第5話 憂き世の章

 奇妙な薬屋との出会いから、十年近くが経ち。


 くちなわの母が病に倒れた。

 腹に出来た腫物はあっという間に大きくなり、一月も経たないうちに母の命を奪ってしまった。村人達の手を借り、野辺送りを済ませたくちなわは、一人きりの暮らしに寂しさを覚えるよりも、母が苦しむ時間が短く済んだことに安堵していた。


 村で疫病が流行り出したのは、それから間もなくのことだ。半年近くも流行り続けた病は、軽い発熱から始まり、数日の間全身に痛みを伴うものだったが、幸いその病で命を落した者は殆ど居なかった。ただ、恢復後も荒れた肌が中々元に戻らず、酷く黒ずむのが、年頃の娘にとっては痛みよりも余程厄介だった。

 そんな中、宗太がくちなわの家を訪れ、初めてくちなわに頭を下げた。


「これまでの事は心底詫びる、本当に済まんかった。どうか頼む、肌に効く薬を作ってくれんか。お前は薬草に詳しいじゃろ」


 宗太が執心している菜のはも、肌荒れに苦しんでいる一人だったのだ。

 確かに自分は村の誰より山に詳しいが、薬草の全てを知っているわけでも、医者を生業にしているわけでもない。どうにかしてやりたくても出来る自信も無い。そうくちなわが断り続けても、宗太は毎日のようにぼろ小屋を訪れては、只管に、頼む、頼むと繰り返す。

 仕方なく数日かけて塗布薬を拵えて渡してやると、宗太はくちなわの手に強引に金粒銀粒を握らせ、礼もそこそこに菜のはの所にすっ飛んで行った。


(いかん、こいつを返しそびれたな)


 渡された金銀の粒を手に宗太の後を追おう踏み出しかけたくちなわの足が止まる。上体をふらつかせ、


(……まあ、今度でもいいだろう。頭も痛い。今は顔を合わせたくない)


 いつでも返せるように、金粒を小袋に入れ懐に仕舞い込むと、くちなわは背を丸めて床に横たわった。


 ずきり


 ……身体が怠い。


 ずきん! ずきん!


 ……ああ、頭が痛む。


 山の中の、普段は行かない場所にまで足を延ばしたりしたから、疲れが溜まっているのかもしれない……その日は早々に床に就いた。


 本格的に困ったことになったのはそれからだ。

 くちなわの拵えた薬は、菜のはに僅かに効いたのだ。少し効けば、もっとを望むのが人情というもの、宗太は菜のはの望みを叶えようと、連日くちなわの家に押しかけた。宗太だけではない。菜のはから話を聞いた他の娘の親達も、娘を何とかしてくれと泣きついて来る。


 だが、どれだけ望まれようと、くちなわが彼等に応えることは出来なかった。菜のはの為に拵えた薬には、山でも滅多に見掛けない上、この時期には咲いていない花を使っており、以前に干しておいたのは使い切ってしまっていた。応えようにも応えられなかったのだ。


「お前にしたことは謝ったじゃろう? 何か欲しいのか? 金か、米か。それとも、俺が口を利いて、村の中に家を建ててやろうか? こんな山際の掘立小屋暮らしより、よっぽど賑やかで楽しいぞ」


 そう宗太に宥め賺され、時には恫喝されても、くちなわは断り続けることしか出来なかった。何度も同じ言い訳をするのも次第に億劫になり、ただ、出来ない、無理だを繰り返すだけのくちなわを、宗太がどう感じたのかは想像に難くない。


 程無く、村に噂が流れ出した。

 くちなわが薬の値を吊り上げようとしている、などというのはまだ可愛げがある雑言だった。利を得る為に薬で流行り病を引き起こしただの、くちなわの母が死んだのが流行り病の始めだっただの、少し考えればおかしいと分かる話が、あっという間に広まり、気付くと、病を齎したのがくちなわ本人だということになっていた。


 あの病は山の者に特有のものに違いない、くちなわが常に胴に布を巻いているのは病の痕跡を隠しているからだ、と。


 くちなわの村での居場所は増々無くなった。山のものだけで生活を賄わざるを得なくなったが、不便はなかった。寧ろ、身体は疲れていても、こんなに気が休まるのは久しぶりに思えた。



 村に下りなくなって久しい、明け方。泥の様に眠っていたくちなわは、宗太とその取り巻き達に叩き起こされた。


「なあ、くちなわ。俺が村の皆に噂のことを執成してやってもいいぞ? その代わりに薬を作れよ。材料が無いなんて嘘なんだろ? ほれ、そこにも、あそこにも、色んなものがあるじゃないか」

「何度も言った。今ある材料だけじゃ、あの薬には足りん」

「手に入る材料でだけで作ったのでも構わん」

「効き目が薄い」


 またこの繰り返しかと辟易するくちなわを、宗太は嘲笑った。


「やはり、噂は本当なのか。お前が儲けるために病を振りまいたんだろう? 幾ら欲しいんだ?」


 噂の出所当人が恥知らずにも放った言葉に、くちなわは唖然とした。


「……違う。おいらは流行り病なんて振りまいてない」

「なら、証拠を見せてみろ。何、その胴に巻いとる布を取って見せりゃいいだけじゃ、簡単じゃろ。誰も見たことが無いから、皆、不安になっとるんだぞ。ほれ、見せてみろや」


 宗太がただくちなわを打ちのめしたいだけ、ということは、誰の目にも明らかだった。

 くちなわが身を縮める。「くちなわ」の名を持つ自分がこの状況で身体を見られて、村を追われるだけで済む筈が無い。


(なあおっ母、本当にこんな思いをしてまで、一か所に留まる必要があるのか? そんなに里の暮らしは尊いものか?)


 きりきり

 ずきん、ずきん!


 頭が痛んだ。気付くと、くちなわは家を飛び出していた。

 肌身離さず身につけていた小袋と己の身体以外の何も持たず、ひた走る。

 騒ぎ立てる宗太とその取り巻きの只ならぬ様子に起き出してきた村人達も、くちなわの捜索を始めた。


(ここに、おいらの居場所はないんだ)


 漸く決意することが出来た。村を出よう。そして、二度とここには戻らない。

 そう考えた矢先、ちらりと父のことが頭を過った。このまま村を出たら、もし母や自分に会いに父が再び村にやって来たとしても、彼は母の死も、くちなわの行く先も知ることはないのだ。


 くちなわは軽く首を振った。


(構わん。どうせ、山の自由な暮らしで、おっ母やおいらの事なんて思い出しもしないだろう)


 山の民の血がくちなわの中で騒めく。山の民を探し出し、自分も共に暮らす道もあるのかもしれない。だが、父への複雑な想いが、くちなわの行く末を決めた。


(行こう。おっ母の言ってた通り、別の里村で暮らすんだ。どこだって、此処よりはましだろう)


 ずきり


 頭が痛む。


(ああ全く、この名に良い思い出など一つも無い)


 くちなわは、里で暮らしていく為の一歩を踏み出して――

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