弓道場・縄・駆ける

冬野原油

三題噺3日目 紫の髪のあなたへ

 薄く開いた口からふぅと息を吐く。腹に力を入れて、肺の中がすっからかんになるイメージ。それから今度は鼻から冷たい空気を取り込む。胸が膨らみきったところで息を止め、外に出たいと圧迫感を伝えてくる空気たちをなだめ、それから、手を開く。

 と、的に弓が突き刺さる。息を吐き、下を向く。帰らなくちゃいけないのは知っている、でもあと一回、もう一回だけと続けているうちにあたりは暗くなり始めていた。下校するよう促す先生たちの声が遠くから聞こえる。高い声の、あれは、クラスメイトの声だ。「またねー」「一緒に帰ろ!」

 帰りたくないな。どうして帰りたくないんだろう。嫌だな。私は一体なにが嫌なんだろう。でも帰らなくちゃ。


 荷物を片付ける手が鈍る。私の腕はこんなに重いものだっただろうか。スマホを見ると、母からの連絡が目に入る。「帰りの時間がわかったら教えてね。今夜は生姜…」既読をつけるのが嫌で、通知を消す。きっとその先は「焼きよ、お腹を空かせて帰ってらっしゃいね」と続いている。見なくてもわかる。呼吸が浅くなるのを感じる。私、私は。私は? 首を縄で締め上げられるような感覚がある。息ができない、できるけどできない、息をせずにいられるのならそうしたい。呼吸をすることすら面倒な私の体がどうして滑らかに動いてくれよう。床に置いたカバンに手を伸ばして腰を折った変な姿勢のままぴたりと止まって動けない。お腹を空かせて帰ってらっしゃい。優しい母だ。優しい、私の、母だ。


 嫌だ。

 

 だけど私は家の反対方向に駆け出す勇気を持っていない。

 帰りたくないな、帰りたくないね。でもそれを声に出したらきっとダメだ。声に出したら本当にそう思ってしまう、私がそう思っていることを私に知られてしまう。知られてはいけない、耐えられなくなってしまうから。何に? 私は何に耐えているんだろう。それも口に出してはいけない。


 高い位置で結えた髪が肩からこぼれて視界に入る。母に似た色の、豊かな髪。

 女の子だもの、髪は大切にしなくちゃね。

「ああ!」

 自分の口から何かが出た。それをきっかけに体が動くようになる。一気に荷物をまとめて校外に駆け出す。全力で走って、苦しくなったところでゆっくりした歩みに変える。帰りた「そのことを考えてはいけない」。


 母に「19時前くらいかな。生姜焼き楽しみ!」と返信した。胸が詰まる感じがして、もう振りほどけないのだと諦めた。

 私は一体、何に耐えているんだろう。

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弓道場・縄・駆ける 冬野原油 @tohnogenyu

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