第5話 調査対象として



 貴家礼於、十七歳。私立世継学園高等部二年生。家族構成は父、母、本人。しかし現在、彼の両親は海外にいる。よって事実上は独り暮らしだ。


 朝食はしっかりと摂る人間であり、きちんと自炊しているらしい。片付けまで終えると身支度を整え、余裕を持って出掛ける。それが貴家礼於の朝のパターンだ。


(――ですから、今日もここにいれば逢えますよね?)


 彼の住まいは駅からやや離れた高層マンションにある。二十四階建ての七階。オートロックで容易に中に入れないようになっているので、あやめは仕方なくエントランスに立っていた。委員会(モイライ)所属の人間は空間を自由に行き来できるのであったが、彼の部屋の前で待っていると不自然だと判断したのだった。


(それにしても――)


 あやめは下界に来る前のことを思い出す。


 ――多重世界シンドロームの存在を知らない人間が聞いたら、ただの自信過剰男だな。


 指示の伝達と見送りのために来た縁が言った台詞がよぎる。貴家に対する縁の印象を表したものが先の台詞であった。


(何もそんな言い方をしなくても良いでしょうに……)


 少し腹が立ったが、問題はそこではないと思考を切り替える。


(……願ってしまったことを詫び、叶ったことに関しては真摯に向き合う――その姿勢は数日の監視からもわかります)


 あの時あやめに告げた台詞の意味を確認すること――それが今回、彼女が直接貴家に会う理由だ。


 縁がその任務を命じたのは彼女なりに気になるところがあったからだろうとあやめは考える。何故なら縁が、貴家に会いたがっているあやめの気持ちを察して気を回すようなタイプではないと思っていたからだ。


(――そう、これは任務なんです。決して逢い引きなどではありませぬ。仕事なんです)


 そう心の中で繰り返し呟くが、浮かれた気分が鎮まる気配はない。任務中に、いや、自由時間であっても、あやめはこんな状態に陥ったことはなかった。まるで自分が自分でなくなってしまったかのようだ。そんな心境の変化にあやめは戸惑い、悩む。


(うぅん……。こんな落ち着かない気持ちのままでうまく聞き出せましょうか。やはり出直したほうが――)


 おろおろとしながらエントランス内をうろうろし始めたとき、ガラス扉の向こうに影が生まれた。背の高い、細身のシルエットだ。


 それに気付いたあやめはぴたりと立ち止まって、やってくるだろう人を待つ。その人影が貴家本人であるとは限らないが、エントランス内を行ったり来たりしていては不審がられてしまうだろう。そんな姿をさらしたくはなかった。


 建物の中から出るときには自動で開くようになっているらしい。すっと開いたガラス扉の向こうに見知った少年が立っていた。


「おはよう。あやめ」


 顔を合わせるなり名を呼ばれる。そんな自然な光景に、あやめの鼓動はびくんとはね上がった。


「お、おはようございますっ。貴家さまっ」


 緊張のあまり早口で告げると、あやめはペコリと頭を下げた。普段の丁寧さがなかったのは、すぐに視線をそらしたかったからだ。どういうわけか照れてしまって、直視できないのである。


 その仕草のせいか、貴家はクスッと小さく笑った。


「なんで『さま』付けかなぁ。オレ、呼び捨てで構わないけど? サスガとかレオとかさ。そんなに歳は変わらないだろ? 好きなほうで呼べよ」


 歳と言われて、あやめは困ってしまう。記憶がある時点からざっと見積もってみても明らかに貴家よりも長生きしている。外見はある程度なら自由に変えられるので、今は貴家と話しやすいような年齢設定をしているにすぎない。


 しかし、彼女が貴家を『さま』付けで呼ぶのは年齢には関係がなかった。誰に対しても『さま』を付けるのがあやめの習慣になっていた、ただそれだけである。


「ですが……」


 顔を上げたあともあやめは視線を別の場所に向けたまま喋る。


「呼ばれる側としては照れ臭いもんなんだが」


 その理屈はわからないこともないな、とはあやめも思った。しかし呼び捨てには抵抗があるし、だからといって『さん』付けではよそよそしく感じてならない。


「……そんなに悩むことか?」


 あやめが黙っていると、貴家が不思議そうに問う。


「い……今まで、誰かを『さま』付けなしでお呼びしたことがなかったものですから……」


 そう答えるのが精一杯だった。


「もしかして君、本物のメイドさん? あのとき着ていたのってメイド服だったよね?」


「いえ、あの格好は変装のつもりでして……」


 実際は好んで着ているのであるが、それを正直に話したら不自然だから言うなと縁から釘を刺されている。縁だっていつも和装を通しているというのに、何がおかしいのだろうかとあやめは疑問に感じていた。


「ふーん」


 言って、貴家はあやめの今の格好を頭のてっぺんから爪先まで見る。


「それにしてはやけに馴染んでいたけどな。今日の服装はそれはそれで似合っているけど」


「そ……そうでしょうか?」


 もじもじとしながらあやめは問う。じっと見ていられないのでちらちらと横目で貴家の動きを確認する。


 頭にはキャスケット、少々厚めの秋冬用のジャケットにチェックのキュロット、ショートブーツ。今日のあやめの服装は、前回の貴家の格好に倣っている。そのいずれもが貴家が愛用しているブランドであったりメーカーであったりした。着慣れたメイド服姿で下界に向かおうとしたあやめを縁が注意し、彼女の助言でこうなったのである。


(ああ、そうよ。いつもと着ているものが違うからなんですよ。ですから落ち着かないのです。きっときっとそうなんです)


 そう思い込むことで、あやめはやっと普段の調子を取り戻し始める。


「オレに合わせて揃えてくれたみたいなところも、悪くない」


 言って、貴家はあやめににっこりと笑んだ。


「さて、どこに行こうか?」


「どこへでもお供いたしますが?」


「行きたいところはないのか?」


「あなた様が行くところならどこでも構いませぬ」


 あまりにもきっぱりとあやめが言い切るからだろうか。貴家は自身の腕を組んで天井を見つめる。


「あの……普段はどちらに出掛けていらっしゃるのですか?」


 あやめはそんな貴家に不安になりながら問うた。


 休日の数日間を監視していたあやめであったが、貴家が目的を持って出歩いていたようには見えず、ずっと不思議に感じていたのだ。朝は必ず家を出て夕方に帰宅する。その間に行く場所には決まりがなく、特に誰かに会うというわけでもなく、ただふらふらと外を散策しているのだった。


「これといっては決まってないよ」


「家にいられない事情でもあるのですか?」


 あやめの問いに、貴家は怪訝そうな目を向ける。


「その質問をしてくるってことは、あの日以外のオレの行動を知っているってことか?」


 指摘されて、あやめははっと口元を押さえた。


(ワタシとしたことが……失言だなんて)


 気まずくなって、あやめは貴家に背を向ける。


(あの日以外にもワタシがつけていたなど、彼が知っているとは限りませぬ)


 自分の失敗を反省すると同時に、怖くなった。


(嫌われてしまったでしょうか……?)


 肝心の用件を片付ける前にそうなっては困る。嫌われてしまったら聞き出せなくなってしまう。


 しかし仕事の成功如何に関係ないところで揺れ動く別の感情があった。


(彼に嫌われたくはありませぬ……)


 どう対処すれば良いのかわからなくて、すっかりパニックに陥っていた。今すぐにでも彼の前から去ってしまいたい。なかったことにしてしまいたい。


 そんな泣き出してしまいそうな気持ちになっていたあやめの肩に温かいものが置かれた。


「野暮なことを訊いて悪かったよ。だから泣くな」


 優しい貴家の声。


「な……泣いてなどおりませぬ」


 肩に載っていたのは貴家の手だった。


 あやめは顔を上げる前にさりげなく目の端を拭う。念のためだったが、指先がわずかに濡れた。


「あと、はにかみ屋さんなんだろうとは思うが、もうちょっと顔を見て話してくれると嬉しい」


「えっと……それはその……」


「顔にコンプレックスでもあるのか? あのときだって日傘で顔を隠していたし」


 それは顔を覚えられないためだ、とは言えない。嘘をつくのが苦手なあやめにとって、正直に答えると警戒されてしまうというこの状況を回避するのはなかなかに難易度の高い仕事だった。


「劣等感などありませぬ――好きっていうわけでもありませぬが」


 視線を外し、あやめは自分の足下を見つめる。うまくごまかせたか心配しながら。


「なら良かった。だったら前を向いて歩け」


 貴家は言ってあやめの手を取る。そしてぐいっと引いた。


「ひゃあっ」


 突然のことで身体が反応しない。バランスを崩してつんのめったところを、素早く貴家が支えた。


「君って、案外とどんくさいほう?」


「い、いえ……すみませぬ」


 そそくさと体勢を整えて謝る。わずかに鼓動が高鳴っていた。


「オレ的にはどっちも好みだけどね」


「……?」


 貴家の言っている意味がわからない。あやめは小さく首をかしげる。


「んじゃ、行こうか」


 あやめの疑問に答えることなく、貴家は彼女の手を引いて外へと歩きだす。


「――行くってどちらへ?」


 やや早い貴家の歩調に合わせながら、あやめは問う。


「良いところ」


 貴家はそう短く答えたあと、何かに気付いたような顔をあやめに向けた。


「そういえば君、オレが行くなら何処へでもついてくるみたいなことを言っていたけど、ホテルに連れこもうとしたらどうした?」


 からかっているわけではないらしい。今日は良い天気ですね、というような世間話の口調で貴家は問う。


「……意地悪な質問ですね」


 だからあえて指摘する。自分のペースを保っていなくてはという使命感で、あやめは揺らぐ気持ちをやっとのことで押さえつけた。


「――ですが、この場で貴家さまがその選択をすることはないでしょう。部屋に連れ込むほうが手っ取り早いでしょうから」


「うん。それが的確な回答だろうな」


 あやめの返事に、満足げに貴家は頷く。


「やっと君は普段の調子を取り戻してきたみたいだね。さっきの恋する乙女モードも捨てがたいが」


「こ……恋する乙女など……。それに、あなた様はワタシのことを存知ぬはずですが?」


 貴家の言動には違和感がある。何故、彼はこうも断言できるのか。


「そりゃ出会ったばかりだからね。君だってオレのことを表面くらいしか知らないだろ? ストーキングしてみたところでもさ」


「ですが――」


 反論しようとするあやめを貴家は片手で制する。


「君を知るにはこの数分だけで充分だった。その理由を説明するから、今日一日は付き合ってくれ」


 そんな台詞を告げる貴家の声はとても真面目で、冗談でもないように聞こえた。


(一体何をしようとしていらっしゃるのでしょうか)


 一日と言わず、ずっとそばにいられないものかなどと思ってしまったことは、心の奥にしまっておくことにする。


「は……はい」


 あやめは貴家の横顔を見ながら頷くと、手をひかれるままに連行されたのだった。



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