ツクモさんとわたしの生活と未来のこと

彩瀬あいり

前編


「いい加減にしろ。このような場所で寝食するとは堕落にもほどがある。美栄子みえこも草葉の陰で泣いておるに違いない」


 時刻は午後八時前。仕事を終えて帰宅し、玄関を開けた途端にかけられた男の声に、わたしは立ち尽くした。

 年のころは三十歳そこそこ。サラサラ直毛の短髪、理知的で整った顔をしているが、放たれた言葉は妙に時代がかっていて、ちぐはぐ感が否めない。

 いや、そもそも誰。

 美栄子って言ったな。

 ってことは、おばあちゃんの知り合い?


 亡くなったわたしの祖母は非常に顔が広いひとだった。

 学校の先生をしていて、退職後も実績を乞われて地域の学童や塾でも先生をやっていたので、この付近には祖母の『生徒』が非常に多い。そのため、葬儀が終わったあとでも人伝ひとづてに訃報をきいて弔問に訪れることも少なくなかった。

 あれから半年以上経過して、その波も収まったように思っていたけれど、喪中ハガキを出したことで知って訪ねてきたパターンもあるかもしれない。

 そこまで考えて気づく。

 だからって、なんで鍵のかかった屋内に居るんだ、このひと。

 肩にかけたカバンを抱きしめながら、おそるおそる問いかける。

「失礼ですが、どちらさまですか?」

 こんなときでも妙に冷めた態度の自分に呆れながら相手を見つめていると、男は腕組みをしてあごを反らせ、不遜そのものの態度でこう言った。

「私はこの屋敷に住まう付喪神つくもがみである」



     ◇◆◇



 冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出す。すこし悩んだ末、お客様用の湯飲みに淹れて男の前にそれを置いた。

「茶を供するという素養があったことは褒めてやらんでもないが、いささか粗雑すぎやしないか朝子あさこよ。いや、いまさらであるな」

「はあ。それはどうも」

 ちっとも褒めているように聞こえない声色でお茶を呷るのを眺めながら、わたしはわたしでお茶を飲む。ペットボトルからの直飲みですがなにか。

「えーと、それで、ツクモさん。祖母はもう亡くなりましたが、わたしに御用があるんでしょうか」

「幼きころから胆の据わった子であったが、その度胸は健在か」

「いえ、驚いてはいますよ。ほんとに居たんだなーって」

「なら驚け。叫び轟け。私はヒトならざる者だぞ」

「だって、おばあちゃんから聞いてましたし」


 そうなのだ。

 見たことはないけれど、存在だけは聞かされていた。

 なんでも、城崎しろさき家の長女にのみ視認可能らしい。

 外見の性別は男。いつ姿が見えるようになるかはわからない。

 しかし結婚すると見えなくなるのは確定事項。

 既婚者となってもたまに声は聞こえるので、存在は感じられる。

 悩んでいたり困っていたりすると助言をくれる守護神的なもの。


 以上が、長女というポジションに生まれると、先代から教わるツクモさんの基本情報だ。

 わたしはひとりっ子で、三十五歳独身彼氏なしだけど、これまで姿を見たことはない。「うちの女性には付喪神が味方しているんだよ、朝ちゃんもいずれ見えるようになるよ」と言われていたけれど、正直なところ、微妙だと思っていた。

 いや、べつに信じてないわけじゃないんだよ。和風ファンタジー、あやかし系のお話は大好きだし。

 ただわたしは城崎しろさき朝子あさこではあるけれど、祖母とは血が繋がっていないから、対象外なんじゃないかなーって思ってたんだ。

 血が途切れているのは、わたしの母親が祖父母の知人夫婦の子どもだったから。

 物心つくかつかないかぐらいのころに、母は城崎家に引き取られた。夫婦は事故死だったらしい。

 どんな紆余曲折があったのかは知らないけれど、母は城崎京子きょうこになり、絵にかいたような転落人生を送ったあげく、実家にわたしを置いて行方知れずとなったようだ。置き去りにされた当時、わたしは小学校に上がる前だったので、すでに母の存在は薄ぼんやり。



 城崎というのは祖母側の苗字。

 婿入りして嫁家を継ぐって、結構なことだろう。城崎という名の示すとおり、大昔は城仕えをする大名の家柄だったというが、今は昔の話である。

 ただ城崎家の良いところは、かつての威光を笠に着ず、謙虚に堅実に生きてきたところだろう。

 没落の一途を辿ったが、そのことで周囲から蔑まれることはなかったし、過度に同情されたりもしなかった。受け入れられて、下々に溶け込んでいった。家屋敷も手放し、所有していた土地に小さな家を建てて住むようになる。そこが、わたしがいま住んでいる場所であるらしい。

 その都度、古くなったところはリフォームしているので不便は感じない。

 古い家屋が『古民家』としてもてはやされて久しいけど、住んでいる身から言わせてもらえば、そこまでありがたがるものでもない。隣の芝生はなんとやらの理論でしかないと思う。




「はあ、まったく。脅しがいのない娘だ」

「脅すって、自称神さまのくせに」

「自称ではない、私は付喪神だ」

「でも付喪神って、古い物に宿る精霊みたいなものでしょう? 物に魂が宿ったーみたいな。個人の想いが生み出したものだし、一般的な信仰対象になるものじゃないのでは?」

「神は神であろうが! 大事にうやまえ!」

 大事にしろと言われても、いったいなんの付喪神なのかがわからない。祖母もそこまでは言っていなかったし、特別なにかを大事にたてまつっているようすもなかった。

 キョロキョロと見回していると、神が問う。

「なにをしている」

「ツクモさんは、なんの付喪神なのかな、と。こうして顕現けんげんしているということは、近くに現物があるんじゃないかなって思いまして、探してます」

「この状況でなにを呑気なことを。探す以前の問題であろうが。まずは立ち上がって、部屋を片づけよ!」

 細長い指を突きつけた先には、無造作に重なった新聞紙が、絶妙なバランスでもって積まれている。

 カラー広告が一枚はみ出しているのが気になるけど、あれを引き抜いたらたぶん山が崩れるので、できれば手を出したくないところだ。

 床にはコンビニでもらった小さな袋がいくつか。

 中身はからで、ごみ袋として使おうと思って仮置きしてあるやつ。

 袋の外側に名前を書くための油性マジックも転がっている。ほら、近くにあったほうが便利でしょ。

 蓋つきのごみ箱。その上に置いてあるのは、お徳用の45Lごみ袋。

 そういえば今週の可燃ごみ、出し忘れてるや。でも、ひとり暮らしだから一回ぐらい飛ばしても平気平気。

 壁際に見える白いものは、埃が固まってるのかな? あとでコロコロでもかけて取ろうかなって、そういや先週か先々週あたりに思ってたような気がしないでもない。


「とくに無駄なものは置いてないと思うけど」

「この惨状でよくそんなことが言えたものだな。収納しろ。棚はなんのために存在する。床に直接、物を置くでない、不衛生な」

 たしかに、まあ、整理された部屋とは言い難いかもしれないけど、掃除って億劫おっくうでさ。仕事から帰ってきてからやる気にならないし、かといって土日にやるかっていうと、それもやってない。

 動くのと寝るの、どっちがいいかって勝負は、ずっと『寝る』が勝利している。連戦連勝、継続中。

「べつにお客さんを通す部屋じゃないんだから、多少散らかってても迷惑かからないでしょ。住んでるのはわたしだけなんだし」

「そういう問題ではない! 病は気からという言葉を知らぬのか!」

「気の持ちようって言葉もありますよ」

「ええい、ああ言えばこう言う」

 くちうるさいなあ。

 こういうのを俗に『おかん』って称するのかもしれないけど、あいにくとわたしは『おかあさん』を知らないから比較できない。

 祖母は忙しく家を空けていることが多かったし、インドア派のわたしは自室にこもって本ばかり読んでいた。いい意味で距離を保った関係だったんじゃないかなって思うけど、やっぱり一般的な親子を知らないから、なんともいえない。


「掃除しろって言うけどさ。どのみち、この家は手放すことになってるし、壊すんなら綺麗にしても意味なくない?」

「だとしても、だ。立つ鳥跡を濁さず! そもそも取り壊すと決めつけるものでもないだろう。どうするのかは、買い手が決めることだぞ」

「まあ、そうだけど」

 言って、わたしは天井を見上げる。

 飴色といえば艶やかで素敵だけど、焦げ茶色といえば、ただ古ぼけただけの色合いだろう。

 雨戸は木製だし、窓ガラスは昭和を色濃く残す模様つきのすりガラス。全体的に『古い』わけで、このまま住み続ける奇特なひと、居ないでしょ。


 文句ばかり言っているけど、愛着がないわけではない。

 就職して家を出ていたが、祖母が九十を超えたあたりで一旦戻ってきた。けど、このままずっと住むのかっていうと、そんなつもりはなかった。

 だって、この家はひとりで住むには広すぎる。

 祖父が死んで、祖母はひとりで暮らしていたけれど、あのひとはここで生まれたひとだから。

 城崎美栄子として生まれ、九十三歳で死ぬまで、この家で暮らしていた。地域の生き字引みたいになってたひとなのだ。地元で名士とされる賀川かがわさんでさえ、祖母に対しては一目も二目も置いていた気がする。

 祖父の影が薄いように思えるかもしれないけど、あのひとも人格者として知られていたようだ。役所に勤めていて、いいポジションにまで上がっていたらしい。

 孫のわたしにとっては、「はあ、すごいねえ」で済む話だけど、子どもの立場だとそうもいかなかったんだろう。親が偉大だと、同じように育つ子どもがいる一方、押し負けて悪い方向へ堕ちていく子もいる。わたしの母は後者だったんだろうね。

 逃げることで安らぎを得られるのであれば、もうそれでいい。

 だから、足取りを深く追うようなことはしなかった。残された子ども(わたしだ)を大事に育てようと思ったのだと、祖父母の想いを語って聞かせてくれるツクモさんは、現在わたしの前で神妙な顔つきで正座している。

 ちなみにわたしも正座させられている。三十歳を超えて正座で説教されるとか、勘弁してほしい。


 お風呂にはついてこなかったし、私室にも入ってはこなかった。

 そのあたりの礼儀はわきまえているらしく、わたしはようやく肩の荷をおろした気分になって就寝したのであった。




 翌朝、まだ暗いうちから家を出る。

 この家から会社まで、車で一時間ほどかかるので、冬場の出勤時間は日の出前。帰るころにも日は暮れている。

 近年のわたしは、すっかり闇の民と化していた。


「朝子よ、朝餉あさげはどうした」

「うわ、居た」

 昨日のあれは、やはり夢じゃなかったらしい。

「当然であろう。して、朝餉は取らぬのか」

「時間ないし。出勤してからなにか摘まむよ」

 会社の机は飲食禁止というわけではない。お腹が空いたとき用にちょっとしたお菓子を引き出しに置いておくのは、社会人のたしなみってやつだ。

「朝子よ――」

「ごめんツクモさん。話は帰ってからね」

 朝の一分は命取り。それだけで、信号の引っかかり具合が変わり、到着が数分遅れるのだ。

 エンジンをかけて出発。ルームミラーに映る玄関口に立っているツクモさんを見ながら、わたしは車を走らせた。

 非日常な存在が現れても、会社での日常は変わらない。この年齢になると、とくに大きな変化もないものだ。月日はあっという間に過ぎていく。

 今日も今日とて仕事を終えて帰宅。庭に車を停めて玄関前に立ったとき、手をかけるより前にガラリと開いた。


「遅いぞ朝子」

「まだ七時になったばっかりだよ。今日は早いほう」

「朝子よ」

「なに」

 次はなんの文句があるのか。うんざりして問い返すと、ツクモさんは言った。

「おかえり」

「……ただいま」

 その言葉は、随分とひさしぶりにくちにした気がして、どことなくこそばゆい気持ちになった。


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