未来を賭けた対決
第21話 未来を書き換えるために
街灯の白い光が辺りをぼんやりと浮かび上がらせる。日中降り続いていたはずの雨はすでに上がり、アスファルトのへこんだ部分に水溜りを残していた。
(繋がりませんね……)
あやめは握っていた携帯電話を見る。終了ボタンを押して画面を切り替えると、ディスプレイにでかでかと現在の時刻が表示された。二十時三十分。まだ眠るには早い時間だ。
(強引に運命を捻じ曲げて貴家さまと合流しましょうか)
地上に降りてすぐに電話を掛けたのだが貴家には繋がらない。切り替わる留守電にメッセージを登録しておいたが、折り返しの電話はなかった。
(この近くにいるだろうことは確かなはずですが)
あやめがいるのは貴家の住むマンションから程近い公園。マンションにはいないらしいということは茜に調査してもらっていたので確かだろう。茜の鏡にはオートロックの扉を出る貴家の姿が映し出されていて、さらに追跡しようとしてくれたのだが、どういうわけかノイズがひどくて見ることができなかったのだ。だからどこに出掛けたのかはわからない。
(こんな時間に出掛けるなんて珍しいですよね)
貴家は予備校や塾には通っていない。学校から帰るとすぐに夕飯などの買い出しに行き、そこから戻ると基本的には家を出ない。今日の帰宅時間は十八時前後であったはずなので、それから買い物に行ったのだとするとこんな時間に外に行く理由はないと考えられる。
(そんなに時間は経っていないはずなんですが、ここまで会えぬとは)
携帯電話を家において外に出てきたということだろうか。それならば電話に出ることはできまい。
(仕方がありませぬ)
こうなったら直接玄関の前まで押しかけよう、そう思ったときだった。
「おや。こんな時間に公園にいたら危ないですよ」
ふいに声を掛けられてそちらを見ると、ジーパンに黒いジャケットを着た少年が立っていた。あやめはその人物の瞳がギラリと光ったのを見て身体を震わせる。
「井上さま……どうしてここへ?」
「気分転換ですよ。今日は予備校はありませんし、家でじっとこもって勉強しているのは身体に悪いですから」
すたすたと早足であやめに近付きながら、彼はにこやかな表情で答える。
「奇遇ですね」
口先だけ平生を装って言うが、逃げるかのように後退りしてしまう足を止めることはできない。
「逃げないでくださいよ」
井上はさっとあやめの腕を掴む。
「逃げませんって」
その手を振り解こうとするが力が込められていて簡単にはいかない。無理やりはがそうと空いていた右手を、掴んでいる手に伸ばす。
「嫌がらないでくださいって。唇を奪ったことを許せないんでしょうけども」
伸ばしたあやめの手は、しかし井上の左手によって拘束されてしまう。
(や、やだ……身動きが取れませぬ!)
井上はしっかりとその手を離さない。小柄なあやめが、華奢とはいえ少年の本気の力を前にして勝てるわけがない。
「うん。いい表情だね。僕のこと、憎んでる?」
口の端を上げて問う。とても楽しそうな様子で。
「――ワタシはあなた様を哀れみます」
彼について、許せないことや納得できないことは多い。それでもそのすべてを拒否し、憎み続けるのは得策ではないと判断した。ならば、彼が望むことを、できるだけ自分が望むことに近付けて解決するしかない。
互いを分かり合えないことを歯がゆく思う、それ故に悲しく、それ故に哀れみの感情が生まれる。それは一方的な想いで、彼が望むことはないと想像できる解決法。それでもあやめは、そうせざるを得なかった。
「哀れむ? それは愉快だね」
掴む手に力が込められる。あやめは苦痛で顔を歪めた。
「あんたには僕の気持ちはわからないでしょう。どんなに努力をしてもレオのようにうまくいかない、そんな惨めさを」
「あなた様は惨めだとは思っておりませぬ」
「なにがわかる!」
「!」
叫んで、井上はあやめを思いっきり押し倒した。湿り気のある地面にあやめはぶつかる。
「――あなた様は、貴家さまのそばにいることを誇りに思っていらしたはずです。自慢の親友だと思っていたはずです」
起き上がろうとしながら告げると、井上はあやめの上に圧し掛かった。仰向けになっているあやめの襟元を掴んで持ち上げる。
「それは昔の話だよ! カズハがレオと付き合う前の話だ!」
「今も同じですよ」
できるだけ優しく、諭すように言う。
「人間の気持ちなんて、常に一定じゃないんだ。必ず変わってしまうものだよ」
「一葉さまもそうだったからですか?」
「!」
井上の目に動揺の色が走る。
「ずっとこのままであればいい。貴家さまと一葉さまが互いを思いやり、幸せを感じていられるならそれが良いと、あなた様は身を引きました。そうですよね?」
「し、知った口を叩くな!」
言って、井上は地面にあやめの頭を叩きつける。
痛みをこらえて、あやめは続ける。
「人は成長します。ずっと同じであることなどありえない。それは外見だけでなく中身も一緒です。すべては変わるものです。いえ、変わってゆかねばならないものです」
「あんた、言っていることが矛盾している」
あやめは下から井上をじっと見つめた。激昂する井上の気持ちを逆撫でないように。
「――ですが、変わっていくならば、変わるきっかけとなる出来事や思いは必ずあるはずです。そしてそれは、変わりようがない」
「!」
「あなた様の貴家さまに対する想いは深い愛情から来ています。そして、一葉さまを死に追いやったのも、彼女に対する深い愛情ゆえだった」
「あんた、知って……」
「ワタシはそれが間違った方法であったと考えております。しかしあなた様の強い想いを否定できるわけではありませぬ。それがワタシはつらい」
近付いてきた新しい影。
「――井上、いや、ジュン。あやめが言っていることは本当なのか?」
その影は井上の肩に手を置いて訊ねた。
「レオ……」
驚きを隠せない表情の井上に、冷ややかな表情の貴家は顎をしゃくる。
「まずはあやめの上から退け。乱暴なことはするな」
きつい口調に身体を震わせた井上は、黙ったままあやめの上から退く。
「大丈夫か、あやめ」
貴家が差し出した手を取って、ようやくあやめは起き上がる。
「大したことはありませぬ」
そう答えたものの、掴まれていた腕や打ちつけられた頭には痛みが残っている。しばらくは治りそうにないなとあやめは思う。
「――さてジュン。これは一体どういうことなんだ? あやめが言っていたことも含めて、説明してもらおうか?」
傍に立っていた井上は、貴家の問いに黙って俯いていたが、くくっと声を出し腹を抱えて笑い出す。
「何がおかしい?」
不機嫌そうに訊ねる貴家に、井上は笑い続けたまま答える。
「だって、僕はてっきりレオは知っていると思っていたからさ。だって考えればすぐにわかることじゃないか。僕はあの事故の第一発見者だったわけだし、そうだったんじゃないかって指摘してきた人間の口封じをするのだってごく自然な成り行きでしょ?」
「お前……!」
殴りかかろうとした貴家だったが、そこで思いとどまる。気持ちの問題ではない。井上が刃物を取り出したのだ。
「力の勝負でもレオには勝てそうにないからね。武器を持ってようやくイーブンだ」
井上の手の中で光っているのは果物ナイフだった。
咄嗟に貴家はあやめを自分の背後に隠す。
「レオが神様に好かれているのに気づいてずっと羨ましく思っていたんだけど、どうやら僕にも似たような力があるみたいでね。消えてくれたらいいのに、って思ったら、そう願った相手は必ず不幸になるんだ。直接手を下さなくても、僕の願いは実行される。愉快でしょ?」
「な……」
絶句する貴家に、笑い続ける井上。静まり返った雨上がりの公園に井上の嘲笑が響いていく。
「でもさ、レオには全く効かなかったんだよね。どんなに不幸になれと思っても、全然変わらないんだよ。納得できなかったなぁ」
(井上さまの多重世界シンドロームの力に、貴家さまの多重世界シンドロームの力が勝った、と?)
あやめはそこで考え直す。
(――いえ、きっと心の底から願えなかったからですね。いなくなられては困ると、心のどこかで思っていたから実行されなかったのです)
井上の持つ多重世界シンドロームの力は、強い恨みや憎しみの気持ちに作用して発動するもののようだ。ゆえに普段はその力が表面に出てこない。
彼は元来、他人に悪意を抱いて生きている人間ではない。理不尽さに対して強く反応し、他人(ひと)よりもちょっと恨んだり憎んだりしてしまうだけのありふれた人間なのだ。全くの他人に対して加減を知らない人間であったとしても、良く知る人間であればそこまで深く恨むことはないはずだ。裏切られたと思わない限り。
「――だからね、僕は願うのをやめちゃった」
笑い声が止む。空気が変わる。
「使えない神様を当てにするんじゃなくて、自分から動けばいいんだって気付いたんだ」
威嚇のために握られていたナイフが刃の向きを変える。
「だから、消えてよ、レオ。僕の心を静めるために」
井上が動く。至近距離からの突き。
動きを見切っていた貴家はあやめをかばうような位置でぎりぎり回避する。
「じっとしてくれたら、苦しまずに死なせてあげるよ。天国ではレオが愛したカズハが待っていてくれてるよ?」
言いながら、井上は次の突きを出す。
貴家はその攻撃を避けきれず、腕を掠める。来ていたジャンパーを切り裂かれたが、肉を切るには至らなかったようだ。
「惜しいなぁ。おとなしく死んでよ!」
「馬鹿! オレが死んでお前の気持ちが静まるものか!」
「僕はずっとレオがいなければ良いって思っていたんだよ?」
「オレはジュンたちと一緒にいられて良かったって思っているぞ」
井上の周囲を暗闇が包む。
対する貴家の周囲も歪みが生じている。
互いに一歩も譲れない願いの争い。
多重世界シンドローム発症者同士の戦い。
(貴家さまを殺させたりはしませぬ)
あやめは貴家にかばってもらいながら、井上の刃が届かぬ位置に移動。すぐに導き手(ラケシス)としての力を発動させ、貴家の援護に回る。井上の攻撃に服を裂かれただけで済んだのも、あやめの援護の賜物だ。
「レオは綺麗ごとばっかり並べるだけで、ちっとも心に届かないよ。カズハが死んでからの毎週の慈善活動は見ていて笑っちゃった。どうせカズハを護れなかったことに対する罪滅ぼしのつもりもあったんでしょ? ホント、くだらないなぁ。そんなことをしてもカズハが戻ってくるわけじゃないのに」
「オレがやりたいからやったんだ。別に構わんだろうが」
心臓だけを狙っているかのように動いていた刃が、足や脇腹をも対象にするようになる。井上の攻撃開始時にあった迷いが消えてきていた。彼の持つ多重世界シンドロームの力が、彼自身の迷いを打ち消しているのだ。
「レオは誰にでも優しい。だから誰からも好かれる。――でもさ、それって誰にも優しくしていないのと同じじゃないの? 僕は、優しさっていうのは特別な誰かに対し使うモノだって思っているんだけど?」
突きの軌道がより洗練されていく。
「オレは別に優しくねぇよ。自分がやって欲しいと思うことを他人にもしているだけだ」
軽やかにかわしているかに見えるが、掠る回数が増えてきた。
(井上さまの力に押されている……!)
多重世界シンドロームの力と《導き手(ラケシス)》の力を重ねて使用しているというのに、井上の動きについていくのがやっとで反撃のチャンスは来ない。井上の持つ運命干渉力は貴家とあやめの力を確実に上回っている。
「なんだ。自分の価値観の押し売りだってわかっていて、そうしていたんだ」
「だってそうするしかないだろう! 相手が本当に望んでいることなんて結局わからねぇんだから!」
(まさか……)
あやめの迷いが、能力の差となって現れた。
「……どんなに相手のことを想っても、わかろうと努めても、所詮は他人なんだ。相手も人間だとわかるだけで、中身のすべてを理解できるわけがない」
赤い液体がナイフの刃を濡らす。
(そんな……)
井上が突き出したナイフを、貴家は素手で掴んでいた。
「分かり合うことなんて一生できないのかもしれない。でもそれが普通だ。それが家族であっても、恋人であっても、親友であっても、そこにいるのは自分以外の人間なんだ。それを理解するだけで精一杯だよ」
動かそうとしているのに全く動かないナイフを、井上はついに手離した。
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