ベイズ均衡

「じゃあ、ベイジアンナッシュ均衡の説明からだ。


 まず、ナッシュ均衡は覚えているか?」

「…多分?」

「心配だから、ナッシュ均衡の復習からだ。ナッシュ均衡とは、2人が互いを意識し、自分の利益を優先した時に陥る状況がナッシュ均衡だ。


 例えば、妻Aと夫Bという夫婦がいたとする。そして、AとBのどちらかが晩御飯を作るかを決めるとしよう。この時、晩御飯を作ると1の損失で、晩御飯を食べる1の利益を得ることができるとする。そして、晩御飯が無ければ、損失は1だとしよう。


 すると、A,Bどちらも晩御飯を作らない場合はどちらも損失が1になる。A,Bどちらか一方が晩御飯を作れば、晩御飯を作った方は1-1で結果、利益は0になるが、もう一方は晩御飯を作らずに食べるだけなので、利益は1。


 そして、A,Bどちらもが晩御飯を作ると、どちらも作って、食べている。しかし、2人で作ると手間が減り、夫婦仲が深まるとして、どちらも利益は2だとする。


 この時、Aだけの視点に立って考えてみる。Aの選択は晩御飯を作るか、晩御飯を作らないの2択になる。


 では、まず、Aが晩御飯を作らない場合を考えてみる。


 Aは晩御飯を作らないとすると、Bは晩御飯を作る。なぜなら、Aが晩御飯を作らない時、Bも晩御飯を作らないと、Bは損失1が確定だ。だが、Bは晩御飯を作れば、利益は0になり、損失が出るよりはましになる。


 よって、Bは晩御飯を作る。


 この時、晩御飯を作らないとしていたAはどうするか?


 Aも晩御飯を作る。


 なぜなら、晩御飯を作った方がAにとって利益になるからだ。Bが晩御飯を作るとしたので、Aが晩御飯を作らないと利益は1だ。しかし、Aが晩御飯を作ると利益は2だ。


 よって、Aは晩御飯を作るようになり、A,Bともに晩御飯を作る仲睦まじい夫婦となる。ちなみに、最初からAが晩御飯を作るとした場合でも、同じ結果になる。


 このような2人が互いを意識して、自分の利益が多くなる方に向かって落ち着く結果がナッシュ均衡だ。


 では、このようなナッシュ均衡の応用として、ベイジアンナッシュ均衡がある。このベイジアンナッシュ均衡はナッシュ均衡に確率の概念が入って来るものだ。


 この具体例は、さっきのA,B夫婦で考えてみよう。


 この時、妻Aの仕事が忙しくなって、晩御飯を作る時間まで残業をしている可能性があるとする。残業で晩御飯を作ることが難しくなっている時、Aが晩御飯を作るときの損失が5になったとしよう。この時、A,Bが2人とも作ったとしても、Aは損失が2になるとしよう。


 そして、このAの残業は1/2の確率で起こるものとする。


 では、この時のナッシュ均衡を考えると、残業のない時はさっき考えたものと同じだから、今回はAが残業であった場合を考える。


 Aが残業の時、Aが晩御飯を作らない場合を考えると、Bは先ほどと同じような流れで、晩御飯を作る方を選ぶ。しかし、この後、Aは晩御飯を作るようにならない。


 なぜなら、今回はAは晩御飯を作らないままの方が利益があるからだ。Bが晩御飯を作るとき、Aが晩御飯を作らないと、利益は1。そして、Aが晩御飯を作るようになると、残業の影響で損失は3だ。なら、Aは利益のある晩御飯を作らないという選択を選ぶことになる。


 そして、最初からAが晩御飯を作るとしても、結局はAは晩御飯を作らず、Bは晩御飯を作るようになる。


 これが、Aが残業する場合のナッシュ均衡だ。


 しかし、こうなると、Aが残業するか、残業しないかでナッシュ均衡が変わってくるということになる。


 このような場合、ナッシュ均衡は場合によるということになることもある。だが、Aが残業になるか分からない時、Aは晩御飯を作る用意をしておいた方がいいか悪いかを決めなければならない状況下では、どちらを選択した方がいいかということを考えてみよう。


 Aは残業がないと、Bと一緒に晩御飯を作るが、Aに残業があると、Bは一緒に晩御飯を作らない。つまり、残業の有無で、晩御飯を作るか作らないかが決まる。だが、残業になるかならないか分からない時、Aは晩御飯の用意をするべきかしないでもいいのかを合理的に判断するためにはどうしたら良いのか?


 答えは、それぞれのナッシュ均衡の利益と確率をかけて、期待値を考えればいい。


 どういうことかと言うと、まず、Aが晩御飯を作ると選択したとする。


 この時、BはAの残業の有無にかかわらず、晩御飯を作る。なので、Aに残業がないと、A,B2人で楽しく晩御飯を作るので、利益は2。だが、Aに残業があると、A,B一緒に晩御飯を作るが、Aは残業のために、損失が3になるんだった。


 そして、どちらも起こる確率は1/2だから、確率と利益を合わせて考えると、


  1/2×2+1/2×(-3)=-1/2


  となる。つまり、Aが晩御飯を作るとした時、損失は1/2になる。


 では、Aが晩御飯を作らないとどうなるか?


 Aに残業があってもなくても、Bだけが晩御飯を作るだけなので、Aの利益は1だ。よって、


 1/2×1+1/2×1=1


 となり、Aが晩御飯を作らない時、利益は1になる。


 じゃあ、Aは晩御飯を作ろうとすると、損失は1/2、晩御飯を作らないと思っておくと、利益は1となる。


 そうなると、Aは期待される利益の大きい晩御飯を作らないという選択をするはずだ。


 このような選択に落ち着く場合をベイジアンナッシュ均衡という。


 さて、前置きが長くなったが、このミステリーはベイジアンナッシュ均衡に陥っていると言える。」

「長くなりましたね。」

「でも、君もうろ覚えだが、このことは理解していたんだろう?


 だって、この小説の被害者はベイズだ。ベイジアンナッシュ均衡はベイズ均衡とも言うから、ベイジアンナッシュ均衡を意識しているとしか思えない。」

「まあ、そのつもりだったんですけど、そのベイズ均衡を現実に応用するとなると、難しかったですね。」

「まず、ゲーム理論は現実世界の現象を捉えやすくするものが基本だ。ゲーム理論自体を現実世界に当てはめることは、私でも難しい。


 だって、ゲーム理論は多くの条件を省いて考えることが多いから、現実世界にそぐわない場合があるからだ。


 まあ、今回の小説もその最たる例と言えるね。


 おそらく、君は睡眠薬の後の行動で、ベイジアンナッシュ均衡を起こそうと考えたのだろうね。」

「……その通りです。」

「では、なぜその均衡が崩れたのかを私なりに解説しよう。」

「私が作者なんだけどなぁ……。」


 梨子は小さく呟いた。

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