咲いて欲しい花

白山無寐

 

ㅤ日差しに負けそうになりながらバスを待っていた。少しずつ増える人たちもみんな、暑さに負けそうだった。

そよ風が気を利かせて吹いてくれたが、体を冷やすには温度が高すぎる。

ㅤバスが来た。

ㅤ降りる人を待って、降りる人の暑さに触れる顔をじっと見て、私もバスに乗った。

異空間のような涼しさにホッとする。太陽の位置とは反対の椅子に座り、冷房の風を存分に浴びる。

ㅤ髪が冷えてきて、徐々に首も冷え始める。夏のバスは少しだけワクワクする。

ㅤ歩き疲れて涼しさを求め、まだ歩く。そんな時に出会う静かなトンネルのような、そんなような落ち着きがある。

ㅤ影がチラチラと迫ってくる度にまぶたが反応する。暑いところからいきなり涼しい場に来たら眠たくなる。皆そうなのか、車内はやけに落ち着いている。

ㅤ雨が降り出しそうなほど、静かだった。

 不意に思い出す、どうだっていい人と話したどうだっていい話。

ㅤ例えば、たんぽぽの花弁に混ざってる髭のようなものは一体なんなんだろうかという話。一晩中話した。

ㅤ調べてしまえば答えの出る簡単なことを、私たちは携帯など触らずにとにかく話した。そんな話題を飽きずに話せたのはきっとお酒が入っていたからだろうけれど、楽しかった。

ㅤあれは私たちにも生えてる毛と一緒。花弁を守るためにあるんだよ、絶対。と真顔で言う女の顔は確か、可愛かった。

ㅤ結局その女とはそれ以降、連絡を取ることも、飲みに行くことも、偶然どこかで鉢合わせることもなく縁が切れた。大学を辞めたと知ったのは次の夏を迎えた時だった。

ㅤ知った瞬間、図書館へ走った。急いで植物の図鑑や本を探して調べた。もう、あの髭のようなものがなんだったのかは忘れてしまった。

ㅤ少し気になって調べようとカバンの中に手を入れた瞬間、停車駅をアナウンスする声が聞こえた。

ㅤ携帯を取り出すことなく、財布に手を伸ばして小銭を出した。

ㅤ慎重に止まるバスを確認し、席を立つ。何人か並ぶ列の一番後ろに並び、確認したはずの小銭をもう一度確認して些細な時間を潰した。

ㅤ徐々に熱風が近づいてくる。日差しが鮮明になっていく。外に出ることが億劫になりかけた時、私は小銭を入れて運転手に会釈をしてバスを出た。

ㅤ覚悟を決める時間の余裕などなかったため、やはり熱風が体に当たった瞬間砕けそうになった。

 人が駅に向かう方向とは反対の方向へ歩き出した。簡単に体が湿っていく。涼しくなれとは言わないが、暑さを感じない体にはなれないものかと真剣に考えてみるが、それはそれで何かきっと困ることがあるのかもしれない。

ㅤ冬になると暖房の効きすぎた部屋で思いっきり体を温めようとすると、一定の温度になった瞬間無になったりしたら怖い。

ㅤあと二ヶ月ほどは暑さに耐えるしかないかと諦めて、なるべく日陰を選んで歩いた。

ㅤ目的地が陽炎のせいで幻のように見えた。少し足を早めて歩いた。

「いらっしゃい」

ㅤずっと聞きたかったような、聞きたくなかったような声が聞こえる。どこか聞きたくないはずなのに、私はこの声を聞いただけで胸が弾んでしまった。

「こんにちは」

「こんにちは。今日も暑いね」

ㅤそう言って彼は前髪をかき分けて、立ち上がる。

ㅤしっかり全身を店の中に入れると、花の混ざった香り達が私を歓迎してくれる。店内は儚い眩しさで埋め尽くされている。まるで思わず絵本の見開きのページで描きたくなってしまう、素敵な空間だった。

「今日も白いお花が欲しくて」

ㅤ手前に置いてある花を見ながら呟く。足音は私のそばで止まった。

「夏の白い花だったら僕は岩鬚が好きだけど、残念ながらここにはないんだよね」

「ジャスミンはありますか」

「あるよ。こっち」

ㅤ丸い植木鉢に入っている白い小さな花達。葉の緑が鮮やかで、涼しいこの場にいても夏を感じる。鬱陶しかった。

「これにします。鉢は変えた方がいいですか?」

「そのままで大丈夫だよ。ビニールに入れる?ㅤそのまま持って帰る?」

「ビニールください」

ㅤ鉢のまま持って帰ったら、帰りに私の跡が残るのではないかと少し心配になる。この土の小さな道はどこにつながっているんだろうと誰かが後ろを着いてきたら困る。

ㅤ丁寧にビニールにしまう彼の姿を眺め、帰りのバスの時間を気にした。

ㅤどこかカフェに寄ってもいいかなと思ったが、大きな荷物を持ってカフェに寄る元気は無かった。



ㅤ家に着くと空はもうオレンジ色だった。静かに蝉が鳴く。汗でベタつく体をどうにか動かして窓を開けた。

ㅤ今日から君の家だよとジャスミンをビニールから取りだした。

「毎日元気に咲いてくれてたら嬉しいよ。それだけで、私は死なないよ」

ㅤ願いを込めるようにやっとお水をあげた。

ㅤそんなことの積み重ねが、人生を狂わせるし癒す。私を傷つけるし、人を傷つける。そんなことばかりを積み重ねることが、少し重たく感じる。

「そんなことばっか繰り返して何になるの?」

ㅤ当時ミサンガを編むことが流行った。私もお小遣いでミサンガの糸を買って、友達と交換したりした。

ㅤ四本の糸を固く結んで、セロハンテープで机に貼り付ける。先生に教えてもらった教え方でとにかくミサンガを編む時間が楽しかったわけではなかったが、なんか良かった。

ㅤ反抗期真っ只中の姉にその姿を見られ、そんな言葉をぶつけられた。

ㅤ何も言えなかった。

ㅤ確かに、今の私が当時ミサンガを編む私を見たらそう言ってしまうかもしれない。

ㅤ花に水をあげる。買い物に行って一つだけ好きなものを買っていい。休みの日は食べたいものを必ず一つでも食べる。読みたい本を積み重ねる。友人といつかやろうと小さな約束をする。恋人に対してこの言葉は絶対に使わないと決める。

ㅤそんなこと、そんなこと、そんなことをそうやって私は積み重ねる。

ㅤたかがそんなことでいいのだ。どうせ忘れるし、忘れてもそんなことなのだから、特にダメージもない。

ㅤある時、人に誕生日プレゼント何が欲しい? と聞かれた。

「当日一緒にいて欲しい」

「そんなことでいいの? なんか他に欲しいものとかないの?」

ㅤそう言われて私はやっと、大きくなってやっとそんなことの価値を知った。

ㅤそんなことでいいの?ㅤと言われた悲しみをきっとあの時も感じていた。ミサンガを編んでいた私も、きっと悲しかったんだろうなと思う。

ㅤ自身で言ってしまうそんなことは人から見たそんなことなんだと知ってから、あまり自分を信じられなくなった。

ㅤ自分で自分の価値を下げ、第三者にそんなことと言われた時に傷つかない保険だったんだなと自覚してからまともに歩けた記憶が無い。

ㅤそんなことを繰り返しすぎてしまった。人に怯え、自分を信じず、意思のない何かに意味や理由を押し付けて何とか生き延びる。

ㅤ何となく決めた自分のルールですら苦痛になってくる。

ㅤ頑張ってなんとなくをやろうとしてしまう、頑張ってそんなことを沢山重ねようとする、頑張って頑張らないをやる。

ㅤやっと習慣になってきた花に水をあげるという行為だって、明日目を覚ます理由になってしまった。

ㅤ誰かに笑われたそんなことを思い出しては涙を流す。

ㅤ私はきっと毎日出てこない涙を流しながら君たちに水をあげている。

ㅤ並ぶ数々の白い花が嬉しそうに咲いてくれることをずっと祈っている。私の代わりに、どうかたくさん日光を浴びて、生きる喜びを感じて欲しいと余計なことを願って、毎日目を覚ましている。

夕日を浴びて、心臓を鷲の手で掴まれるような痛みを感じる。

ㅤ強く、生きていたくないと思う。そしてまた強く、自身を愛せるようになりたいと思う。

ㅤもう、生きていたくないことも、愛したいと思うことも、そんなことになっていくのだ。私のこの感情も、そんなことになりつつあるのだ。

ㅤ勇気を出して乗ったバスも、勇気を出して少し人の多い商店街を歩いたことも、勇気を出して人と会話をしたことも、家に帰ると全て苦しさになってしまう。

ㅤせっかく私は勇気を出して頑張ったのに、苦しいという黒い海にそれらが流されていってしまう。

ㅤ冷たい孤独の溢れた水中に誰かがいて欲しいとも思うが、私一人で存分に苦しみたいとも思う。存分に苦しんだ後、こんなことがあってね。と話せる誰かはいて欲しいなと思う。私は誰かのその誰かになれるだろうかと空を見上げる。

ㅤきっとなれない。今日、流れるようにバスに乗った人や降りた人。すれ違った汗をかいた人や頬を赤らめた人。私も、他の人も自分の歩く景色に馴染む人にしかなれないのだろう。いつかそれを受け入れられるようになれたらいいなと思う。

ㅤ私たちには必要なのだ。景色に馴染む人達が。通勤ラッシュで溢れる人たち。小さいライブハウスで思い切り楽しむ人たち。カフェでのんびり読書をする人や携帯をいじる人。私たちにはきっと、意味もなく必須なのだ。

ㅤ何も無いと寂しい。誰もいないと寂しい。何かあるから苦しいのだ。誰かいるから、誰かの言葉があるから傷つくのだ。

ㅤジャスミンの花や葉に触れてみる。植物は大体、儚い。優しさしかないこの柔らかさが大好きだ。

ㅤ触れた指先から感情が崩れ始める。まるで自分の体がボロボロと崩れ落ちていくような、心地の悪い感覚が全身を包み込んだ。

ㅤ募る苦しさを自分のものにしてしまう優しさや弱さ。誰かのせいなはずなのに、誰かのせいにしようとすると途端に絞まる喉。

ㅤほんの少し勇気を出して泣いて、怒りをぶつけてみても忘れ切ることの出来ない傷。夜、やり場のない感情達で編み物をする。編んで、編んで、絡まって、悔しくなって涙を流す。小さく、主張の大きな叫び声を出す。

ㅤ蝉の声が、人々の吐くほどでも無い弱音のように聞こえる。聞いてほしいというわけでもないが、誰か聞いてくれたらいいなと呟く独り言のよう。

「また明日ね」

ㅤそう言って私は部屋の中に入る。

ㅤ誤魔化すように置かれたカラフルな家具は寂しそうだ。

ㅤ赤いソファーに体を預ける。ソファーが吸収しきれない疲れは私自身にはね返ってくる。

ㅤ天井に映る偽物の夕日はどうしようもなく、綺麗だった。思わず腕を伸ばしてしまった。

ㅤ明日は休みだ。気が向いたら図書館に行ってたんぽぽをもう一度調べよう。そしたら彼女との思い出がもう少し膨らむかもしれない。

ㅤ本当は受け止められなかった唐突な別れをもう一度悲しみ、悔やみ、整理がつくかもしれない。

ㅤまた明日、目を覚ましてそんなことを一つずつ消費していこう。死にたいという言葉を少し呟いてみて、本当はと吐き出したかった感情を少しずつ片付けていこう。そうしたら、少しだけ生きていたいことを自覚できる。怯えている、生きるということを少しでも受け止めてあげることが出来る。

ㅤ花に水をあげ、私ももう少し上を向いて生きていけるようになりたいと人からしてみたらそんなことを強く願って、一日だけでもそれをやってみよう。

ㅤ日々、そんなことを繰り返す。

ㅤ私は日々、そんなことと戦っている。

ㅤ誰かが忘れてしまった、誰かに笑われたそんなことを、自分が大事にしきれなかった誰かのそんなことを、少しずつ愛して無くして。

ㅤ誰かを悲しませ、誰かを苦しめ、私が泣き、私も苦しみ、戸惑い叫ぶ。何も無かったかのように夜は眠り、母に甘えていた五歳になった気分で夢を見る。

ㅤ私の人生が、毎朝見る美しく咲き誇る白い花のように素敵なものになるようにと。

ㅤきっと、そんな日々を本当は愛しているんだろうなと思い、少し、ほんの少しだけ、涙を流した。

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