04.神の暴走と二人の未来1
ドゴはもう一度指で空に円を描くと再びその周囲が歪み始めた。それは広がり、アーフェンが見えている世界がすべて波打ち、次第に形を失い色だけになってもうねり続け、それすらも一色になっていった。
馴れない景色にアーフェンは気分が悪くなるが、それを楽しそうに見ているドゴの顔が気に食わず、口にしなかった。
次第に色が変わり始め、ばらばらになると今度はものの形がはっきりしていった。さっきの逆だと理解する頃には、あの家ではない景色が広がり、こちらを驚いた顔で見ているローデシアンの姿と、大きな寝台のある豪奢な装飾で彩られた部屋へと移り変わった。
「……ここ、か……うっ」
胃がひっくり返ったような感覚に思わず口元を押さえる。空っぽの胃袋から上った胃液に喉を僅かに焼くが、無理矢理押し込んでからアーフェンは寝台へと近づいた。
予想したとおり、真柴が静かに眠っている。
家を出た頃よりも窪んだ瞼。削げた頬。血色の悪い肌に骨が浮き出た身体。
最後に随行した時と同じ姿がそこにあった。
アーフェンは窶れた真柴の頬に触れ、僅かに感じる体温に涙が溢れた。
――生きている。
奥歯をグッと噛み締め、覆い被さるようにして細くなった身体を抱き締めた。
「なっ……なんで……どういうことだ、アーフェン」
ローデシアンの戸惑う声すら耳に入らず、僅かに動く心の臓の音を聞く。
自分の愛した真柴がまだ生きている。それだけでもう充分だ。
「よく頑張った、真柴。もう大丈夫だ」
囁きかけてからゆっくりと放す。名残惜しいが……もっと抱き締めていたいが、真柴にはもう時間は残されていない。冷たくなった指を握り、先端に口付けた。
もう二度と抱けなくてもいい、もう二度と笑いかけられなくてもいい、真柴が生きていられるなら、すべてを捧げよう。
立ち上がったアーフェンは真っ直ぐにドゴを見た。アーフェンが木を削って作った椅子に座っていたはずなのに、部屋に見合った豪奢なものへと変わっているが、変わらず足を組んで頬杖を突いたまま、こちらを見つめていた。面白そうに。
「おい、早くしろ。このままじゃ死んじまう。早く俺の命を真柴にやってくれ」
その一言にハッとしたのは、まだ状況を読み込めていないローデシアンだった。何度もアーフェンとドゴを見て、それから真柴を見つめた。
「命を移せるのか……ならば、私の命を使うべきだろう」
アーフェンとドゴの間に立ちはだかった。
「誰かは存じ上げないか、私の命を使ってくれ。聖者・真柴をこのようにしたのは他でもない、私だ。私の命を使ってくれ」
「二人分はいらない、一人で充分なんだけど。どっちか決めてくれる? できるだけ早いと良いな……今夜が峠だからさ」
「私の命だけを使ってくれ。目が覚めたときに愛するアーフェンが死んでいて、それが自分を生かすためだと知れば、聖者・真柴は絶望することだろう」
「そうなんだよな。最悪なことに、あんな酷いことをした相手を好いちまうなんて、この上なく不幸で不憫だよ、この子は」
ドゴも立ち上がり、窶れた真柴の頬を撫でようとしたが、手を止めてただ慈しむように見つめた。
「あんたら両方から半分ずつってのができるなら良かったんだけどさ、いくら俺でも摂理に反することはできない。だからどっちか決めてくれ。でなければ代わりの奴、連れてきてくれ……今夜中に」
「代わりなんて必要ない。お前もそう思って訪ねてきたんだろう。俺の命をやるって言ってるんだ、さっさとしろ。こんなやりとりしてる間にこいつが死んじまう。カナリオ先生、すまないが後のことは頼んだ」
ローデシアンを押しのけ、ドゴの側へと行く。もう一度真柴の声を聞きたいが、もう一度この気持ちを伝えたいが、それよりも彼を生かしたい。
「もう二度と力を使わなくていいようにしてくれ、頼む」
「私に頼むんじゃない、お前自身が頑張るんだ。聖者・真柴がどれほどお前に心を寄せているのか分かっているのだろう。お前は生きてくれ。太子が無事な今、もう私はいない方が良いのだ」
「何言ってんだよ。あんたは騎士団を今以上によくする責任があるだろう。贖罪もせずに死のうなんて俺が許さねーよ、カナリオ先生」
王妃との密通により、騎士団がどれほど苦い経験をしたことか。例え王の判断だとしても、巻き込まれた団員はたまったものではない。今は武具が充実して魔獣の討伐も随分と楽になったが、それまでは本当に命を賭す覚悟で向かわなければならなかった。
傷ついたもの、もう二度と立てなくなったもの、死んでいったものたちの償いをしなければならない、ローデシアンは。すべてから逃げるなど、絶対に許さない。
アーフェンはギッとローデシアンを睨めつけた。そのままドゴに声をかける。
「早くしろ、時間がないんだ」
「その心意気、好きだぜ、元副団長さん。じゃあやるよ」
ドゴは目を瞑り両手を広げた。胸元が光り、次第に大きくなって部屋を飲み込んでいく。目が痛くなるような眩しさは、朝陽に包まれたときのように心地よい。アーフェンは目を閉じ、寝台にある真柴の手を握った。
(お前だけは、生きてくれ。苦しまずに生きてくれ……俺のことを忘れて……)
でもアーフェンは忘れない、この気持ちを抱いたまま朽ちずにずっと真柴が幸せになっていくかどうかを確かめるために、草葉の陰から見守ろう。
ゆっくりと身体から力が抜けていくのが分かった。最後にと一瞬強く握り、「愛している……さよなら」と心の中で囁きかけ、意識のある限りは握っていたが、力が抜け一本、また一本と指が落ちていく。もっと触れたいのに、もっと彼の体温を感じたいのに、離れていく。
「ま……しば……」
もう喉を震わせることもできないが、僅かに動いた唇で彼の名を紡いだ。
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