雇い主は偏食家だけど、朝ごはんは食べなきゃダメです
翌朝。私は市電の始発に乗って、ゴルトベルクさんの泊まっているホテルへと赴いた。
市電から見えるレンガ造りの街並みに、胸が強く高鳴る。いつも羨ましく見送っていた出勤電車に、私は乗っているのだ。
ホテルの最寄り駅で降りて、ゴルトベルクさんの部屋番号を玄関脇に控えているボーイへと伝える。すぐに話が伝わって、私は彼の部屋へと案内された。
案内してくれたボーイへお礼を言って、私は客室の前に立った。コートを畳んで腕にかけ直し、こん、こん、こん、と扉を三回ノックする。
『ゴルトベルクさん、おはようございます。波多野です』
すぐにドアの向こうで、ごそごそと物音がした。音もたてずに重厚な扉がゆっくり開き、寝間着のゴルトベルクさんが現れる。白い羽織もの一枚のその姿に怯む私を見下ろして、ひょいと眉を上げた。
『おはよう。ちゃんと来たのか』
『はい。言われたとおりに参りました』
どうやらこの人、私がちゃんと来ることをちょっと疑っていたらしい。にこ、と微笑み返すと、ふいとすぐに顔を逸らされる。
『入れ』
単刀直入な指示に従って、私は客室の中に入る。異国からの長旅の荷物がたくさん置かれていた。けれどきちんと整理されているからか、物の多さにしては散らかった印象を受けない。
『これを読んで聞かせろ』
そう言って手渡されたのは、新聞だ。発行日を見ると、先週のもののようだった。
『ここでの情報収集に買ったはいいが、俺たちでは読解できなかった』
そう言って、彼は着替えのシャツとスラックスをベッドの上に広げた。慌てて紙面に目を落とし、私は立ったままざっと目を通す。
『ええと、どの記事を読めばいいでしょうか。すべて訳しましょうか?』
『大きく見出しのある記事だけでいい』
じっと紙面に視線を滑らせて、記事の構成を把握する。この日いちばんの見出しは、年末の市場が盛況を迎えていることのようだ。
『年末恒例の、大きな市場が開かれることが記事になっています。新年を迎える前日まで、都心の大きな公園で五日間開かれます』
『残りの期間は?』
『今日を入れて、二日ですね』
私がぺらりとページをめくると、ふむ、とゴルトベルクさんが考え込む気配があった。
私は二面、三面の記事も読み上げる。年の瀬ということもあって、年越しにまつわる話題が多い。しばらくすると彼の反応もいい加減になってきた。
そろりと視線を上げると、もう着替え終えた彼がすぐ近くの椅子に座っていた。私を見上げるその瞳の青くて、透き通って、綺麗なこと。思わずぽうっと見惚れていると、『分かった』と彼は言う。
『今から、その市場へと向かうぞ』
そう言って、ひょいと私の手から新聞を取り上げてしまった。そのままハンガーにかけられたコートを腕に引っ掛ける。そのままずんずんと部屋を出ていくので、私も慌てて追いかけた。
ゴルトベルクさんは、廊下に出て右隣の部屋をノックした。すぐにあの茶髪の男の人が出てきて、思ったよりも砕けた雰囲気で受けごたえしている。
彼は既に着替えて、しっかり身なりを整えているようだった。
『おはようございます、ルドルフ様。今日は何ですか?』
『エーベル、おはよう。ハタノと市場調査へ行ってくる』
『やっと、仕事をする気になられたのですね。旦那様もお喜びになるでしょう』
からかうように言うその人(エーベルさんと言うらしい)を、ゴルトベルクさんはじゃれるように肘で小突く。どうやら、それなりに親しい関係らしい。
『機が熟しただけだ。これから稼いで、来年の暮れには帰国する。おい、ハタノ』
はい、と背筋を伸ばすと、エーベルさんが横入りして『ハタノさん』と何かを差し出す。慌てて受け取ると、ずっしりと重たい黒い革財布だった。
『今日の予算です。視察に行くのであれば、お金も必要でしょう』
『ありがとうございます』
スリに盗られないように、スーツの内ポケットに入れる。もっともうちのじいやは心配性だから、私は靴の中にも高価な紙幣を仕込んでいるのだけど。
ゴルトベルクさんはエーベルさんに『そういうことだから、行ってくる』と声をかけた。そのう、と私も声を上げる。
『その前に、朝ごはんはいかがですか?』
『いつも食べていないから、大丈夫だ』
なんですって。私は絶句して、首を横に振った。
『いけません。市場は大変な人混みです。食べてから行きましょう』
『面倒だ。食べなくても平気だし、時間の無駄だ』
『ダメです。食べましょう』
視界の隅で、エーベルさんが口元に手を当てて笑っているのが見えた。笑っている場合じゃないぞ、とエーベルさんも睨みつける。
『エーベルさん。ゴルトベルクさんはいつもこうなんですか?』
『船旅で酔って、朝食を吐いたのをいつまでも気にしているだけですよ』
エーベル! と、ゴルトベルクさんが顔を赤くして言う。あら、と私はちょっと顎を引く。たしかにその事情があるのであれば、私もちょっと無神経だったかも?
そんなこともないか。
『いいですから。朝も食べましょう』
『いらない。そもそも、この国の食事は口に合わん。味は薄いし、動物の肉と言えば極端に薄いか、骨っぽい魚しかない』
ははあ、と私はしたり顔で頷いた。
『ゴルトベルクさん、あちらではどんなものをお食べになっていたんですか?』
『肉』
エーベルさんが、笑みを我慢している顔で言う。
『この人、すごく偏食なんです。こちらに来てからも肉料理以外、あまり食べていません』
『あんな薄い肉、肉料理とは認められん』
ゴルトベルクさんを、失礼にならない範囲でまじまじと見つめた。なるほど、この立派な体格は肉食で育てられた賜物なのかも。
『ちなみに、お米は食べられますか?』
私が尋ねると、ああ、と気の乗らない声が返ってきた。
『ほとんど味がしないが、まあ食べられなくはない。しかし、パンが恋しい』
なるほど、と私は頷いた。
『お野菜の、どんなところが嫌いなんですか?』
『煮込むと、少し甘くなるところ』
『なるほど』
では、と私はゴルトベルクさんを見上げた。真っすぐその瞳を見つめる。
何かを提案するときは、相手から目を逸らしてはいけない。
『僕の家で、ご飯を食べませんか』
その提案に、ゴルトベルクさんとエーベルさんが目を剥いた。それに構わず、私はにこりと微笑み返す。
『味が濃くて、甘い野菜が入っていないもの、うちで出せますよ』
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