第17話 かぐや姫の昇天


 幸せな夢を見た。

 松緒の姫様が傍にいて、一緒に箏を弾きましょうという。

 殿方から届いた恋文の返しをどうするか、ああでもないこうでもないと話す。

 夜空に浮かぶおぼろ月を眺め、風や虫の音に耳を澄ませた。


「この松緒は、姫様に拾っていただいた身です。姫様の行くところならば、どこにもついて参ります。だから」


 ――捨てないでください。


 松緒は懐かしい「姫様」へ手を伸ばしたのだが、掴んだのは、狩衣の袖。

 「姫様」は、優しく松緒の手を振りほどき。


「ぼくは松緒を連れていかないよ。そう決めたんだ」

「どうしてですか!」


 泣き出す松緒のまなじりを、男の姿をした「姫様」が優しく拭うも、問いには答えない。


「松緒は、ぼく以外にも大切なものを作ったほうがいいんだ。『偽物』のぼくよりも。……ぼくは幽霊なんだよ。この世にいちゃいけなかったんだ……」


 姫様の姿も声も遠ざかっていく。

 何も見えなくなった。


 

 ……頬に走った熱い痛みで、松緒は夢から醒めた。

 視界いっぱいに、松緒の大好きな主の顔があって、松緒はまだ夢の世界から目覚めていないかと思ったが。


「松緒、今すぐ逃げなさい」


 狩衣をまとった「かぐや姫」が厳しい口調で、戸口を指さした。


「ぐずぐずしてはいけない。ここを出たら、すぐに川を渡って、都に戻るんだ。ぼくが時を稼ぐから」

「ひ、姫様……?」


 松緒はどこかの邸で寝かされていた。

 起き上がりながらじんじんと痛む頬を押さえると、かぐや姫は「ごめん」と口早に謝った。


「松緒を巻き込むつもりはなかったんだ。どうしてあの男が君を連れてきたのかわからないが、ぼくはそんなことを望んでいない。いいね、松緒。ぼくの命を聞いて……」


 そう言いかけたかぐや姫はふいに黙り込むと、松緒の手を引いて立ち上がった。


「静かにしているんだよ。松緒、こっちだ」


 姫様のやることだからと素直についていけば、そこには塗籠ぬりごめがあった。


「ここの床板は実は下へ抜けられるようになっている。這っていけば、外に出られる。あとはだれにも見つからないように都に戻るんだよ」

「姫様は……?」


 かぐや姫は、ふっと微笑んだ。


「また会えるよ」

「……本当ですか」

「本当だとも」

 

 話したいことはまだたくさんあった。切実に時間がほしいと思った。

 なのに、姫、姫、と男の声が近づいてくることに気付き、松緒は口を噤む。あずまが、かぐや姫を探しているのだ。


「大丈夫。あずまも、床板のことは知らせていないから。ほら、入って」


 かぐや姫は半ば強引に松緒を塗籠の床下に押し込んだ。そして、自らはその場に残った。

 松緒は、嫌な予感ばかりがしたので、埃と蜘蛛の巣にまみれた床下で息を潜めた。

 かろうじて、かぐや姫とあずまの声が聞き取れた。


「かぐや姫、どうしてこちらに」

「どうしてと言われても。気が向いたからだけど? 君はぼくを監視したいのかい、あずま」


 かぐや姫の声は、松緒が聞いたことがないぐらい、冷ややかなものだった。

 

「いえ。ですが、勝手に出歩かれては困ります」

「そうだね。君にとってはそうかもしれないね。勝手に出歩いては、見つかってしまうもの」

「見つかってしまう、とは?」

「ぼくを軽んじるのはよくないね。……松緒をさらってきたことを、ぼくが知らないとでも? 最近の君はずいぶんと暴走が過ぎるようだが。許しもなく左大臣家の若君を仲間に引き入れ、後宮に翁丸の死骸を転がし、松緒に薬を飲ませたじゃないか。おまえは松緒を殺すつもりか?」

「死ねばよいでしょう。あれはあなたの邪魔をする」


 深い恨みが宿った声音に松緒は口元を押さえていた。

 あずまもまた、かぐや姫の美貌に魅入られたひとりだったのだ。


「むしろ、どうしてそこまで気にかけるのかがわからない。あなたと秘密を共有し、あなたの共犯として選ばれたのは私ではありませんか……!」


 ぎし、と床板を踏みしめる音が頭上から響く。


「そうだね。互いの利益のために結びついたはずだ。東国出身の君は、昔朝廷に滅ぼされた一族の仇を討つために、宮中に混乱をもたらすための楔を探し。ぼくもまた、この世が気に入らなかったから、壊したかった。利益だけのための仲なのに、どうして君はぼくを女のように抱きしめる?」

「……あなたが、女にしか見えないからだ」

「ぼくは君をそうとは見ないよ。男からの求婚はすべて断ってきたぐらいだからね。ぼくは、「かぐや姫」なんだよ。だれの手にも落ちない。身体を放せ、あずま」

「ぐ……」

「宮中の奥深くまで、もう少しで手が届く。武者たちもひそかに続々とこちらへ集まっているのだろう。攻め入るのはいつだった?」

「今夜、です」

「そうだね。今夜だというのに、君は松緒を、何も知らないあの子を殺そうとしたわけだ。ぼくは君を軽蔑するよ」

「かぐやっ、私は!」

「……さて、ぼくは君が集めた武者たちを見に行くことにするよ。西の山中だったね、案内しろ」

「……はっ」


 二つの足音が遠ざかっていく。

 静まり返ってから、松緒は静かに床下から外へと這い出た。

 辺りは暗かった。ずいぶんと時間が経ったような気がするから、丸一日は寝かされていたのだろう。

 さびれた道をとぼとぼと、やがて小走りに都に向かって走る。

 本当は、どこにも行きたくなかったけれど、足は勝手に桃園第に向かっていた。


「姫様……!? 今までどちらにいらっしゃったのですか!」


 こういうときに限って、たつきに会ってしまった。

 たつきは、東宮の間諜として働いていた者だった。

 松緒は泣きたい気持ちになった。たつきの細い肩によりかかるように、松緒は息をして。


「たつき。お願いがあるの。ひそかに東宮さまにお会いしたい……! 一刻も早く!」

「は、はい……! では、こちらへ……!」


 たつきは心得た様子で暗い道を駆け出した。松緒は必死でついていく。本当はとうに体力も限界を迎えていたのだが、それでも、やり遂げなければならないことがあった。

 心の中では、とうにわかっていたことだ。

 姫様を、止めなくてはならない。

 なによりも、だれよりも、大事だからこそ。

 松緒は、姫様にこれ以上、罪を犯してほしくなかった。


 ――私は。私こそが、姫様の敵になるしかなくて……!


 なんという不忠なのだろうか。

 散り散りに砕けてしまいそうな心を抱えながら、松緒は、東宮御所に辿り着いた。

 東宮の反応を見もしないで、松緒は床板に頭を押し付け、東宮にこいねがう。


「東宮様に申し上げます……! 私の主、かぐや姫を、どうか、どうか、お止めください……! あの方は、今夜にも大それたことをしようとしていらっしゃいます……!」




 松緒から陰謀を耳にした東宮は迅速に動いた。自ら動かせる手駒を松緒のいうとおりに西の山中に向かわせた。帝への報告は、松緒と同盟を結んでいた陰陽師晴明が請け負ったと聞かされた。

 松緒本人は、東宮の道案内のため、東宮の馬に同乗した。

 松緒が捕らえられていた邸に到着すると、そこには赤々と篝火が焚かれ、縄で武者たちが捕らえられ、集められていたところだった。

 東宮が馬を下りると、部下と思われる武官が東宮の元へ報告に来た。


「東宮様。この邸は、左大臣家の者らしく……その、近衛少将様と大君おおいきみもいらっしゃいました。もっとも、近衛少将様は捕まって痛めつけられ、大君のほうは……病に伏しているようでしたが」

「そうか。首謀者ふたりは?」

「いえ。まだ。今、山中を探しております」

「わかった。ならば、俺もゆこう」

「はっ」


 東宮は、馬上に乗ったままの松緒を見上げて、「それでよいな」と小さく念押しした。


「あなたは、探したいだろう」

「……はい」


 東宮が言わなくても、松緒はひとりでも山に分け入るつもりだったが、見通されていた。


「ありがとうございます」

「なんだ、あなたが素直だとこちらも調子が狂うぞ」


 東宮は励ますように笑い、ひらりとまた馬に乗る。

 松緒が振り落とされないように、しっかり彼女の腕を自分の腰にまとわせてから、馬は山中の捜索に加わったのだった。


 共に来た仲間はひとり減り、ふたり減り……。

 とうとう、ふたりきりになった。


「どこに行くつもり?」


 山中で、「かぐや姫」は、己の手を握るあずまのそれを振り払う。

 さらさらと暗闇の中で、水音が聞こえてくる。

 崖のふちに、二人は立っていた。


「東国へ帰る。落ちのびれば、また好機がやってくる」

「東国か。君の故郷だね」

「そうとも。今はそうするほかありません」


 あずまは、武者の家の出だった。昔の帝の子孫のひとりが臣下に下り、自由を求めて東国へ下った。そして、東国に土着していた一族と結びつき、力を持った。

 かつて、東国で反乱が起きた。彼の一族と、朝廷から遣わされた国司地方長官が争ったことが発端で、彼の一族は滅ぼされた。

 彼ひとりが生き延びて、遠縁に匿われて育った。

 彼にとって朝廷は、憎き一族の仇であり、遠くは同じ血を租に持つ縁戚だった。

 そんな彼の背景は、自分の手足となる者を探していたかぐやには都合がよかった。……これまでは。


「なら、ここでお別れだ。あずま」

「……何をおっしゃっているのですか」

「言葉の通りだよ。今、この場でぼくとあずまは別々の道を行くことにしよう」

「はっ……! そのようなこと、できるはずがないでしょう。あなたは姫君だ、世の中を渡っていく術も知らないのに、どうやって生きていくつもりなのですか!」

「生きていけるよ。不死の妙薬の製法はぼくが君に与えたが、それによって、いろんな伝手も得られたんだよ。あずまの知らない人脈も構築した」

「嘘だ……!」

「嘘じゃない。むしろ、なぜ君だけだと思ったんだ。利害関係が一致しただけの仲なのに」


 ある事情により、かぐや姫はあずまの身の上を知っていた。だから、すぐに利用することを思いついた。

「あずま」は失敗したけれど、代わりはすぐに用意できるだろう。あずまを扱うことでかぐや姫も学んだのだ。


「東国なんて辺鄙なところに行けるわけがないだろう。あそこにはぼくのほしいものは何ひとつないのに。まさか、あずま。ぼくが当然のように君についていくとでも思っていたの?」

「あなたはどこにも行けないはずだ……」

「緊急の備えはしてあるよ。手筈は整えてある」


 船に乗り、海を越えるのだ。その先には広い大陸がある。不死の妙薬の効果はこの国でも検証済みだ。あれを欲しがる者たちは大勢いる。

 都を騒がせる「不死の妙薬」はある植物を原料に作られる。その知識の源泉を、かぐや姫はだれにも明かすつもりはなかった。


「おれを捨てる、と?」


 礼儀正しさを忘れた獣が、ぎらぎらとした目つきでかぐやを見てきた。かえって冷めた心地になる。


「おまえが勝手にかぐや姫の美貌に狂ったんだろう。ぼくは知らないし、もう勝手にどこぞへ行けばいい。……ぐっ」


 男の手が、かぐやの首にまとわりついた。


「だったら! だったら、殺してやる! そうすればおまえはおれのものだ!」


 ――馬鹿な。


 空蝉の衣を抱きしめるようなものだ。中身なんてありはしないのに。

 いや、そもそも「ぼく」こそがそういう存在なのだけれども。


――おまえなぞにくれてやるものか。


 そもそも、おまえのような男がいるから世の中が気に食わないのだ。

 正真正銘の、美しく汚れのない「かぐや姫」は、とうの昔に死んだ。

「ぼく」が生まれたのは、下腹部に走る激しい痛みの中だったし、辺りは血の海になっていた。ぼくの血もあったけれど、ぼく以外の血もあった。

 かわいそうな、かわいいかぐや姫。暴漢により、幼い子どもの心は殺されて、ろくでなしが生まれた……いや、「目覚めさせられた」のだ。

 かぐや姫は、苦しみに耐えながらも、今、目の前にいる男へ、傾国の微笑みを浮かべた。

 男は息をのみ、首を絞める力が緩まる。

 その隙をつき、かぐや姫は男から逃れて、駆け出した。

 向かう先はわかっていて、「彼」は暗闇へ身を躍らせる。


「姫っ!」


 伸ばした男の手はすり抜けた。

 かぐや姫は崖から落ちる。川の音が近づく。

 水面に映る月の国なら、行けるかもしれない、と思った。

 遠くで、「姫様!」と松緒が己を呼ぶ声がした気がする。

 松緒は気づいていただろうか。「また会える」といったかぐや姫の嘘に。


 ――やっぱり、松緒は連れていかないよ。


 あの子を拾った当初は、一緒に連れていくつもりだったのだけれど、気が変わった。

 ろくでなしの自分にもう巻き込みたくなかったから。


 ――おひとよしすぎる。助けようとしてもろとも死んだら意味ないだろ。


 演技は得意だ。昔、生業にしていたから。

 彼女が気になっただろうカバンのストラップ。彼女もつけていたそれは、関わっていた舞台でもらったものだ。

 かつて、一度だけ彼自身にスポットライトが当たった時の、輝かしい思い出の品だった。

 そのあとすぐに、隠していた罪が暴かれて、逃亡したのちに死んだ。

 元から悪人だったから、悪いことはいくらでも知っていた。少し工夫すれば、この世界でも「知識」は生かせる。

 

 ――世の中、気持ち悪いものだらけだ……。


 実父でさえ、かぐや姫を女として触れようとしてきた。  そうなるのも、「姫があまりに美しいから」?

 己の醜さをかぐや姫のせいにするな。

 世界が変わろうと、気持ち悪さは変わらなかった。だから変えようとしたのだが……彼自身が消えた方が早かったのだ。

 かぐや姫がここで死ねば、松緒にもばれないだろう。それでよかった。


 ――松緒……。


「たいせつな……たいせつな」

「だからつれていかないんだよ」

「また、椿餅をいっしょに、食べたかった……」

 

 ……かぐや姫と呼ばれていた「何か」の思考は、ぷつりと途切れた。

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