26 モデル
春香ちゃんの登場のお陰で、俺と日向の間に漂っていたおかしな雰囲気はどこかに消え去った。
正直なところ、助かった。だってさ、さっきのはちょっと微妙な雰囲気だったし。多分俺が泣いてしまって慰めようとしただけだと思うけど、俺が変に意識して日向に居心地悪く思われるのも嫌だしな。
日向が苦笑する。
「井出。春香が騒々しくてごめんね」
慌てていやいやいや、と手を横に振った。
「えっ!? いや、全然! お邪魔してるのは俺の方だしさ! まあ、部室にいる時と雰囲気が全然違ったから驚きはしたけど」
あの勢いは、本当に圧倒された。誰しも内弁慶な面というのはあるかもけど、ああも違うもんなんだ……。
「あいつ、外じゃ相当猫被ってるだろ」
呆れ口調の日向に、俺は共犯のような笑いを含んだ目をして小さく笑い返す。
「うん、だね。女子って凄いなって思った」
「俺もそう思う」
ふふ、と目を合わせて笑った。
それにしても、春香ちゃんの彼氏である相澤は春香ちゃんのあの姿を知ってるんだろうか。相澤は大人しめだから、猫を被ってる春香ちゃんよりも素の春香ちゃんとの方が相性がよさそうだよな、なんて普通に思った。
二人が手を繋ぐ姿を見た当日の俺から考えたら、今のは信じられない考えだ。だけどごく自然にそんな風に思ったところをみると、俺の失恋はもうとっくに癒やされていたらしい。原因は明確だ。
――目の前にいる、この強面の同級生のインパクトがでかすぎたから。
日向が、ちょっとばかり焦ったように言った。
「あ、でもな井出、井出に見せてる俺が俺だから! 兄妹でも違うし、だからその――」
必死に訴えてくる日向がおかしくて、吹き出しながら頷く。
「あは、分かってるって。俺は……どうかなあ。外じゃ目指せ空気してたから、作ってるっちゃ作ってるかもだけど」
すると、日向の片眉が上がった。
「空気? どこが?」
「どこがって、だって俺、存在感薄いじゃん」
俺の返事に、日向は不思議そうに首を横に振る。
「井出には井出のオーラがあるよ。誰とも関わりたくないんだろうなっていう空気は感じてたから、クラスの奴らもあえて話しかけなかっただけだと思う」
「え? 何だよオーラって。俺ってそんなに話しかけづらい雰囲気出してるの?」
日向がこくりと頷いた。
「雰囲気があるって言った方が近い」
確かに、できるだけ目立たず角が立たないように行動することは心がけてるけど、まさかそんな印象だったなんて。それにしても。
「雰囲気って……まさかあ」
そういうのは、日向みたいな人のことを指す言葉だと思う。俺みたいな凡庸な人間に使う単語じゃ絶対にない。
「あるよ。隣の席でずっと見てたから分かる」
「そ、そう? なんか照れるなあ……へへ」
照れくさくなってこめかみをぽりぽり掻いて誤魔化していたけど、ここで俺はひらめいたんだ。今が例の横顔について聞く絶好のチャンスなんじゃないか? ってさ。だって、俺のことをずっと見てたって言ってるし。
上目遣いで、ちょっと疑うような目つきをしてみる。
「日向さ、随分と俺のこと見てる感じだよな?」
「……うん」
素直に認める辺りが日向の日向らしいところだ。この感じなら、俺の問いかけにも素直に答えてくれるかもしれない。
だから、勇気を出して聞いてみた。
「日向ってさ、もしかして俺の絵とか描いたりしてんの?」
「!」
わざとじゃないけど、俺の絵が存在しているのを俺は知ってしまっている。だからこれがずるい誘導な認識はあった。
でも、日向の口からちゃんと聞きたかったんだ。それでまた、日向の隣に座って日向が描く絵を見たい。
言葉を多く交わさなくても、沈黙が続いていても、日向といる時は全然苦痛じゃないんだ。あの穏やかな時間を、また日向と過ごしてみたい。
「……最近の日向の絵、見てないなーって思って」
「う」
明らかに戸惑っている様子の日向を見て、俺に話すかどうかを迷ってるんだと分かった。これはもうひと押ししたらいけそうだと踏んだ俺は、日向のTシャツの袖をツンと摘む。日向が俺のこれに弱いことは、実証済みだ。
「またさ、日向が描くところが見たいんだけど」
ぐ、と顎を引いた日向が、右を見て左を見て、俺をチラ見してから今度は下を見て、唇を噛み締めた。……頑固者め。
ツンツン、と更に袖を引っ張る。
「だってさ、日向が言ったんだろ? 絵に描きたい対象を見ると睨んだようになるって」
「う、うん」
「俺さ、毎日すっげー睨まれてる気がしてるんだよな。でさ、日向も今、俺のことをずっと見てるって言ったじゃん」
「う……」
「てことは、俺のこと絵にしてんのかなって思ってたんだけど、違った? 俺じゃ、モデルには不十分かな」
次の瞬間。
日向がグワッと顔を上げると、身体を前に乗り出して俺の両肩を強く掴んできた。な、なに!? 眉間の皺! 滅茶苦茶寄ってるから!
「モ……っ!」
「モ?」
「モデル、なって、くれるの……!?」
なんと、日向が食いついたのはそこか。
俺はにやりとしながら言った。
「日向が正直に話すなら、モデルになってもやぶさかじゃないぞ」
うっわ俺、なに上からな発言してるんだよ! とは正直思う。だけど、こんなことをしてもまた日向の絵を堂々と隣で見たかったんだ。
日向は眉根をぐぐっと寄せると、低い声で答えた。
「……分かった。白状する。井出のことは、前から描いてた」
「別に隠す必要ないじゃん。それとさ、日向がスケッチブックをすぐに隠すのって何で?」
観念したように、日向が深い息を吐く。
「……勝手に描いたって怒られたり……気味悪がられたら嫌だったから」
「別に怒らないよ」
むしろ見せてほしい。俺は日向の絵を見るのが好きなんだ。何もないまっさらな白い紙に絵が浮き出てくるのを見てると、日向の頭の中にそれが見えてるんだって思えて凄く興奮するんだよ。
「……見ても引かない?」
「引かない」
だってもう見ちゃってるし。
日向はもう一度「ふー」と長い息を吐くと、立ち上がって机の上のスケッチブックを手に取りこちらに戻ってくる。
「これ……井出ばっかり、描いたやつ」
「見ていい?」
「……引かないなら」
「引かないってば」
微妙な距離で差し出されたスケッチブックを、しっかりと握って奪った。ページをめくる。
「……おお、すげ……!」
最初のページに描かれているのは、緊張気味な様子の俺の横顔。髪の毛が今より少し短いところをみると、四月に同じクラスになった時の俺かもしれない。
さっきは驚きながら見たからちゃんと見たのは最後のページだけだったけど、今回はじっくり見ていく。鉛筆のタッチが凄く優しく見えるのに、力強さも感じられた。やっぱり日向の絵には、力がある。
「これ、春の俺?」
「……うん」
バツが悪そうな日向の声は気にしないことにして、次のページをめくった。今度の俺は、真剣な目をしてノートを取っている場面だった。
「あは、必死になってんな、俺」
「うん」
今度は、少し力が抜けた日向の返事があった。次のページは、唇の上にシャーペンを挟んでいる俺の横顔。その次は、頬杖をついてぼんやりと窓の方を見ている俺の横顔だった。
「なんで全部横顔なんだよ」
思わずツッコミを入れると、日向がボソボソ返す。
「……井出の横顔、好きだし」
「ふは、なにそれ」
一枚一枚丁寧に見て、例の笑顔のページまできた。いつの俺だったかは、俺には覚えがない。だけど楽しそうな顔に自然に笑みが浮かんできた。
隣でじっと俺の様子を観察している日向を見上げて、笑いかける。
「俺、この俺好き。滅茶苦茶生きてるみたいですげーって思ってる」
「井出……!」
目を見開く日向。どことなく嬉しそうに見えるのは、勘違いじゃない筈だ。
「今度さ、俺の前で俺を描いてよ」
「……いいの!?」
「モデルってそういうことだろ」
「……うん!」
いつもの仏頂面はどこへやら、晴れ晴れとした笑顔を見せた日向を見て、俺も「くはっ」と破顔したのだった。
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