落ちぶれ遊女の身請け話 〜カラダを求めてこない大将軍様が求婚してくる理由〜

柴野

本文



「某の妻になってはくれぬだろうか」


 甘い香りの漂う、仄暗い一室でのこと。

 頭を畳に擦り付ける勢いで、一人の男があちきに懇願しておりんした。


 あちきは別に貴人でも何でもありんせんから、頭を下げられる必要なんてござりんせんのに。


 これでもう七日目になりんす。

 まったく、飽きねえ塩次郎だことで、呆れてしまいんす。


「好かねえことをおっせえすなぁ。主さんとはまだ肌を重ね合ったことすらありんせんでしょう? あちきを娶るのは諦めておくんなんし」


 ただの遊女が、お客様に偉そうな口を利くなど、許されることではござりんせん。

 しかしあちきは斬られても構いんせんした。


 このお方はこのところ毎夜のようにあちきの元に通っては、「一目惚れしてしまった」とおっせえす。

 嘘か誠かはわかりんせんが安銭ばかり払ってあちきのカラダを求めないのを見るに、揶揄われているようにしか思えねえのでありんす。

 遊郭の女でも知っているほど名の通ったお方、このあたりの大名となられたほどの大将軍様なら、楼主と話をつけてあちきを買い取るくらい、できんしょうに。


 とはいえその場合、あちきは命を断つつもりでありんす。

 かつて己を捨てた男のものになるくらいなら、死んだ方が幸せというものでありんしょう?


 あちきがまだ『あちき』と自称するようになる前、齢が九つか十の頃のこと。

 しがない武家の娘であったあちきは、父が戦で負けたことで落ちぶれ、家を乗っ取られたということがありんした。


 母は殺され、あちきの尊厳は奪われた。なのにあちきの許嫁であった男とその家は、何もしてくれんした。

 あちきは捨てられた、ということでござりんす。


 遊郭に身を落とすことで生き延びたのは、穢されてしまったカラダをさらに使うことで、捨てた男のことを忘れようと考えたからでありんしょうか。あちき自身、よくわかっておりんせん。

 ともあれ、数年がかりで成り上がったあちきは、この遊郭の片隅で悠々と生きておりんした。


 それを、このお方――あちきを捨てたことを覚えていもしないであろう大将軍様は当たり前のような顔をしてあちきの住処に足を踏み入れ、図々しくも求婚しているのでありんす。


 あちきの許嫁だった方は、ずいぶんとご立派になりんした。

 あちきを捨てて、身軽になったおかげだとすれば、吐き気がいたしんすが。


 一目惚れ? 冗談じゃござりんせん。

 遊女のあちきは扱いやすいから、妻に据えたいと考えただけのこと。育ちは悪くとも生まれは良かったあちきにはわかってしまいんす。


「はっきり申しんすと、主さんは野暮でござりんす。あちきの前から立ち去っておくんなんし」


「……お前さんは、某を嫌っているのか?」


「好いておりんした。見捨てられた、あの日までは」


 あちきが呟くと、大将軍様の目がカッと見開かれんした。

 意外も意外、どうやらあちきの正体に気づいていたようでありんすね?


「どうして、某のことを」


「見た目は変われど、主さんほど有名な大将軍様でありんしたら、すぐ気づくというものでござりんす。あちきは、主さんの噂が風に乗って届く度、懐かしく……そして呪わしく思っておりんした」


 恋しかったからこそ、許婚として、結ばれると信じて疑っていなかったからこそ。


「違う。違うのだ。某は非力で、どうしようもなく非力で、お前さんを救ってやれなかったことをずっと悔いていた」


「それがどうしたとおっせえす?」


「今からでも遅くない。お前さんを救わせてくれ。某はもう二度と、お前さんにつらい思いをさせぬと、武士の誓いを立ててもいい!」


「ほんだんすかえ。最初から誠心誠意向き合われるならまだ考えんしたが、あちきが気づいていなければ、そのまま娶るつもりだったのでありんしょう? それは罪滅ぼしではなく、ただの言い訳でござりんすなぁ」


 何も言えず、固まる大将軍様に、あちきは笑みを向けて。

 隠し持っていた短剣を静かに己の首元に突きつけんした。


 それだけで、この地で誰よりもお強い大将軍様を怯ませるには充分でありんしょうから。


「……お前さんの覚悟は、承知した。しかしっ」


「おさればえ」


 大将軍様はしばらく押し黙ったのち、背を向け、立ち去っていきんす。

 初めてあちきのカラダではなく、あちきを求めた唯一のお方に告げる別れの言葉は、自分でも驚くくらいそっけないものでありんした。


 なぜか胸に湧き上がる切なさは、昔を思い出したからでござりんす。

 あちきの頬を、つぅっとあたたかな滴が滑り落ちていきんした。

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