを唱えて、馬鹿みたいに宗主の血を飲み干した》
《天王星食の写真も綺麗に撮れたし言うことなしだ》
《よく目に焼き付けておきなよ。これが最後の月食になる》
天王星食。
そうか、この日は天王星食の夜間観察の日だ。
初めて莉子が空の晴れる御まじないを教えてくれた日。この日に私達はもう一つのトリガーを踏んでいたのか。
思い出せ、この日何があった?
季節外れの台風の後、酷く寒かった日。みんなで震えながらシャッターチャンスを待った日。そして、寒さが頂点に達した時に莉子が水筒を出してきて――。
「甘酒か」
中身は莉子の手作りの甘酒だった。
莉子らしい几帳面さで全員分の紙コップを用意され、簡易テーブルの上に並べられた。
あの中に、『宗主の血』を混ぜていたのか。『宗主の血』が本当に人間の血液なのかはわからないけれど、それなりに味も匂いも濃いのだろう。だから、それ以上に味が濃くて匂いが強い甘酒に混ぜ込んだ。
「そういうことか……」
全身から力抜けた。ゴザの上にゴロリと転がり大の字に横たわる。吹き込んだ雨と風がみるみる内に体温を奪っていた。
そう、あの時もこんなふうに寒かった。みんな心底冷えていたから、配られた甘酒を美味しそうに飲んでいた。
……私以外は。
私は人が作ったものが食べられない。
マドレーヌが食べられない。麦茶だって飲むことができない。
甘酒なんてもっての他だ。
いらないと言ったのに莉子はカップに並々注いで寄越した。匂いだけで吐きそうになった。捨てようと思った。けれど地面に撒けば匂いでバレる。
――だから私は。
――みんながコップから目を離した隙に。
――みんなが天王星食に夢中になっている隙に。
――テーブルに並んだみんなの紙コップに流し込んだ。
―― 増えたのがわからないように、全員のコップに分けて少しずつ。
「……そうか。だから、莉子は死んだんだ」
莉子はきっと自分用に血を混ぜていない甘酒も用意していたのだろう。まさか自分のコップに他人の甘酒が注ぎ込まれるなんて予想もしていないはずだ。
自分だけ第三のトリガーを踏んでいないと勘違いした莉子は、それ以外のトリガーをほいほい踏んで自滅した。
「そうか……」
稲光が夜の庭を束の間照らした。音はやや遠い。雷雲は通り過ぎつつあるようだ。
「そう……いう……ことか……」
唇の端がびくびくと震え、独り言がぶつぶつと途切れた。気を抜くと漏れ出してしまう。
笑い声が。
我慢できずに笑った。
振り込む雨にずぶ濡れになりながら、笑った。
おかしくておかしくて仕方がなかった。
なんだ、結局全員私が殺したんじゃないか。
莉子も先生も百地も水原も智恵理も佐原悟も。
「ごめん、莉子。最強のネクロマンサー……私だったわ」
天文ブックのモニターが静かに消えた。ついに充電が尽きたのだろう。
小屋が闇に包まれる。
私はもう立ち上がれなかった。雨の匂いに混じってなぜか鼻に香ったのは、そこにあるはずもない甘酒の匂い。
あの日、莉子が作ったあの甘酒だ。
どろりと粘りがあって、
匂いが強くて、
カップの壁に粒が張り付いて、
吐瀉物のような甘酒。
「……飲むなよ、あんな気持ちの悪いもん」
私の呟きは遠ざかっていく雷鳴にかき消された。
また笑いが込み上げてきた。
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