第一章 転生者としての私
第1話 魔獣狩りの黒髪のグロンダイル
夕暮れの空は薄紅色に染まり、はるか先には霞むエレダンの町並みが光と影を織りなし、宝石箱のように浮かんでいた。カイルたちは疲労を抱えながらも歩を進め、穏やかな風が疲れた体を包むのを感じていた。
先頭を行くカイルは、大柄な体躯をフルプレートで硬める。無骨な大剣を背負った若き剣士だ。燃えるような夕日に照らされた横顔には、静かな達成感がうかがえ、その瞳には今日の長く苦しい戦いを生き延びた仲間たちへの深い信頼が揺れていた。彼はわずかに首をひねり、後ろを歩く面々を順々に見遣る。その歩幅や呼吸の乱れから、それぞれの疲労具合を察しようとするように。
「みんな、今日はよく踏ん張ったな。街に戻ったら、俺が一杯おごるとしよう。うまい飯と酒で、疲れを吹き飛ばそうじゃないか」
カイルはどこか飾らない、伸びやかな笑顔を見せる。その笑みには、仲間を大切に思う素朴な温もりがにじんでいた。彼の背後の大剣にはいくつもの傷が新しく刻まれ、今日の戦いの激しさを雄弁に物語っている。
そのすぐ後ろ、弓兵のエリスは少し眉間に皺を寄せ、細身の弓を背負い、背から覗く矢筒の中身を気にするように指でつまむ。彼女の豊かな金髪は、風に揺れて微かに砂ぼこりを散らす。そして、唇の端をわずかに曲げて不服そうに言う。
「何を言ってるんだか。こんな辺境にうまい飯なんてあるのかしら? 期待するだけ無駄よ。せめて湯浴みでもできれば、多少味気ない食事も我慢できるんだけど。はぁ……早く砂埃を流して、身体を清めてさっぱりしたいわ」
エリスは、その台詞の合間に、一度視線を遠くへ送り、微かな期待を胸に抱いているようだった。
その隣では、少年といってもよい風貌の若き魔術師のフィルが、上機嫌で手に入れた魔石を光に透かしている。青い瞳を細め、彼は夕陽の中で魔石をゆっくりと傾け、その内部で揺れる虹色の輝きを確かめていた。
「今回の収穫は、思ったよりも上質だよ。これだけあれば、当面の資金には困らないと思うよ」
彼の頬には微かな笑みが浮かび、うまく交渉して良い値段を引き出そうと今から策を練る、そんな明晰さがうかがえる。手の中に輝く魔石は、彼らが命を懸けて得た戦利品であり、また、この先の旅路を支える糧でもある。
最後尾を歩くのは初老の回復術師、レルゲンだ。銀白の髭を揺らし、頼りなげな足取りではあるが、彼は誰も後ろに残さぬよう、必死にしんがりを務めている。その額にはうっすらと汗がにじみ、肩で息をしながら、乾いた喉を鳴らすように言った。
「はぁ……儂はもうくたびれたぞ。早いとこ宿で横になりたい。ふかふかの寝台でゆっくり休む……それから、酒も一杯いただきたいものだな。はぁ、身体が軋んでたまらんよ」
彼の声には、苦労と年輪が刻まれた深みがある。その疲れ切った表情を見れば、仲間たちへの癒やしや支えが、どれほど彼自身を消耗させていたかがわかる。けれど、彼は不満を口にしながらも決して歩みを止めない。その背中はほのかに丸まっているが、仲間への思いは確かにそこにある。
四人は皆、それぞれが異なる表情を浮かべながらも、夕陽に染まる道を黙々と進む。足元の小石が音を立てるたびに、カイルの胸にわずかな安堵が広がる。遠く聞こえる鳥の囀りと風のそよぎが、今日を生き延びた実感をゆっくりと彼らに与えていた。
岩礫の道を踏みしめる靴裏が、かすかな音を夜気に溶かす。彼らの吐息は白い靄となって揺れ、全員の耳に風の遠吠えが響く。この世に温もりをもたらすべき太陽が、雲の向こうで儚く溶けていくその刹那、彼らは繰り返し呟く―「生きて帰れることが、こんなにも尊いなんて」。そして、一攫千金の夢と、震える身体を癒やす温かな食事と酒、柔らかな寝台に身を沈める歓びを思い描く。
◇◇
中央大陸北方に位置する辺境都市【エレダン】は、その名を聞くだけで人々の表情がわずかに陰るほど、過酷な環境と恐怖の象徴であった。
常に吹きすさぶ冷たい風と重く垂れ込める鉛色の雲に包まれ、日差しがこの土地を温めることは滅多になく、薄暗い半光の中で街はいつも湿った生気のない息を潜めていた。
周囲に広がるのは、荒涼とした岩地に、かろうじて風に揺れる枯れ木が点在するばかり。その風景は、静かでありながら不穏な囁きを孕み、一歩踏み込めば、心許ない砂利道が軋むような音を立て、行く先を阻むかのように感じられる。
だが、この地に本当の闇をもたらす存在は、どうしようもない自然環境ではなく、【魔獣】と呼ばれる正体不明の化け物たちだった。
彼らは一体どこから現れるのか、何故この地を徘徊するのか、その理さえ未解明のまま。黒紫色の体毛や鱗、牙や羽根など、各地の生物を模倣したかのような異形の姿で、得体の知れぬ生々しさを放つ。
その凶暴さは容赦なく、獲物として見做したもの—人間であろうが獣であろうが—執拗に襲い、その惨劇は跡形もなく血と残骸を残していく。魔獣の冷えた瞳に映るものは、弱者を餌食とする残酷な食欲と、底知れぬ飢えでしかなかった。
それほどの恐怖が根を張る土地であるにもかかわらず、エレダンには絶えることなく人の流れがあった。
その理由は、魔獣の体内からしか得られないとされる、【魔石】と呼ばれる希少な宝石状の結晶にある。その魔石は、不気味な闇夜の中にあって、あたかも秘めやかな月光を凝縮したかのような柔らかな輝きを放つ。
その不思議な光は、魔術師たちが構築する術式の源泉、あるいは一般家庭にも普及している魔道具の中核を成し、世界の理を動かす力となる。魔石がもたらす恩恵は計り知れず、その光に魅了された冒険者やハンターが、血塗られた大地に足を踏み入れることをためらわない。
エレダンは、そうした魔石を巡る商いと、命を賭した狩りの拠点として名を知られ、危険を恐れぬ腕利きたちがあちこちの街から流れ込み、独特の熱気と緊張感を生み出していた。陰鬱な空気と、消えぬ魔獣の脅威に併走するように、人々の欲望と勇気、そしてわずかな希望が渦巻いている。
◇◇
大地が微かに揺れる、その不穏な気配を感じ取ったのは、カイルが足を止め、後ろを振り返った瞬間だった。
黄昏の空気は凍りついたように静まり、彼らの吐く息だけが、かすかな白い霞となって宙に漂う。誰もがその場で息を詰めて、荒野の向こうを見やった。
彼方の地平線は、灰色の雲を背にして暗い揺らめきを帯びている。一見すれば、黒くうねる大蛇のような、あるいは夜の闇が波打ちながらこちらに向かって溢れ出してくるかのようにも見えた。その黒紫色の影が大地を染め、不吉な振動が彼方から伝わる。影は次第に膨れ上がり、足元に震える地鳴りを伴って押し寄せてきた。
「ん、何だ……?」
カイルが低く呻くように言い放ち、唇を引き結ぶ。全身の筋肉が強張り、彼は瞬時に危険を悟る。あの黒い波は――風で乱舞する砂塵でもない、ただの影でもない。嗜虐的な欲望に飢えた、魔獣の群れだった。
「ま、魔獣だと? それも半端な数じゃない……」
見る間に黒い影は肥大し、地鳴りを伴って迫ってくる。はっきりと分かる。その中に混じる、猛り狂った魔獣たちの唸り声。低く、長く、周囲の空気を濁らせる濁音が、まるで怒号のように耳朶を打つ。
「どうしてこんなに? ちょっと待って、ギルドロビーのマップじゃ、ここらへんに“湧き場”なんてないなかったはずでしょ!?」
エリスの声は、恐怖で震えていた。彼女は矢筒を無意識に掴み、その指先が白くなるほど力を込めている。普段の強気な態度は影を潜め、ただ圧倒的な数で迫る魔獣の黒い波動に、ひれ伏すしかない弱々しい人間の姿がそこにあった。
カイルはそんなエリスに一瞬視線を送り、すぐさま残る仲間たちを見渡した。フィルは魔石を抱えたまま硬直し、レルゲンは疲弊した体を引きずるように振り返っている。誰もが口を閉ざし、恐怖に息を詰まらせていた。
「そんなこと知るか。考えている暇はない! とにかく逃げろ!」
カイルが絞り出した声は、手荒な現実へと彼らを叩き戻す合図だった。まるで水底に沈む意識に刺激を与えるように、その声は短く鋭く、耳へと突き刺さる。カイルが走り出すと、エリス、フィル、レルゲンも慌てて後に続く。
「くそっ、よりにもよって帰り道に……」
カイルが毒づくのも、至極当然だった。
各自の装備はすでにボロボロだった。継ぎ接ぎになった革鎧、刃こぼれの目立つ剣、尽きかけた矢、ひび割れた魔道オーブ、すり減った靴底――先ほどまでの戦いで消耗していた彼らの身なりは、これから襲いくる更なる惨劇にはあまりにも心許ない。だが、そんなことを考える猶予などない。後ろで地響きをあげる魔獣たちが、砂塵を巻き上げながら迫ってくる気配が、背中に生々しくのしかかる。
荒涼とした大地を駆ける彼らの足音は、重く、乱雑で、必死そのものだった。足元の岩くずが跳ね、喉は乾き、息は荒く、胸は早鐘のように鼓動する。背後から迫る魔獣の群れは、まるで地上に顕現した黒い洪水であり、その溢れ出す濁流はすべてを押し流し、飲み込もうとする勢いだった。
「ひっ……! 近い、もうすぐそこだわ……!」
エリスが半ば悲鳴に近い声を上げ、振り返りかけた刹那、カイルが必死で手を伸ばし、彼女の腕を掴む。
「見るな! 前だけ見て走れ! 考えるな、ただ走るんだ!」
カイルの声は、熱い呼気を帯びて、必死の励ましと命令を同時に伝える。彼らには逃げる以外の選択肢はなかった。荒れ狂う黒紫色の群れ――魔獣たちは、その冷たい瞳をぎらつかせ、獲物を追い立てる捕食者の本能を剥き出しにしている。
その時、フィルが苦渋に満ちた顔で叫ぶ。
「くそっ、何て数だ! カイル、一体どうすればいい――」
「今は考えるな! 足を止めたら終わりだ!」
切羽詰まったカイルの声が、吹き荒ぶ風にかき消されそうになりながらも、はっきりと仲間へ届く。レルゲンは老いた体を必死に奮い立たせ、喘ぎながらも前へ足を運び続ける。
「あっ!?」
突然、足元の岩が転がり、エリスはバランスを崩しかけた。カイルはそれに気づき、手を伸ばして彼女を支える。仲間を見捨てて走ることはできない。だが、そんな些細な遅れも、魔獣の群れに追いつかれる原因となり得る。
耳を裂く咆哮が一層激しさを増し、地鳴りと共に背後の影が伸びてくる。まるで彼らの命の灯火を舐める黒い舌のような、その瘴気を孕んだ影が、今にも足首を掴まんと伸びてきそうだ。
「走れ……走れ!」
カイルがうめくような声を上げ、必死に前へ進む。彼らは生き延びなければならない。たとえ今が極限の状況だとしても、重く鈍る脚に鞭打ち、荒涼の地をただ駆け抜けるしか道はない。
不吉な風が吹き、枯れ木が呻き、岩だらけの大地が旅人たちを嘲笑うように不規則な凸凹を晒している。魔獣たちの黒い波は、獰猛な
夕闇へと溶けてゆく陽光が、彼らの影を長く引き伸ばす。その先に待つは、生か死か。カイル、エリス、フィル、レルゲン――四人は、砕けそうな心を必死で繋ぎ止め、ただ必死で走り続けた。生と死の狭間で、彼らの荒い息づかいだけが、まるで命の鼓動を訴えるように、風鳴りと共に荒野に溶けていくのだった。
魔獣たちの咆哮が、枯れた大地を這うようにじわじわと迫ってきていた。その声は、冷えきった空気に混ざり合いながら耳元で不吉な鼓動を刻む。カイルは思わず足を一瞬だけ引き、荒野を駆けた踵を止める。振り返れば、地平線の向こうに滲む黒い影が、どこまでも広がる凶兆そのものだった。
「まずいぞこりゃ、あいつらダイアーウルフだ!」
喉奥から搾り出されるようなカイルの声は、まるで錆びた刃が石を削るときのように粗く、荒んでいる。ダイアーウルフ――巨大な狼の異形、それは生半可な冒険者たちを容易く喰らい尽くす、圧倒的な怪物だった。その筋肉質な体幹は、黒光りする毛並みに覆われている。岩を砕くと噂される爪牙は、まるでこの地を支配する意志の象徴のようで、遠目にも不気味な力が感じられた。
鋭い咆哮は、まるで雷鳴が耳元で転がったかのようだ。空気が突き刺すように張り詰め、荒野の風はその衝撃に震えている。カイルは奥歯を噛み締め、焦燥を包み隠すことなく声を上げた。
「奴らは足が速い。このままじゃ追いつかれる! どこかに身を隠してやり過ごそう」
「そんなこと言われたって、どこにも隠れる場所なんてないじゃないの!」
エリスが荒い息を吐きながら、咄嗟に叫び返す。その声には震えるほどの苛立ちと恐怖が入り混じっている。彼女の頬は血の気を失って青ざめ、その瞳は頼れる拠り所を探すように左右へ泳いでいた。しかし目に映るのは、剥き出しの荒地と、舞い上がる砂粒。遮蔽物になる岩はおろか、枯れ木の一本すらない。逃げられない、隠れられない、ただ時間を奪われるばかりの絶望的な平野が広がっている。
深い溜息のような決意が、カイルの胸底で固まる。彼は一瞬だけ仲間たちの顔を見渡した。エリスの瞳には、不安を抑えきれぬ揺らめきがある。後ろのフィルは魔石を抱え込むようにして立ち尽くし、老練のレルゲンですら額に浅い皺を刻んでいる。彼らの表情が、カイルの胸にひっそりと痛みを灯した。
「しょうがないな。俺が時間を稼ぐ! みんなはその間に逃げろ!」
カイルは刃こぼれした剣柄をぎゅっと握りしめる。その剣は今やぼろぼろで、頼もしさというにはあまりにも脆く見える。それでも、カイルは仲間たちに背を向け、まっすぐに魔獣の方を見据えた。その細めた瞳には、揺るぎない火が宿っている。
「ちょっと、カイル、そんなのだめよ……!!」
エリスは声を張り上げるが、その抗議はカイルの決然たる表情にのみ込まれた。彼女は唇を噛み、拳を握り締める。何も言えず、ただその背中を見つめるしかない。胸中に湧き起こるのは、無力感と悔しさ。カイルを残して走り出すなど、考えるだけで心が軋んだ。
「カイル……」
フィルがかすれた声で名を呼び、レルゲンは唾を飲み込む音さえ聞こえるほど息を詰めている。立ち竦む仲間たちを前に、カイルは片頬を歪めて軽く笑ってみせた。その笑みは、死線を知る男が、自らを奮い立たせ、仲間を安心させようとする不器用な優しさだった。
「へへっ、気にするな。俺なら大丈夫だ。この程度で死ぬもんかよ!」
どこか涼やかなその声音に、エリスたちは苦しげに顔を歪める。その言葉に込められた真意を、彼らは痛いほど理解していた。カイルが本当に死なない保証はない。だが、その不器用な冗談めいた口調は、彼らの足を動かすための最後のひと押しだった。
「いいから行け! 行くんだ!!」
張り詰めた声が荒野に響き渡り、カイルの鋭い眼差しが、逃げ遅れようとする仲間たちの背中を強く押す。フィルが迷いを断ち切るように走り出し、レルゲンがぎこちなく足を踏み出し、エリスも必死に唇を嚙み締めて前を見る。カイルの無言の激励が彼らを奮い立たせ、荒涼とした大地を切り裂くような足音となって響く。
「死んだら承知しないからね!」
遠ざかる声は、哀しみを滲ませながらもひどく強がっていた。カイルはその言葉に肩をすくめて笑う。彼の表情には、仲間たちへの別れと惜別の情が交錯し、それでもどこか達観した穏やかさが浮かぶ。
「当たり前だろうが!」
小さく呟いたカイルは、背中でうずくまっていた大剣の柄を両手でぐっと握り直す。その肩から腕へと伝わる剣の重みは、今や誰のためでもない、自分が生き抜くための錘でもあった。
「仲間を守って死ぬってわけか……こんな終わり方も悪くはないかな」
荒んだ風の中で静かに息を吐き、カイルは襲い来る魔獣たちへと身を向ける。遠くに浮かぶ黒い獣影は、鋭い爪と牙を光らせ、血と殺意の匂いを漂わせている。だが、カイルの瞳には一片の迷いもなかった。
刹那――激しい轟音が耳朶を突き破る。その衝撃は、一瞬にして世界を揺るがした。砂塵が舞い上がり、大地が唸るように震える。カイルは反射的に腕で顔を覆いつつ、咄嗟に周囲を見回した。視界が歪み、凄まじい風圧が頬を打つ。
「な、なんだとっ!?」
彼が思わず叫ぶと、その先に奇妙な光景が広がっていた。ダイアーウルフ、さきほどまで喉元へ牙を立てようとしていたあの巨獣が、まるで見えない巨大な手に弾かれたかのように宙を舞い上がっている。黒々とした獣体は無防備に空高く放り投げられ、遠吠えが喉の奥でちぎれるように途切れる。
何が起きたのか、理解が及ばぬまま、カイルは息を飲み、その奇妙な、けれど救済にも似た奇跡的な光景に見入っていた。生死の境で、運命が舵を切る。彼は一瞬、荒野で出会うはずのなかった新たな存在の気配を感じ、そこに秘められた謎めいた力に圧倒されながら、次の瞬間に起こることを見据えようとしていた。
突然の爆風に世界が変貌する中、カイルは信じがたい光景を前に言葉を失った。肌を切るような鋭い風は大地から砂埃を巻き上げ、視界を曇らせる。鼓膜を揺さぶる轟音、腕を押し返すような重い空気――すべてが、この一瞬で狂気じみた舞台へと書き換わっていた。
そんな混沌のただ中、ゆらりと浮かび上がる存在があった。
薄い革鎧を纏い、見上げるほど華奢な身体をした、一人の少女。そのあまりにも小柄なシルエットが、嵐のような空気を割って前へと進み出る。長い黒髪が荒れ狂う風に揺られ、まるで闇夜に解かれた一筋の光なき流れ星のように、艶めきながら散らされる砂粒の中で優美な曲線を描いていた。
「来いっ!
少女の叫びは、冷えた空気の中で凛と響き渡る。まるで古い呪文のようなその声と共に、彼女の小さな背から黒い翼が解き放たれた。
そこに広がるのは、闇から生まれた生き物のような一対の翼。まばゆい光を拒むかのような深い漆黒を帯び、見上げる者を圧倒するほど雄大で、羽ばたくたびに硬質な風を生み出す。羽根の先端には微細な光が瞬いており、それはまるで群れなす星々が、彼女の揺るぎなき力に応えるように震えているかのようだった。
カイルはその光景に目を見開いた。一歩、また一歩と少女が足を進めるたび、翼は揺るぎない意思を持つかのように風を操り、周囲に白く輝く微粒子を乱舞させていく。
その圧倒的な気配に飲まれたダイアーウルフたちは、距離を詰めることも忘れ、低い唸り声を上げながら立ち尽くしていた。彼らはこの圧倒的な存在感に、本能的な恐怖すら揺さぶられているのかもしれない。
少女は細い指先で静かに腰の剣へと手を伸ばす。その瞬間、刀身はほの白い光を内側から放ちはじめた。それは純白の輝きを帯び、黒い荒野の闇を射抜くような清浄な光沢を浮かべる。
ロングソードに匹敵する長大なその剣は、彼女の小さな身にあまりにも不釣り合いだったが、少女は驚くほど軽やかに持ち上げる。その様は、まるで世界の重力さえも意のままにするかのようで、その強さと優美さが、見る者の胸を打つ。
静寂とも呼べる一瞬が訪れる。爆風が吹き荒れた荒野で、漆黒の翼を広げ、純白の剣を掲げる少女。その異様で美しい存在は、カイルの中にかつてない感覚を呼び起こしていた。恐怖とも畏敬ともつかない奔流が胸を焼く。幻ではない、確かな現実が、今この場所で織り成されている。
少女が高く掲げる純白の剣から放たれる光沢は、荒涼たる大地を切り裂き、闇に潜む狂気をも照らし出しているように見えた。背後で散りかけた夕暮れの影が、奇妙な反照を孕み、まるで異界へと繋がる入口が開いたかのような錯覚さえ誘う。彼女の一歩がこの不毛な荒野の運命を、否、カイル自身の運命をも塗り替えていく──そう直感させるほど、少女の存在は圧倒的であった。
カイルは驚きに満ちた眼差しを剣先へ向け、喉から押し出すような掠れた声を漏らす。
「……あの翼は、一体なんなんだ?」
応える者はなく、少女は一瞬息を止めるように胸を張り、その華奢な体躯からは想像もできぬほどの力で剣を振り上げた。刹那、地を蹴るよりも速く、黒い翼が生み出す風圧と共に滑るように前へ進む。その動きは風よりも疾く、光よりも鋭い一閃を描く。荒野の砂礫が跳ね、視界が散乱する中、少女は鮮やかな軌跡を残して魔獣たちへ突進していく。
「
奇妙な響きをもつ言葉が少女の唇から解き放たれた瞬間、彼女の周囲を白い微粒子が練り固めたような半透明の球体が浮かび上がる。それらは羽ばたく黒い翼と対照的に、柔らかな光を湛え、漂うように彼女を取り囲む。数多の小さな衛星のような球体は、静かに彼女の行く手を守護していた。
カイルはその光景に息を飲み、瞬く間に迫る魔獣の牙を見て思わず叫ぶ。
「逃げろっ!」
だが、その警告が風に溶けると同時に、信じ難い奇跡が眼前で巻き起こる。鋭い爪を振り上げていたダイアーウルフたちが、少女に触れようとした瞬間、周囲を囲む半透明の球体が一斉に震動を始めた。次の瞬間、球体は炸裂するように弾け飛び、その破裂音は山鳴りに匹敵する轟音を響かせる。
まるで百雷が同時に落ちたかのような衝撃と爆風が、凶暴な魔獣たちを無残なまでに吹き飛ばし、喉を裂くような吠え声や呻き声を荒野に散らす。その余波に荒れ狂う風は、砂粒を巻き上げ、惨劇の舞台を一瞬にして白濁する砂嵐へと変えた。
カイルは呆然と立ち尽くし、信じられぬものを見た者のように唇を震わせる。かつて圧倒的な恐怖の対象だったダイアーウルフの群れが、いとも容易く宙を舞う羽目になっている。だが、その中心で、少女はあくまで穏やかな呼吸を保ち、瞳の奥に冷静さを宿していた。彼女を守護した半透明の球体は、ただの防御壁ではなく、魔獣たちを弾き飛ばす攻撃的な一撃をも秘めていたのだ。
舞い散る砂煙の中、黒い翼をゆるやかに揺らしながら、少女はなおも剣を構えて立つ。その華奢な姿が、見る者に不思議な安堵と畏怖を同時にもたらす。嵐の只中で彼女が放つ白光の剣は、この荒野に潜む絶望と恐怖に、一条の光を投げかけていた。
まるで世界がまったく違う規律で動いているかのような異様な光景に、カイルは声もなく立ち尽くした。目の前で起こる不条理ともいえる光景――少女が、狂気じみた魔獣の群れ相手に躍動し、圧倒的な力を示している。その不可解な現実に、喉の奥で言葉が渦を巻くばかりで、何も紡ぎ出せない。
「こいつは、どうなってるんだ……?」
低く漏らすカイルの声は、自分自身への問い掛けのようでもあった。その背後で、魔術師のフィルは眉間に皺を寄せ、困惑を隠せないまま、少女が展開する謎の光景を注視している。彼の豊富な知識をもってしても、これは常識の埒外だった。
「風属性の魔術障壁か? でも、こんなものは見たことがない!」
フィルの声は掠れて震え、必死にその正体を見極めようとしていることが窺える。彼が知る限り、強固な魔術障壁を形成するには、複雑な魔法陣や長い詠唱、そして繊細な制御が不可欠だ。けれど、少女はあまりにも自然に、まるで息をするかのような手軽さで、その驚異的な力を発揮していた。
突如、少女が一瞬立ち止まり、背後を振り返る。彼女の瞳には薄氷のような冷ややかな光と、確固たる決意が凝縮されていた。その声は、苛立ちと切迫感を孕み、周囲の空気を一層ぴんと張り詰めさせる。
「あなたたち、こいつらは全部私が片付けるから、下がっていて!」
その言葉に、カイルは驚愕に目を見開く。信じられない――これほどの数の魔獣を、たった一人で相手にするなど、正気の沙汰ではない。彼が振り返れば、地平線まで続く漆黒の狼影、優に五十を超える魔獣が周囲を埋め尽くしていた。
「これだけの数だぞ? いくらなんでも一人で相手するなんて無理に決まってるだろ!」
カイルは叫ぶように言い放ち、少女に警告する。理性が叫んでいる――不可能だ。無茶な賭けだ。だが、少女はカイルの言葉など耳に入れないように、鋭く吐き捨てる。
「いいから下がって! この場は私に任せなさない!」
苛立ちを帯びたその声音は、鋭い刃のようにカイルたちの胸を刺し、問答無用で退却を余儀なくする。白く舞い散る砂塵の中、少女の長い黒髪が風に乱れ、その翼がわずかに震えたように見えた。
「だいたい、そんな剣一本でどう戦おうっていうんだ?」
思わず漏れたカイルの戸惑いの声に、少女は不機嫌そうにじとりとした視線を返す。その瞳には、まるで幼い子供をたしなめる大人のような冷ややかな軽蔑が宿っていた。
「そんな剣って言ったわね……。ここにいたら邪魔だって言ってるのよ! 巻き込まれたくなかったら、早く行きなさい!!」
少女の言い放つ言葉は、残酷なまでに明快だった。彼女には彼らの助力など不要で、むしろ存在そのものが邪魔なのだと。荒野に吹きすさぶ風に乗って、少女の苛立ちが鋭利な針のようにカイルたちを突き刺す。
カイルはその表情と声に圧され、何も言い返せない。エリスやフィル、レルゲンもまた、理解不能な現実に息を呑み、肩を強張らせている。彼らはこの非常識な力を前に、従う以外の選択肢を失ったかのようだった。
そして、カイルは悔しげに奥歯を噛み締めながらも、走り出すほかなかった。その背中を、少女の冷たい瞳が見送るように見つめている。彼らが去った後、その場所には、嵐のように舞う砂塵と、不穏な沈黙、そして圧倒的な存在感を放つ少女と魔獣たちが残されるだけだった。
少女は、カイルたちの姿が遠ざかったのを見届けると、その唇の端をわずかに持ち上げ、不敵な笑みを浮かべた。まるで凍てついた大地に咲く、黒い花のような微笑。それは恐れを知らぬ、確固たる意思を映し出していた。
彼女は低く息を吐き、自らに言い聞かせるように剣を握り直す。
剣を両手で支えるその姿勢は、緊張感と揺るぎない自信を纏い、まるで神聖な儀式を思わせる。白い刀身が淡く輝き、少女の揺らめかぬ決意を反射していた。ほんの一瞬、ダイアーウルフたちは動きを止め、彼女を見据える。黒い瞳の底に、かすかな畏怖が滲む。小柄な彼女の中に潜む力を、無意識のうちに感じ取っているかのようだった。
その静寂を割るように、少女は剣へと囁く。まるで親しい友へ声をかけるような自然さで、聞く者がいれば奇異に思うほど。その声音は柔らかく、しかし頑なな意思を封じ込めていた。
「さーて、邪魔はいなくなったし、やっちゃおうか。“
まるで剣が返事をしたかのような、ひとり対話が紡がれる。その様は異様でありながら、どこか親密な響きを帯びていた。
続いて、少女は剣を天高く掲げ、荒野に向けて凛と声を張り上げる。その声は風を切り裂く鋭利な刃のようでありながら、清冽な光を孕んでいる。
「流儀白!
その瞬間、空気の密度が変わったかのような感覚が走る。ダイアーウルフたちは一斉に白く透明なドーム状の魔力の檻に囚われ、足を止めた。その中で風が荒れ狂い、見えぬ鞭を振るうように彼らを翻弄する。吠え声と呻き声が内部で反響し、互いの咆哮が混ざり合い、恐怖と混乱が渦を巻く。
ドームはまるで、気配を孕んだ生きもののようだ。少女を中心に、生まれたばかりの世界が再構築されているかのような神秘的な光景が、荒野を彩っていた。
遠巻きに見守っていたカイルたちの胸には、言い知れぬ感慨が走る。あの絶望的な状況を一変させるほどの力――それは単なる魔術師でも、剣士でもない。少女は、まるで秘めたる秩序を再定義するような存在感を放っている。呆然と立ち尽くしながら、カイルたちはただ、その奇跡的な一幕を目に焼きつけるしかなかった。
「ほれっ、お前らそこに集まれ」
少女の冷ややかな声が、鋭い刃のごとく空気を切り裂いた。
その刹那、半透明のドームに閉じ込められたダイアーウルフたちは、その中で荒れ狂う奇妙な力に操られるかのように押し合い、へし合い、一箇所へと寄せ集められていく。それはまるで、見えない指先が彼らを玩具の駒のように操っているかのようで、雄々しく吠え狂っていた彼らの誇りが、今やあっさりと踏みにじられていた。
その光景に、カイルたちは息を呑む。怒号や嘲り声を挙げる間もなく、ただ唖然と立ち尽くすしかなかった。壮絶な戦いを覚悟していたはずなのに、目の前で展開されているのは、理を超えた超常の光景。この少女は、一体何者なのだろう? 彼らの胸中には不可解な問いが渦巻き、答えなき感情が暗い荒野の風とともに胸を乱している。
積み上げられたダイアーウルフたちに、少女は剣先をすっと向ける。
その頬はほんのり上気したようにも見えるが、それは決して恐怖や動揺によるものではない。むしろ内奥に秘めたる強い情念が熱を帯びているかのようで、その瞳の奥には冷徹な光が宿っていた。唇には薄く微笑が漂うが、それは暖かさとは程遠い。静寂の中、しんとした熱が走るような一瞬が訪れる。
「燃え尽きろ。流儀赤、
彼女の声は、夜を裂く天使の宣告にも似ていた。と同時に、ドームの内部で凄まじい爆炎が渦を巻く。火柱が内側で猛り狂い、猛獣たちの悲鳴と、焦げつく肉の焼ける嫌な臭いが淡白な空気を一瞬にして満たしていく。それは残酷なまでに鮮明な地獄絵図だったが、奇妙なことに、その凄惨な炎は薄い白膜で縁取られた範囲外へと一歩も逸脱しない。あたかも少女の意志が定めた結界の中にのみ、苦痛と破壊が凝縮されているかのようだった。
少女は黙ってその炎を見つめる。その横顔は、まるで他人事を見るかのように平然と澄んでおり、一陣の風が彼女の黒髪を優雅に揺らす。嵐のような炎の奔流が、内側でのみ猛威を振るう奇妙な光景の中、彼女だけがまるで違う世界の住人のように、静かに、泰然と剣を構えたまま立っていた。
カイルたちはその場で言葉を失う。ここは荒野のはず、狩る側と狩られる側が血を流し合う残酷な舞台だったはずが、今では少女という名の異端者が、理不尽な力でもって秩序を創り変えている。恐怖なのか畏敬なのか、それすら定かでない感情が、彼らの胸中に鈍く拡がっていくばかりだった。
「まじかよ……」
カイルは半ば乾いた声を漏らし、目の前の光景にただ呆然とするしかなかった。荒野にこだまする断末魔の叫び、その残酷なまでに鮮明な音が、冒険者たちの鼓膜に鋭く突き刺さる。ほどなく風がその惨劇を覆い隠すように砂を巻き上げたが、辺りには未だ肉が焦げる鼻を突く臭いが残り、焼き尽くされた痕跡が生々しく残っていた。
「これはただの魔術じゃないよ。詠唱なしで、しかも複数の属性の行使だなんて」
フィルは、信じられないというように瞳を見開き、細い顎を上げてその少女を凝視している。彼が知る限り、魔術は厳密な制約と理論を有し、術式を封じ込めた魔道具無しでは、詠唱、魔力制御、属性一致など、数多の条件をクリアしなければ行使は叶わない。それが今、まるで身振りほどに気軽な様子で、少女は異なる属性を自在に操り、その破壊力を存分に振るった。これは何か、根本的に異なる力――魔術という定義を超えた、新たな概念なのかもしれない。
ドームの内部で狂喜乱舞した炎が、今はまばらな赤い残滓を残して揺らめいている。その中心に溶け落ちたダイアーウルフの群れは、もはや何の形も留めず、地獄の名残を散らした黒い焦土と化していた。少女はそれを一瞬たりとも目を背けることなく、悠々と観察しているかのようだった。
唇には、ごくかすかな笑みが浮かび、その瞳には悪魔めいた冷たさと狂気の光が燃えている。その眼差しは、己の強大な力が完全な形で解放されたことに対する陶酔と満足をあからさまに示していた。
焼き尽くされて跡形もなくなった魔獣の群れ、そしてその背後で荒野に広がる不気味な静寂。その中で、少女の存在は圧倒的な異彩を放つ。彼女は美しく、儚く、そして恐ろしい。冷たく光る黒髪と漆黒の翼、純白の剣、そして今や沈黙する地獄絵図を前にしても微動だにしない冷徹さ。ありきたりな恐怖では足りない、もっと強大な何かを秘めているような気配が、静かに漂っている。
「これで終わり……と」
少女が淡々と放った言葉は、いわば死刑執行後の宣告のようなものだった。風が拾い上げ、散っていくそれは、カイルやフィルたちの耳に妙な余韻を残す。彼らは未だ信じられぬ面持ちで立ち尽くし、言葉を失っている。遠く、かすかな夕暮れの残光が荒野に残るが、その中で少女の小さな影は、戦慄を孕む漆黒のシルエットとして、はっきりとこの世界に刻みつけられていた。
◇◇
すべてが終わり、戦いの残響が大地の静寂に溶けこんでいった頃、少女はカイルたちへ近づいてきた。
つい先ほどまで、その小さな背には深い闇を纏う翼が広がっていたはずが、いまは影も形もない。まるで陽だまりの中にだけ存在する、穏やかな姿へと戻っていた。
一同が目にしたのは、あまりにも急激な変化だった。
あの猛々しく荒れ狂う力を振るい、周囲の空気さえ凍らせていた戦士の姿と、目の前の可憐な少女が同一人物だとは、にわかには信じられない。
しかし、彼女の顔立ちは柔らかく、そこには血と恐怖を物語る気配が一切感じられなかった。まるで、つい先ほどの狂乱が幻かのようだ。“般若と小面”が同居するように、一瞬前までの鬼気迫る殺気は見当たらず、今は神聖なほどの美しさと可憐さだけが宿っている。見ているだけで胸が締めつけられるような、不思議な清らかさを伴って。
先刻まで剣先から放たれていた鋭利な光は消え失せ、少女の瞳は若草色の泉のように深く澄んでいる。まるで春の風が、雪解けの冷気や殺伐とした空気ごと、どこか遠くへ運び去ってしまったかのようだった。
艶やかで長い黒髪は、まるで風が撫でる水面のように揺らめいて、淡い光を受けてかすかにきらめく。その揺れに合わせるように、柔らかな唇は穏やかな弧を描き、ふんわりとした温かさを周囲へ広げていた。
幼さを残す小さな顔は、うっすらと桃色を帯びた頬をほんのり染めている。まばたきのたびに、長いまつげの影がそっと頬をかすめ、見つめる者の心を自然にほぐしていく。
「みんな、大丈夫そうでよかった」
少女の声はささやきのように控えめだが、春の訪れを告げる風のようなやわらかな温もりがある。その声を聞いた瞬間、カイルたちは自分の中にこわばっていた恐怖がゆっくりと溶けていくのを感じた。まるで、すべてを知りながらそっと包み込んでくれるような視線が、そこにはあった。
あの惨烈を極めた戦場を駆け抜けた同じ人物が、今はこんなにも穏やかで愛らしい。闇と殺気を払うように、少女がそこに立っているだけで、荒れ果てていた場所に一瞬にして命の気配が芽吹くようだ。もしかすると、彼女にはそうした“もう一つの力”があるのかもしれない――見ている者にそう思わせるほど、奇妙なほどの安堵感が胸に広がる。
「お、おかげで助かったよ……ありがとう」
カイルは未だ混乱を拭えないまま、礼を述べる。声は震えがちだが、彼女への敬意と感謝がはっきり滲み出ていた。
少女は柔らかな笑みを返す。先ほど見せた破壊の権化ともいうべき凄絶な姿とは正反対の、可憐な微笑みだった。
「気にしないで。これには、私なりの理由があるの。……だから、当然のことをしただけよ」
その言葉に呼応するように、白髪まじりのレルゲンが顎を撫でて訊ねる。
「お前さん、もしや……“黒髪のグロンダイル”と呼ばれているのではないかな? 単独で数多の魔獣を屠る力を持つと噂の――」
少女は肯定も否定もせず、ただ微かに笑みを浮かべる。
長い黒髪がふわりと揺れ、つい先刻までの殺意や狂気を微塵も感じさせないほど澄み渡る表情が、カイルたちの心をさらに惑わせた。
その姿を目にして、エリスやフィル、そしてレルゲンまでもが呼吸を忘れたように見入ってしまう。まるで春に咲く花が朝露を纏うかのような、優しくて温もりに満ちた笑みが、荒野の殺伐を一瞬で和らげる。
さっきまで魔獣たちの命を容易く断っていた手は、今はすとんと落ち着いた位置にあり、艶やかな黒髪も優しい風に撫でられているだけ。彼女のまなざしは若緑色の透明感をたたえ、そこには疑念を差し込む隙さえない。常識を覆すような超常的な力を見せつけられても、なお揺るぎない純真さを感じさせる、不思議な存在感がそこにはあった。
カイルは戸惑い、驚き、そして畏怖にも似た尊敬を抱えたまま、心の奥で問いかける。
――この少女は、一体何者なんだろう? どうして、あんなにも圧倒的な力を持っている?
その疑問は、カイルたちが生きてきた当たり前の世界観を越え、未知なる領域へ彼らを誘うかのようだった。
ただ一つ言えるのは、彼女がいなければカイルたちは確実に死地へ追いやられていただろうということ。彼女の存在こそが、ここでの生をもたらした最大の要因だった。あまりにも凄惨な光景を見たばかりなのに、その笑みがこれほど心を温めるとは、カイル自身、夢にも思わなかった。
「……本当に、救ってくれてありがとう」
カイルはあふれる感謝をこめて頭を下げる。その言葉には、エリスやフィル、そしてレルゲンの思いも重なっていた。死の淵からようやく解放された安堵が、少女の微笑みと共に静かに胸を満たしていく。
風に揺れる彼女の黒髪は、ゆっくりと沈む夕闇の中でかすかな光を帯び、荒野をわずかに照らし出していた。彼女の正体、そして隠された事情――まだ何もわからない。けれど、ここにある確かな事実は、奇跡のような救済が降り注いだということだけだ。
やわらかな笑みと長い黒髪がなびく姿は、まるで荒廃した大地の中に咲く花のようでもあった。まぶしいほどの静謐さと優しさを湛えたその光景は、カイルたちの記憶に深く刻まれ、決して忘れられないものとなっていくだろう。
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