おっさんリーマンの異世界リスキリング無双〜現代で学んだ技能を再教育して異世界で何としても生き残ります〜

鷸ヶ坂ゑる

第1話:プロローグ

 薄暗い神殿の中、法衣のフードを目深に被った女性がひっそりと祈りを捧げている。

 彼女の姿は、長いフードに包まれており、顔は見えない。だが、彼女の様子から必死に何かを懇願しているようだ。

 神殿の天井は崩れかけ、散乱した瓦礫とひび割れた石の中、かろうじて残る光の穂が彼女を照らしていた。その光は、古びた祭壇の上に置かれた魔法陣を幻想的に浮かび上がらせる。

 彼女の首には銀色の首飾りが輝いていた。

 それは茨が一つ目に巻きついているデザインで、神秘的な一方不気味さがある。その首飾りが、ほんのりとした光を放ち、彼女の周囲を淡い光で包み込んでいる。

 女性は目を閉じ、必死に祈りを捧げていた。

「助けて……この世界を、あなたの世界も守るために……力を貸して……」

 その声は震えており、涙さえ感じられるほど切実だった。魔法陣はさらに光を増していく。成功したのだろうか、微かにフードの下から見える口元は喜びの色が見えた。

 そんな彼女の背後に忍び寄る影があった。

 人ではないなにかだ。

 人影だとかそういった類のものではない。

 不定形の、黒い霧のような、あるいは粘液のようなよく分からない物体だ。

 法衣の女性は全く忍び寄る影に気づいていない。

 突然、影は音もなく動き、魔法陣の光を遮るようにして、女性の周りを取り囲む。影が近づくにつれて、光の輝きが揺らぎ、神殿の空気がひんやりと冷たくなる。影は無数の触手のように伸び、女性の周囲を覆い尽くし、彼女の祈りの声をかき消す。

 女性は驚き、必死に魔法陣の光を強めようとするが、影の圧力に抗しきれず、神殿の中に響く不安な音が彼女の心をかき乱す。

「お願い……この世界を──」

 その瞬間、光が一層強くなり、召喚の儀式が混沌と化す。神殿の壁が振動し、崩れかけた天井からは砂埃が降り注ぐ。そして、神殿はガラガラと崩れ始めてしまった。


「──はっ!?」

 変な夢だとびっしょりと汗をかきながら中年の男は手を中空に伸ばしたまま目を覚ます。何かを掴もうとしたのかどうだったのか。

 ピピピ、ピピピ、と一定のリズムでスマートフォンのアラームがなっているのに気づく。

 彼はアラームを止めるのだが、この刹那のうちになんの夢だったのかをすっかりと忘れてしまった。

「……なんだっけ? って、もう七時半か。はぁ……仕事、行かなきゃな」

 淡いブルーのシーツが広がるベッドの上で寝転がったまま、彼は手探りでベッドボードの端に置かれたメガネを探し、リムレスのメガネを見つけて掛ける。白髪が増え始めたダークブラウンの短めの髪には寝癖がついており、目を擦ると目頭からポロリと目やにが取れて指にくっついた。

 特筆することがないほどに特徴のない顔が逆に特徴的。

 それが彼が同僚からの印象でもある。

 お陰で目立つこともなく、平和な人生を送れていた。

 激しい『喜び』はいらない。

 それでいて深い『絶望』もない。

 『植物の心』のような人生を。

 そんな『平穏な生活』こそ彼の目標でもある。

 とある漫画の殺人鬼が言っていた言葉だ。

 やっていたことは別としてとてもいい言葉だと思う。

 頑張っても評価されないし、だからと言って金を稼ぐためには頑張らないといけない。

「頑張れ、俺……まだ頑張れるよな……」

 窓から朝の光が差し込み、部屋を優しく照らす。

 彼は疲れ果てた体をゆっくりと伸ばし、ベッドから起き上がり机の上に目を向けた。

 そこには食べかけの弁当と一緒に、社員証が放り出されている。社員証の写真には冴えない顔が映し出されており、下には「須田洵すだじゅん」という名前が記されていた。

 彼は深呼吸をしながら、これからの一日を思い描き、まずは顔を洗い髭を剃る。ついでにとばかりに眉も整えておいた。食事をする間もなく、部屋干しのワイヤーに引っかかったままのハンガーからワイシャツを引っ張り取ると着替えていった。

 そして、そのまま玄関に置いたままのビジネスバッグを手に取るとツヤがなくなりかけた革靴に足を突っ込んだ。

 そして、誰もいない部屋に「いってきます」と挨拶する。

 平穏無事な日常の始まりを迎えるために。


 通勤ラッシュに揉まれながらも会社に到着した。

 大手外資系の会社に就職して十年。

 気づけば恋人もなく、彼は三十五歳の誕生日を迎えていた。ケーキくらい買って帰るかなんて思いながら彼は社員証を改札ゲートにかざすが、エラーが表示される。仕方なく、受付に向かい、困惑した表情で女性に声をかけた。

「あの、おはようございます」

「おはようございます。如何なさいましたか?」

 受付の女性は朝の爽やかさを感じる笑顔を須田洵に向ける。セキュリティの関係で、年に何回か認証コードが変えられるのを思い出した。だが、須田洵は新しいコードを発行してもらっていなくて嫌な予感がしてきた。

「すみません、ゲートが通れないんですけど……」

「では、カードをお預かりしますね」

 そういうと、受付の女性は社員証を受け取った。何やらパソコンでカタカタと操作をしている。きっと、認証コードを書き換えてくれているんだ。嫌な予感はきっと杞憂だと心を落ち着かせた。

「あの、須田洵さん、ですよね?」

「あ、はい……何か問題でもありましたか?」

「恐れ入りますが、人事考課の方へお願いします」

「えっ……?」

 わけも分からず、ビジターのカードを渡されて、洵は人事部へと向かう。そして、人事考課長の元へと行くと今度は人事考課の奥の個室へと案内された。自分の会社の中なのにまるで役所にでも来てタライ回しにされている気分だ。

 やっとのことで個室のソファに洵は腰を落ち着けた。

 だが、不安の種は消えることはない。

 ああ、もう終わりなんだ。

 洵は覚悟をしていた。

「すまないね、須田君」

 壮年の恵比寿様に似た顔の男がニコニコとしながら書類を片手に入ってきた。明るい調子の男の様子に、洵は安堵していた。きっと、リストラなんかじゃないと。だが、現実は非情なものだった。

「い、いえ、こちらこそお手数をかけまして──」

「あのね、君ね、簡単に言うとリストラなんだよ」

「は……はい?」

「だぁかぁらぁ、リストラ。クビ。分かったかな?」

「どうしてですか!?」

「あー、個人実績の資料を見ても大した成果もなく可もなく不可もなしだ」

「……」

「だからね、君はクビになるんだ。けどそれだとさぁ、君も困るでしょ?」

「は、はい、もちろんそうです!」

「じゃあ、選んで。早期退職金を貰って辞めるか、東南アジアの支社に行くか。君ぃ、独身でしょ? ほら、東南アジア──例えばタイとかベトナムとかさ。そっちの方になるんだけど可愛子もいっぱいいるし物価もそれなりに──」

 その後の話は一切頭に入ってこずに、洵は二枚の書類を手に呆然としたまま会社を後にした。

 ──とりあえず、有給残ってるし、今日から一ヶ月有給でいいよね? その間にゆっくりと決めるといいよ。まぁ、私としては後者をおすすめするね。リストラでその年じゃあ再就職は厳しいっしょ?

 人事考課長は悪びれる様子もなくそう告げた。

 いや、こう言う時にビビったりオドオドする人間はきっとリストラ宣告に向かないのだろう。まさにピッタリの人材だ。

 けれども、洵はほとんど話を聞けなかった。

 入社してからは欠勤することもなく、毎日真面目に働いて仕事は全てこなしたはずだ。

 会社が急にリスキリングの取り組みを始め、洵は必死こいてついて食らいついた。

 その結果がこれだ。

 ひとまず家に帰ろうと洵は駅前の信号を待っていた。

 すると、彼の横をスっと誰かが通り抜けていく。

 場違いな真っ白な法衣を身にまとい、赤信号を気にせずに歩道を渡ろうとしていた。

「あ、おい、君。赤だぞ?」

 呼び止めると、その法衣を着た女性──恐らく体のラインから──に声をかけた。その女性は洵の方を振り返るのだが、フードに隠れて顔が見えない。

 その口元が「来て」と動いた気がした。

 彼女はまた洵に背を向けると赤信号の歩道をさらに歩き出す。彼女を引き戻そうと車道に出たその瞬間、彼が手に持っていた書類が花吹雪のように空に巻き上がり散っていった。

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