第19話 事故発生


 あやめはすぐに一葉に追いついた。浮かれたままの足取りで、彼女は自宅に向かっているところのようだ。


(良かった。まだ事故までは時間があるようですね)


 一葉を見つけてほっと胸を撫で下ろすと、あやめは井上が現れないか周りを注意する。


(今のところ変化はないようですね……)


 あやめが見ている限りでは一葉の周囲に異変はない。もしも多重世界シンドロームの影響を受けているのであれば、彼女の周囲にも歪みが生じるはずなのだ。それがないということは、少なくとも現在は正常な運命(さだめ)の上を歩んでいることになる。


「ん?」


 一葉が突然立ち止まる。背負っていたミニリュックの中から携帯電話を取り出した。


「何か用? ジュン」


(ジュン?)


 通話キーを押すなり、一葉は親しげに喋りだす。知人からの電話のようだ。


「――いやいや、余裕はないって。でも息抜きは大事でしょ? ――え? 近くにいるの?」


 言って、一葉はきょろきょろと辺りを見回す。


(ジュンって、井上純也さまのこと?)


 一葉の通話の相手に気付くと同時に、あやめの肌を冷たいものが撫でていった。正確には、どこまでも悪意に満ちた視線が彼女を透過していったのだ。


「何やってるのよ。直接声を掛けてくれればいいのに」


 振り向いた一葉の視線の先に、黒いシャツにジーパンを穿いた井上純也の姿があった。


「デートの後でご機嫌だって言うのがとても良く出ていたから、話し掛けにくくってさ」


 井上はにこやかな表情で一葉に近付いていく。


(井上さまの周囲も今のところ問題はなさそうですね)


 多重世界シンドロームを発症している可能性があるとあやめは思っていたが、貴家の場合とは違って安定して出力されているわけではないらしい。ぱっと見ただけでは委員会(モイライ)の能力者であってもわからないであろうし、正直感じ取りにくい。そうであるとほぼ確信しているあやめであるからこそ、井上の周囲にあるわずかな歪みを感知できる。しかしそれは世界に大きな変化を与えるほどのものではない。脅威となるには弱すぎる。


(もしも彼が他の多重世界シンドローム発症者を死に追いやるだけの力を持っているとするなら、一体どこからそんな力を出せるというのでしょう?)


 委員会(モイライ)がノーマークであるのも頷ける微弱な信号。それなのに貴家の多重世界シンドロームの力を凌駕するだけの出力がされるとは想像できない。


(ワタシの思い過ごしであるならそれに越したことはありませぬが……)


 井上が関わっていると決定付けられる現場を押さえておきたい。しかしそのためには一葉が事故に遭う一部始終を見ていなければならない。


(あぁ、お願いです。彼女をひどい目からお救い下さいませ)


 叶わないとわかっている願い。それでも願わずにはいられない。


「え? 気を遣ってみたつもり? いっつも邪魔ばかりしてくれるのに」


 携帯電話をミニリュックの中に押し込むと、その手を腰に当てて一葉は言う。


「邪魔とは失礼だね。生暖かい目で見守っているだけじゃないか」


「それが迷惑なんですー」


 ぷいっと横を向いて、余計なお世話だと態度で示す。


 それに対し井上も応じる。


「なんだよ。忠告してやっているんじゃないか。レオと一緒に遊んでいたら、到底同じ大学には行けやしないってさ。――世継学園は進学校だけど、彼、だいぶレベル落としてここにしたんだよ? それを忘れていない?」


「ちゃあんと覚えているわよ。そっちこそ、あたしがジュンよりも成績が良いってこと、忘れてない?」


 彼女の人差し指が井上の鼻の頭に向けられると、彼は不敵に笑ってその手を払う。


「どうかな。こないだの中間、自己採点では平均が八十は超えたと思っているけど?」


「む……。あたし、まだ自己採点してないけど、負けていない自信はあるわ」


「――言っておくけど、レオはもっと上なんだからね? また足を引っ張るようなことにならないようにしようって誓ったんだからさ」


「同じ大学に行くって約束を守るための努力はしているって。だからこうして家に帰るところなんでしょ」


 そう答える一葉であったが、その顔はさっきまでのものとは変わっている。どこか遠くを見つめ、そして悲しげな表情を浮かべていたのだ。


「……ねぇ、ジュン?」


「ん?」


 声も愁いを帯びていて、寂しげに響く。そんな一葉の様子に、井上も先までの態度とは変えて返事をする。


「やっぱり、余計な約束だったかな?」


「何を今さら」


 井上は肩を竦める。


 一葉は続ける。


「あたしたちがいるから、レオは自由になれないのかなって」


「彼は充分に自由だよ」


「ううん。レオは常にあたしたちのことを気に掛けてくれている」


 その台詞に、井上は険のある瞳(め)で一葉を見る。


「僕だってカズハやレオのことを気に掛けているよ」


「でも、彼みたいに留学を蹴ってまでここに留まろうなんて思えないわ」


「それはカズハと離れたくなかったからじゃないの?」


「うーん、それだけかなぁ?」


 一葉は言いながら歩き出す。井上も合わせて移動する。


「他に何があるんだよ? レオがカズハのことをずっと好きだったってことは知っていたんでしょ?」


「それとこれとは別の問題よ」


「彼にとっては同じ問題のはずだよ」


「――だったらさ」


「?」


 急に一葉は立ち止まり、井上の顔を真っ直ぐに見つめる。井上は彼女が喋りだすのをじっと待っている。


「あたしが死んだら、悲しんでくれるかな? それとも、肩の荷が下りたって喜んでくれるかな?」


「いきなり何だよ?」


 井上は一葉の唐突な告白に苦笑する。


「あたしがいないほうが、彼は自由になれるんじゃないかな?」


「何言っているんだよ?」


「だって、どう頑張ってみてもレオには追いつけないもの。ジュンは思わないの?」


 切ない色の混じる瞳。井上は視線をそらさない。


「彼は僕にとっての目標だ。追いつけるかどうかは別問題だよ。自分を高めるためにも、彼にはいてもらわないと困る」


「そっか……」


 一葉は再び歩き出す。


「なんかさ、思ったんだけど」


「何?」


「レオとジュンの関係ってなんか難しいよね」


「難しくなんてないけど?」


 振られた話題に、井上は不思議そうな顔をして一葉を見つめる。


「あたしさ、この関係をずっと続けていきたいと思っていたんだよね」


「過去形じゃなくて、現在進行形で全く構わないと思うけど?」


 違和感のある台詞にすぐに問うが、一葉は無視して続ける。


「二人はさ、どんどんと先に行くことができる。でもあたしは、先に行くレオたちと歩幅を合わせることができない」


 遠くに目を向けたままで告げられた言葉。


「できているじゃん。問題ないよ」


「だってあたしは女の子なんだよ?」


 一葉は井上を全く見ようとしない。


「それがなんだって言うのさ?」


「レオはあたしのことを好いてくれている」


「それでいいじゃないか」


 不満げな気持ちがこもる井上の声。


「ジュンはレオのことを好いている」


「普通でしょ? 友達だもの」


 苛立ちが混じっていても、それが当然であると主張する声音。そこでやっと、一葉の視線と井上の視線が交わった。彼女の顔には困惑の色がにじんでいる。


「違う! ジュンの『好き』は、レオがあたしに寄せている『好き』と同じなんだもん!」


「!」


 一葉の指摘を受けて井上はぴたりと足を止めた。


(え、あ、……そういうことなんですか?)


 あやめはびっくりして声を上げそうになったところを手で押さえて止める。別に叫んでしまっても一葉たちに聞かれる心配はいらないのだが、反射的にそうしていた。


「……だってそうなんでしょ?」


 一葉はじっと井上の顔を見つめる。気付いてはいけなかったものに気付いてしまったときの気まずい表情。


「勘違いだよ」


 先に視線をそらしたのは井上。


「なら、ジュンが気付いていないだけよ」


 一挙一動を見逃すまいと一葉の目は井上を追う。


「やだなぁ。だって僕にもカノジョはいるよ? 同性愛者ではないって」


 全くそこには焦りはない。ごく当たり前のこととして井上は語る。


 一葉は、しかしそれで納得できるような少女ではないらしい。熱のこもった視線をじっと井上に注ぐ。


「レオは特別なんでしょ? だから彼が付き合う女の子に怪我をさせた」


 その思考にはきっと根拠はないのだろう。断言しかねるような声で意見を述べる。


「言いがかりだって。どんな証拠があってそんなことを言うのさ?」


 一葉の迷うような言い方に、井上はきっぱりと言い切る。


 口ごもってしまうかに思えた一葉であったが、彼女は不安げな目をして台詞を続けた。


「あたしがそうならないのは、ジュンがあたしのことを見逃してくれているからでしょ?」


 確信を持っているわけではないだろう口調。井上に対する信頼が期待に変わるに違いない。一葉と井上は幼馴染みなのだ。そう信じ込んでしまうのは自然な成り行きだ。


 一葉の台詞を聞いて、井上は口の端だけを持ち上げて笑みを作った。


「――まさか」


 それを見た一葉ははっと息を止める。


「それは思い込みに過ぎないね。だって君は、いじめにあっているじゃないか。それでイーブンだと思ったんだ」


「やっぱりあなた――」


「――でもね、カズハ。死にたいなら死んでいいよ。僕の気持ちをこれ以上騒がすことのないように、彼をとことん悲しませるといい」


 井上の周囲が変質した。空間の歪みが最大限になり、光が飲み込まれて闇が広がっていく。


(な!)


 その様子は今まであやめが見たことのないものだった。


(この出力量はまさに桁違いです!)


 その力に押されて全身が総毛立つ。過去の記録でしかないものにこれほどまで反応するとは信じがたい。


 歪められた運命の糸が一葉を飲み込むのが見えた。


「一葉さま!」


 その様子にあやめは彼女の名を叫ぶが、その声が届くはずもない。目の前で展開されているのは過去の一幕。変えることのできない真実。手が届きそうな距離で感じ取れても、それは良くできた映像でしかない。


「望みどおりの結末を、僕が書いてあげるよ」


 響くエンジン音。


 ふらふらと通りへと向かう一葉の足。


 急ブレーキを踏む音はなく、ものすごい勢いで近付いてくることがわかるタイヤの走行音。


「レオ……ジュン……」


 吐息のような、微かに声として聞き取れた一葉の声。


 衝突音が通りにこだまする。


「くくく・・・・・・」


 笑いをこらえるかのような井上の声。


 彼の前には一葉の変わり果てた姿。


 白かったはずのワンピースが原色を忘れさせるような真紅の色に染まっていく。


「――カズハ。言っておくけど、これは僕の願いじゃない。君の願いだったんだからね?」


 口元を笑みの形に歪めたまま井上は冷たい声で告げる。


「きっと、レオは悲しんでくれるよ。カズハのことが大好きなんだもの。これで彼は、永遠に君のものだ」


 つぶれてしまった一葉の顔にはどんな表情が刻まれていたのだろうか。井上は血だまりの中に沈んでいる一葉のそばまで来るとしゃがみこんで彼女を観察する。


「……僕はね、レオが幸せならそれでいいと思っていたんだよ。それはカズハに対しても同じだったんだ。二人が互いを愛し、互いを欲し、それで幸せを感じてくれているなら、本当にそれで良かったんだ。――だからとても残念だよ」


 井上の台詞に込められた感情に偽りはないようにあやめには思えた。井上は幼馴染みの二人のことをとても大切に思っていたのだ。あやめには納得のできない方法であるけれど、それでも彼はこの結論を正しいと信じている。


(彼の想いに間違いはありませぬ。しかしこんなのって……)


 切なすぎて苦しい。真っ直ぐな想いは時にして残酷で、そんな人間に多重世界シンドロームという力を与えた神様を憎く思う。


「君がいなくなってしまったからには、僕がレオを支えてあげなくちゃいけないね。彼の望みがすべて叶うように、僕が彼を護らなきゃ……」


 そこまで告げると、井上は自分の携帯電話を取り出して操作をする。掛けた電話の先は消防であるのだろう。冷静な応対で現在の状況と場所を伝えている。


(……酷いではありませぬか)


 最良の方法であったとは思いたくない。最善の方法であったとは誰にも言って欲しくはない。どれが望まれるべき結末であったのかなんて、きっと誰も指摘することはできないのだから。


「――終わったようだな」


「霧島さま……」


 そっと肩に置かれた手にあやめは振り向くと、いつの間に合流したのだろうか、悲しげな表情の縁が立っていた。


「井上には多重世界シンドロームの力が宿っている。そしてそれを自分の意志でコントロールし、使用している。それには間違いがなさそうだ」


「えぇ。ワタシも同意見です」


 二人は救急車が到着するのを待っている井上に目を向ける。


「井上の手で笹倉一葉は死に追いやられたのも間違いないようだな。貴家の知らないところで起きた不幸な事故だとも言えそうであるが」


「不幸な事故、ですか」


「不満そうだな」


 縁の台詞を繰り返すあやめに指摘をする。


「井上さまが故意に引き起こしたことですから」


 その返事に対し、縁は鼻を鳴らす。


「調査員であるくせに、自分の主観が入りすぎだ。笹倉一葉が貴家の元カノであるということに囚われすぎているんじゃないか?」


「そ、そんなことは……」


 主観が入りすぎていると言う指摘に対しては反論の余地があるとあやめは思うが、しかし後半の台詞は図星であった。委員会(モイライ)の調査員は主(あるじ)と認めた多重世界シンドローム発症者以外の特定の人物に心を寄せるべきではない。それをわかっていたはずなのにそう対処できていないのは縁が指摘している通りなのだ。


「――説教は後回しだ。ある程度の証拠を掴めたことだし、もうこんな場所には用はない。委員会(モイライ)に戻るぞ」


「はい」


 縁ははっきりと告げると、茜が待っている場所へと歩き出す。あやめは井上と一葉を交互に眺めるとすぐに彼女の後ろをついて行ったのだった。

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