合理的な密室

締め切りにはご注意を

「にゃ~ん!」


 優美はそう言って、野良猫を呼び寄せている。すると、それにつられて、茶や黒の混じった三毛猫がすたすたと歩いて来る。そして、猫は優美の手に頬ずりをする。


「可愛い~!! 


 梨子も触りなよ。ペットはお金かかるけど、野良猫は触り放題だよ!」


 そう言って、優美は猫の背中や首の下などを撫でる。猫は非常に気持ちよさそうにしている。


「私はいいよ。」

「え~、梨子、猫嫌い?」

「いや、猫好きとか嫌いとかじゃなくて、野良猫は色々と獣じゃん?」

「どういうこと?」

「……野良猫触った後、手の匂い嗅いだことある?」

「えっ?」


 そう言って、優美は自分の手の匂いを嗅ぐ。


「……うわ! すごい獣臭い……。」

「でしょ? 私は野良猫を見る分には好きだけど、触ると後で手を洗わなきゃいけないから、触らないの。」

「……なるほど。」


 優美はそう言って、両手を持て余していた。その間に、猫はどこかへ走り去っていった。


「行っちゃったね。


 ……どこで手を洗おう?」

「トイレで手を洗おう?」

「……うん。」


_____________________________________


「やば、まだ匂い取れないんだけど。」


 優美は自分の手の匂いを嗅いだ後、再び流れ出る流水の中に手を入れた。


「今まで、気にしたことなかったの?」

「気にするも何も、今まではそんな匂いしたことなかったし。」

「普通の野良猫は獣臭いものだよ。それに、病気とか持ってるかもしれないから、野良猫触ったら、手は洗った方がいいよ。」

「でも、めざし猫は臭くないし、汚れてないよ?」

「めざし猫?」

「知らない? この大学の名物猫。いつもめざしを咥えてる白い猫だよ。」

「サザエさんじゃあるまいし、そんな猫居るの?」

「昼休みにこの講義棟の近くをよくうろついているよ。」

「うーん、この講義棟は才木先生の授業でしか来ないからなあ。」

「ああ、あの講義は1限だからね。


 ……そう言えば、今週の才木先生の数学のレポート難しかったよね? それに、今頃、紙のレポートだし……。」

 私はそれを聞いて、重大なことを思いだす。


「あっ! そのレポート出すの忘れてた!」

「えっ! それやばいよ。それ出せないとほぼ単位ないよ!


 でも、そのレポート……。」

「大丈夫! もう印刷してあるから! 出すのだけ忘れてたの。


 今すぐ出してくるね! 次の講義は必ず出るから、先行っといて!」


 私はそう言って、トイレを抜け出して、才木教授のいる部屋へと向かった。


 しかし、気がかりなのが、最後に見た優美の顔の血の気が引いていたことだった。


_____________________________________


 私は息を切らしながら、階段を上りきり、才木教授の研究室がある3階に来ていた。


 私は息を整えた後、教授の部屋の扉をノックした。すると、扉越しにどうぞと言う才木教授の声が聞こえた。私はその声を聞いて、扉を開けて中に入る。


 部屋の中には才木教授以外にも他の人がいた。その人は私の良く見慣れた人だった。


「おっ! 文学少女!」


 天神教授だった。


「やっ、やめてください! その言い方!」

「ああ、すまない。名前を覚えていないものでな。」

「梨子です! 甘利梨子!」

「じゃあ、梨子。君はここに何のようだね?


 君も才木教授の数学の話を聞きに来たのか? 今ちょうど連続体仮説の話をしていたんだが、非常に面白い話でな。君も聞くと良い。」

「君も数学に興味があるのか? 


 なら、ちょうど今、ZFC公理系において、ペアノの公理を含んだ形式体型において、どれだけ公理の数を増やしても、真偽が判定不可能な命題が生まれることについての説明をしていたんだよ。」

「いわゆるゲーテルの第一不完全性定理だな。」


 私にはちんぷんかんぷんな話をしているらしい。天才の高次元な話にはついていけないと思った。


「いや、それはまたの機会にお願いしたいのですが……、あの教授の講義のレポートを提出しようかと思いまして……。」


 私はそう言って、手提げカバンに入っているレポートを取り出して、才木教授の方へと持っていった。


 しかし、才木教授はぽかんとした表情をしている。


「ええっと、君がとっている私の講義というのは、基礎数学Ⅰか?」

「はい!」


 私がそう答えると、才木教授は決まりの悪そうな顔で、頭をポリポリと搔いている。私はそれを不思議に思いながらも、再び、レポートを才木教授の手元に持っていった。


「ああ、非常に申し上げにくいのだが、そのレポートを受け取ることは出来ないな。」

「な、なぜですか?」

 教授はさらに、決まりの悪い顔をしている。


「だって、そのレポートの締め切りは昨日までだよ。」


 …………


 私の時が止まった。

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