掴んだ光に私はいない

白山無寐

 

 桜の花びらに透けた陽の光は、今までにないくらい優しかった。

 思わず俯いて、露出している手の甲にめいいっぱいそれを浴びせてしまった。

 薄い光が春を合図する。

 たったそれだけが私をこの世からいなかったことにしてくれる。まるで夢心地のような春風に当たりながら、ふんわりと香る桜。その桜で濾した光を満遍なく浴びる。

 夢のようだ。舞っている桜の花びらを眺める。私のシャンプーの香りと混ざった春の匂いがずっと、そばにいる。

 日が落ちないでと願うばかりだった。まだ今日が終わらないで欲しかった。

 ここから一歩も動くことが出来ない。

 足を動かしてしまえば、もう一度止まるには時間がかかるのではないかと怖くなる。

 人のはしゃぐ声。カメラのシャッター音。鳥の鳴き声。誰かの足音。全てにモヤがかかる。

 私の体は浮いたままだった。だけど、重たかった。



 目が覚めると昼過ぎだった。遅刻だ。九時に出勤しなければいけないのに、今は十三時。

もしかしたら半休をもらっていたかもしれない……。と期待してみたが、そんなわけなかった。

 カーテンを開けることなく、携帯にも触らず、天井を見つめた。

「今日はもう行くのやめようかな」

 口に出すと体が軽くなる。心は重たくなった。

「あ、もしもし。はい。はい。すみません。はい」

 私の小さな声が部屋をぐちゃぐちゃにする。怒鳴る上司の声を必死になって耳に押し付ける。聞いているふりをする。

 耳にはちゃんと入ってきているのだが、正直何を言っているのかは分からない。

 社会人としてどうなんだ。お前はいつもいつもそうやって。みたいな事を永遠に怒鳴っている。

「はい。はい」

 相槌を打ちながらカーテンを開けると、すごくいい天気だった。すごく、すごくいい天気だ。窓に手を当ててみると、暖かくなったガラスに感動した。

「今後、こういったことは無いようにします。大変申し訳ございません。はい。気をつけます。ありがとうございます。はい。すみません。失礼します」

 暖かい。頭。肩。背中。腰。すごく暖かかった。春を全身に流し込んでいる。

 膝を抱え、もう一眠りしようかどうか悩んだが、立ち上がった。

 レースカーテンを閉めて、軽く体を伸ばしてみる。すると、思ったよりも上がらない腕。肩甲骨が何かに引っかかったかのように動く。

 体のコリなど、氷のように溶けてしまえばいいのに。といつもいつも思うが、日々固まるだけのコリが溶ける気配は感じられない。

 部屋を歩いているだけなのになぜか命を感じる。自分の命を強く感じる。学生の頃、本で読んだ魂の重さを鮮明に感じられた。

 いつ買ったか忘れたインスタントコーヒーが飲みたくなった。味が薄くても、酸っぱくても、なんでもよかった。なぜか理想としていた、朝起きて優雅にコーヒーを飲むということがしたかった。

 もう昼過ぎだけど、今その理想を叶えたらまた別の何かを叶えようとするのではないかと自分に期待してしまう。

 本当は夢を見ているのではないかと思う。夢であってくれと少し思う。

 買ったはいいものの、使う機会をなかなか作れずにいた電気ケトルに水を入れた。

 スイッチがカチッと軽やかな音を立てて、胸が騒ぐ。

 その間にマグカップを用意して、棚の奥にいたインスタントコーヒーをカップの隣に置いた。

 歯を磨いて、顔を洗う。酷くやつれた自分の顔を殴りたくなった。

 髪を結って、ベタつく顔を触りながら台所に戻った。ケトルがポコポコと鳴いている。この音が好きだ。お湯の沸騰している時の音が好き。久しぶりに聞いた。

 インスタントコーヒーをカップの中に入れて、もう一度ケトルが軽やかな音を鳴らすのを待った。

 コーヒーは捨てた。二年前のやつだった。

 台所に立っていたのも二年前だ。自炊もしていたが、仕事が忙しくなってからはほとんどしていない。

 シンクによりかかって見渡す部屋が明るかった。自然光だとここまで温かみのある部屋になるのかと感動した。

 いつも玄関の灯りだけ付けて、薄暗い部屋でご飯を食べている。風呂に入るついでに灯りを消して、風呂から出たらそのまま眠る。

 見えていたらいい。家に帰ったってご飯を食べて、風呂に入って眠るだけなのだから、いちいち部屋に電気などつけない。

 何も無い部屋は酷く寂しそうだった。

 なにかに期待しかけた時、カチッと聞こえた。お湯をカップに入れる。ドロっとした音が心地いい。

 浅いコーヒーの香りが鼻に届いた。味は微妙だった。美味しくはない。それに安心する。

 せっかく寝坊して当日欠勤をしたんだから、なにか特別なことをしたかった。

 新しいコーヒーを買いに行ってもいいし、マグカップも新しくしていい。なにか小さなインテリアを買いに行きたい。

 誰かと遊びに行きたいなと思うが、平日の真昼間に暇している友人は恐らくいない。

 とりあえず着替えることにした。楽なワンピースを着て、カーディガンを羽織る。

 日傘など使わないのに、買って放置していたことを思い出した。

 靴下を履いて、もう一息ついた。

 コーヒーがなくなり、すぐにマグカップを洗って外に出た。

 何も変わらない。毎朝見る景色に少し強い陽の光が追加されただけ。それだけでこんなにも目が開いてしまう。

 昼休憩の時、屋上にある喫煙所に連れていかれる後輩が私だ。他部署との交流だなんだと言われるが、そこに私は関係ない。上司が自分を強く見せたいなら、私じゃ力不足だといつも思う。

 昼は明るいものだ。もうすぐ暑くなる。暑い季節が長く続き、次は寒くなる。それだけだった。私にとっての外は、それだけだった。

 五回目の春がこんなにも眩しかったら、吸い込まれてしまう。私も、光になりたいと思ってしまう。

 集まる光のせいで、傘の中は少し暑かった。

 駅前にあるコーヒーショップに向かう。コーヒー豆の種類を調べながら行こうとしたが、こんな時間に自由になった私が嬉しくて、いつもは視界にすら入らない雑草や家などを目に焼き付けて歩いた。

 いざコーヒーショップに着くと、並んだコーヒーに圧倒されて二分ほどで外に出てしまった。

 コーヒーが好きなわけでもないし、コーヒーに合うようなマグカップを持っているわけでもない。

 特別欲しかったわけでも無い。

 だけど、欲しかった。日常に少し変化をと思って店に入ったはいいものの、どうせ三日でやめてしまう。今日捨てた安いインスタントコーヒーと同じ未来になってしまうかもしれない。

 何をしているんだと思いながらも、川沿いに向かう。確かこの辺は桜が綺麗だとテレビで毎年話題になっている。

 話題になって三週間近く経っていた。もう散ってしまったかもしれないが、残骸だけでも見に行こうと思う。

 いつだったか、祖母が花筏のことを教えてくれた。祖母の家も私の実家も大きな川があるわけでは無かったから、花筏は未だに見た事がない。

 水溜まりに浮く桜の花弁を見かける度、思い出す。小さな花筏は結構好きだった。

 春風が心地いい。大きな犬の背中のようにふわふわしている。

 もうすぐだ。もうすぐ、桜が見える。人の数が多くなってきた。なんとなく下を向いた。桜の花びらに足先が触れたら顔をあげようと、ゆっくり歩いた。

 久しく触れていなかった自身の感情に戸惑う朝だった。寝坊したことに罪悪感を感じなかった。誰かが私の代わりに仕事をしている。私も何度か人の代わりに仕事をした。

 自分がこの会社の歯車になっている自覚もなければ、自分がいてもいなくても変わらず回り続けるとりあえずで置かれた歯車だということも、分かってはいない。

 自分の人生の歯車を回すことで精一杯だ。精一杯歯車を回していたが、回らずとも人生は動くということを本当は知っていた。

 生活のために金を稼ぐ。死なないように金を稼ぐ。遠いようで近い将来のために正社員になる。毎日スーツを着る。電車に乗る。夜に帰る。また朝起きる。

 花弁が私のつま先に触れた。その瞬間顔を上げる。

 、思わず大きく息を吸ってしまった景色。少し赤みの増した桜がまだ綺麗に咲き誇っていた。

 木の色が強い。強く、ここに生きている。

 桜の木の下に行き、上を見上げて何度も何度も体を回す。何度も何度も桜が私の上で踊っている。

 適した時期に見る花達はこんなにも綺麗なのだ。花弁一枚一枚が潤って見える。

 眉間に力が入った。

 気づかなくてもいいことに気づいた。ただ、疲れていた。何が辛いか、苦しいかなど分からない。今更それを整理する必要はないと思った。

 木に触れる。桜の木は強いのだ。痛くて、強くて、綺麗な桜色を引き出してくれている。

 青空が私を見下ろしている。

 夕焼けに体を焼いてもらいたい。小さく見える少ない星に手を伸ばしたい。

 コーヒーが飲みたくなった。

 明日が来る。今を生きているから、明日が来る。春風はどこか遠くへ行ってしまう。

 私も連れて行ってと手を伸ばしそうになる。私も、飛んでしまおうと足が走り出しそうだ。

 それでも、私は春に包まれていた。ふと見えた手の甲には桜の花びらで濾された光がいる。

 それがなぜか愛おしくて、無意味で、無価値だったことが酷く辛かった。

 大丈夫だよと声をかけられた気分でいた。春に優しくしてもらえたと思っていた。何も変わらないのだ。

 目を開けて、顔を上げて、息を吸えば何も変わっていない。

 それがいつか私の幸せになればいいと思った。

 落ちてきた花弁を拾って、手帳に挟んだ。

 やっぱりコーヒーを買おうと来た道を戻ることにした。

 振り返ってみた桜は、やっぱり輝いていた。輝いているだけだった。

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