ラストムーン マッドバニーの日常は
姉が思い出に刺激されて元気マックスになっていた頃。
広井の弟・御斗もまた眠気を抱えたまま登校の往路を辿っていた。
(眠ェ……)
ただ彼の場合、一夜漬けに走った姉と異なり飛行機内での寝付きがよくなかったからに過ぎない。雑音避けのヘッドホンを首にかけ一見不良っぽく見える彼は教師からあれこれ干渉されない程度の成績上位をキープしており、期末テスト前に今更ジタバタと悪あがきする必要もなかったのだ。
ならばどうして寝付きが悪かったのか、それは。
(宇佐見美波、あいつを上手く避けなきゃな)
昨日の戦い、バベル島で行われた三大連の謀略とヒーローヴィラン入り乱れての争いの中で彼は宇宙人を自称する悪の女王マッドバニーの正体に迫った。乱戦の中で悪の大ボスに肉薄し、疑問を解消すべく挑み、真実の一片を手にした。音ならざるコミュニケーションで悪の正体に触れることが出来たのだ。
聴きたくもない音から知りたくもないことを知ってしまうGEは彼にヒトを避けさせて対人関係を悪い方向に歪めてしまった。そんな御斗が知りたいと願い突き進んだ意義、他者には理解し難いだろうが彼にとっては大きな転機。
しかし。
(これであいつに出会って音を拾っちまえば元の木阿弥だからな……)
彼はGEのオンオフが出来ない、雑音は無視できても人の声を完全に無視できないのだ。そして得てしまった知識から集音能力がさらに上がってしまう。彼女がマッドバニーであるとの疑問が確信に変わっている今、それを元に情報収集をしてしまうわけで、誰かのことを知りたいと願った熱意そのものに水を差されてしまう形となる。
よってどうにかして出会うのを避けたい、彼女の音を拾うのを避けたい。己が行動で知るべき事柄をGEで知ってしまうのはなんとなく味気ない、やってはいけない無粋であると感じるがため。
(ただ、なあ)
問題は彼女との出会いは二度とも不意の遭遇。校内であれば姉のクラスに近寄らないで対処できる、しかし思わぬ出会いはいずれもあちらから現れた。
次もそうならないとは限らない、御斗は対応に苦慮していたのだ。
──迷える少年は不意に肩を叩かれる。
はて何だろうと振り返ったその先に。
避けるべき女がにんまりと笑っていた。
「おま……ッ!?」
御斗は意表を突かれた。
どこで出会うか分からないことに警戒し、まさか向こうからやってくる可能性は考慮の外だったせいだ。
どうする、相手の口を塞ぐか、それともヘッドホンで耳を──僅かな逡巡の間に宇佐見美波は言葉を発する。それを防ぐことは不可能で、
「おはよう、広井御斗、くん?」
「ッ」
音が流れ込む、こんな形で知るべきではないはずの音が。コミュニケートで得るべき、彼自身の行動で勝ち得るべき彼女の情報が──
『ひみつ』
「…………………………は?」
おかしな音が響いた。
「こうやって話すのは初めてだっけ」
『ひみつ』
「だから改めて名乗るわね」
『ひ・み・つ』
「宇佐見美波、あなたのお姉さんのクラスメイト、よろしく」
『ひみつひみつー』
御斗は呆気にとられる。
声音ならざる音を彼は知覚している、彼のGEは今も健在だ。にもかかわらず彼の耳に届いた音は、
「あれあれ、どうかした?」
『ひみつですってばー』
ふざけた調子の『ひみつ』連呼は御斗に届く情報を狭める、否、本来あるべき範囲に留めていた。おかしな少女が口にした内容しか物事を知ることができない、普通なら当たり前のことだがGEに覚醒した後の彼には無縁だった事象。
「おまえ、これは」
「じゃあ朝の挨拶は済んだから教室に行く──あ、そうだ」
『ひみつぅ』
動揺を示す御斗になんら反応を返さない少女は何事もなかったかのように立ち去ろうとし、芝居がかった動作で何か気付いたことがあると手を打つ。制服のポケットをまさぐって、
「はいこれ、落とし物」
『ひひひひみつつ』
若干黒ずんだ五百円玉を手渡した。
まるで火薬に炙られて焦げたかのようなそれは、
「お前、やっぱり」
「じゃあまた今度」
『ひみつでおさらば!』
会話ではない、一方的に話したいことだけ話して宇佐見美波は軽やかに去った。
一分前後の接触、他者にすれば軽いやり取りにも至らない朝の挨拶。だが御斗にはGEに目覚めてからの人生で最大級の衝撃。
(オレのGEが、無効化されてた?)
どうやって?
決まっている、宇宙人を名乗って遜色ないほどに卓越した技術かGEによる干渉に相違ない。彼のGEを識り、把握し、性質を当人以上に理解した上で作用を妨害して見せた。バベル島でマッスルラビットやマッドバニーの揮った力であればそれらは容易なのだと。
彼ら自身が喧伝するように恐るべき力、だが彼女は言った、『また今度』と。
盗み聞きは許さない、だけど挑んで来るなら挑んで来いと。
「……成程」
そういうつもりなのかと。
GEでズルなんてさせないよと、でも真正面からの挑戦なら受けて立つと。
なら、構わない。
帰宅部の彼には普段熱を入れてやることもない、姉はやる気満々で、父親は今後も協力要請を飛ばしてくるのだろう。ならば、ならば。
彼の抱いた決意は正義感などではない、もっと個人的なもの。
おかしな能力の影響で他人から距離を置いた少年が進んで対話を行おうとする、ただそれだけのことだ。
「その仮面、引っぺがしてやる」
一人のヒーローがターゲットをロックオンした。
彼の銃弾がウサギの仮面を打ち砕くかは、まだ分からない。
******
足早に立ち去りながら宇佐見美波は努力して作っていた表情を緩めた。
ついぞ対面対決した少年は驚き、戸惑い──それからどうしたかを確認する前に別れた。彼女自身が表情を保つのが難しかったから。
せっかく挑戦的な笑みを作っていたのだ、仮にそこから爆笑でもすればミステリアスな雰囲気が台無しというものである。
(どうにか間に合ってよかった)
美波が徹夜して作り上げたのは御斗のGE相殺装置。
彼のGEが音から無作為に情報を拾い上げるものであると解析し、無効化するための道具が必要であると判断しての突貫工事。完全に情報をシャットダウンするのは不自然、よってミラームーン関係の情報のみをフィルタリングする方式を採用。
あーでもないこーでもないとノンストップ開発を行った結果、流石は天才を超えた神才、夜が明けるまでに二個作製することが出来た。ひとつは弘士に、ひとつは自身に、だが。
(比呂田くんはともかく、わたしは多分正体バレてるのよねェ)
月でのMM1号処理決戦で彼は美波に五百円を打ち向けた。その意図を読み取れないほど彼女はボンヤリしておらず、対処に頭を痛めた次第である。
(記憶を消す……? でも手持ちだと細かい消去は出来ないからなあ)
計画腹案のひとつで精神に作用する装置は幾つか開発したものの、記憶を限定的に消去する性能には至っていない。年単位でゴッソリ消してしまうのは流石に失礼に当たるのではないかという悪の科学者目線と、個人的な感傷がそれを不採用にする。
(なるべく消したくないなあ)
宇佐見美波は孤独な少女だった。
幼少期から秀でた頭脳を発揮、年齢不相応に独特の視点を有した彼女は同年代と感性を共にすることが出来ず、異質なのは自分との理解が子供心に波風立てない埋没を選ばせた。
交友が難しくなった彼女は家に籠ることが多くなり、代わりを知的好奇心で満たそうとした少女は父親の部屋でバッテリー技術の設計図を発見。色々こねくり回した結果、現行技術よりも優れた図面を完成させてしまう。
元よりワーカーホリックだった両親は彼女の才能を喜び、称え。
そして見る目を子供の扱いから優れた技術者に変化させてしまった。
(こちとら子供だぞ、もっと構って欲しかった)
擁護するなら彼女の両親は守銭奴ではない、優れた技術を世に還元することに意義を見出す善人ではあったが、美波が子供扱いされなくなったことに変わりはない。
元より手間のかからない娘は放任された。信頼の裏返しではあるが美波がそれを喜んだかどうかは別だ。滅多に帰宅することも無くなった両親の姿勢は彼女から子供らしい子供時代を親と共にする時間を奪ってしまう。
唯一残された知的好奇心の向かう先、科学に没頭した美波は親の会社に貢献することで社会との繋がりを得ていたが、それすらもGE覚醒で風景が変わってしまった。
(元から天才だったのが天才を超えた神才に目覚めちゃったからね)
天才を超えた神才、この言葉に嘘偽りはない。
あらゆる現行科学を遥かに凌駕した発想力と叡智は、今までの作業を幼児向けのパズル並につまらなく味気ないものにしてしまった。その上で明晰なる頭脳は己の科学力が人類に早すぎることも自覚する賢明さをも与えており。
宇佐見美波は孤独になった、素の自分を発揮できる場を失ったのだから。
(だからまあ、ミラームーン計画もわたしの我儘でしかない──)
存在意義の置き場所を探した結果、自分が出来る何かを探した結果。
きっとやる意味があるのだと立てた計画、自分にしか出来ない計画。
彼女の計算に嘘はない。今の人類がまとまらないままに拡張路線で宇宙進出を続ければ滅びの道を歩む確率は高いが、それは現状なら概算で百年以上未来の話。自身が死んだ後に訪れる遠い未来の話である。
誰に望まれたわけでなく、必ずしも彼女がやる必要のないことだと理解しながらも人類の未来を見据えた計画は、結局のところ『全力で何かを成し遂げたかった』というよくある我欲なのだ。
人類の進化系たるGEにあるまじき行為と言われるかもしれないが、
(正直やってよかったと思ってるわたしが俗物なのは確実よね)
比呂田弘士、計画のために土下座で迎え入れた悪の尖兵。
気のせいでなければ彼も現状を受け入れ、前向きに協力してくれている。誰かと何かに取り組む、孤独に身を置いた美波に久しく無かった楽しさは余人に理解しがたいだろう。出来れば最後まで付き合って欲しいものだと願っている、彼女にお返しできるものは金銭しかないのだけど。
そしてもうひとり、広井御斗。
圧倒的な悪の暴力に対して怯まず、機械の天使と共に地を駆け、彼女の元に一発の弾丸を送り付けた不良っぽい少年。
ただ、その在り方は悪の打倒というよりも。
(……困った、言語化できない)
自ら埋没を選んだ美波を見てくれた、戦場に赴いてでも見ようとしてくれた感動を表す言葉を天才を超えた神才は持ち得なかった。機密保持のためにこの想いを記憶と共に消去する、賢明なれど孤独を厭う彼女に出来得るはずもなく。
宇佐見美波が選んだのは真正面に立つことだった。GE相殺装置に悪戯を仕掛け、彼にだけ届くメッセージを音にした。
能力でわたしの秘密は聴き取れない、と。その上で
(いいわよ、わたしが何者なのか、暴けるものなら暴いてもらおうじゃないの!)
にんまりと浮かべたわざとらしい笑顔で隠していたのは、心からの微笑み。
才能により孤独に沈んだ少女は悪の権化と為った結果、安寧と希求される喜びを得たからこその破顔。ならばと誓う、彼女は自身の在り様を認めてくれた協力者と共に全力で計画を遂行しきると。
それを阻む意思が勝ちを得たとしても自分は満足できるだろうと確信したが故に。
──この日この時。
宇佐見美波の孤独から始まった人類の未来を左右する戦いは彼女の日常、自身の新たな生き方を賭した青春と化した。
彼女の青春が甘く終わるか苦く終わるか、近い未来のことなのに。
この結末は天才を超えた神才にも計算できないのだった。
【ひとまず終】
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