04.病気のない世界1

「やっぱり落ちが悪いな……みんなどうやって洗ってるんだろう」


 井戸から汲んだ水で鍋や皿を洗うが、ちっとも汚れが落ちずにいる。神殿の食堂で使っていた皿はもっと綺麗に脂気がなかったのに、どうして自分で洗うとこんなにもベタベタするんだろう。

 真柴は溜め息を吐いて木製の皿を積み重ねた。同様にカトラリーも綺麗にならない。


「どうしたんだ。辛いなら俺がやる」

「違うんです。どうしてこんなにも綺麗にならないんだろうって思って……洗剤があったらもっと綺麗になるのに……」


 皿洗い用のボロボロの布をたらいの縁に掛けて洗ったはずの食器をもう一度見た。どれもうっすらと油汚れの膜に覆われている。ひどく不衛生で、こんなのを使い続けたら絶対に病気になってしまう。


「センザイってなんだ?」


 アーフェンが不思議そうに慣れない言葉を口にした。


(ああそうか。まだ石けんもないから洗剤なんて存在しないのか)


 日本でも米ぬかで茶碗を洗っている頃だろう。

 十三世紀頃のヨーロッパは水洗いか灰か……。


「洗剤というのは綺麗に食器や服を洗うものなんです。それがあれば食器もナイフもフォークも肉の脂を綺麗に洗い流せるんです。僕のいた世界では病気にならないように綺麗に洗うようにしているんですよ」

「……ビョーキってなんだ?」

「え……?」


 信じられないことを言われ、真柴は言葉を失った。この世界にだって当たり前のように病気になるだろう。衛生観念が低いから食器や服もそれほど頻繁に洗わないし、汚れた手でも気にせず食事をする。どんな感染症が広がってもおかしくないのに……。

 もしかして違う言葉なのだろうか。

 今まで固有名詞が通じないことが多くあったから、そのせいかもしれない。


「あの……腐ったものを食べてお腹が痛くなったり、急激に寒くなって咳をしたり熱を出したり……それの総称を僕の世界では『病気』というんですよ」

「腹が痛くなる? 熱が出る? それは全部瘴気のせいだろう。瘴気を放つ魔獣に出会わなければならないから安心しろ。皿に油があったところで問題ない」


 病気が……ない?

 どういうことだ?


「あの……みんなが同じ症状でどんどん亡くなることってこの世界にはないんですか?」

「なんだそれは。新手の魔獣か?」


 真柴はぽかんと口を開けたままなにも言えなくなった。

 病気が存在しないなら衛生を気にしなくていいということなのだろうか。あまりにも理解が追いつかなくてどうしたら良いのか分からずじっとアーフェンを見つめた。

 アーフェンも戸惑い、しゃがんでいる真柴の横に腰を落とす。


「お前がいた世界にはその……ビョーキというのがあって、それを防ぐために食器を綺麗にしたいんだな。それは分かった。だがこの世界はそれがない、だからそこまで気を張らなくていい」


 困った顔で子供に教えるような優しい言葉を並べたアーフェンは、どうすれば良いのか分からないと困っていた。けれど、あまりの衝撃にすぐに笑顔になんて戻れない。

 だって、病気は当たり前のように身近にあったのだ。特に中世ではそれで多くの人が死に、病に怯えて暮らすのが当たり前だったから。冬になればインフルエンザが蔓延り、夏になれば食中毒を気にし、日常生活の中で当たり前のように病気を気にして生きてきた。


 風邪を引いただけで自己管理がなっていないと怒られるのが当たり前の世界で生きてきた真柴には、病気がないことがすぐには受け入れられない。

 本当にないのか?

 かつての日本で病は悪鬼が宿ったからと念仏を唱えてそれを払うのが治療と信じられていた。その延長だろうか……。


「あの、瘴気というのを浴びた場合、どんな風になるんですか?」

「そうだな。軽ければずっと腹を下すくらいだが、あちこちが痛いっていう奴もいる。ひどいと起き上がれなくなって飯が食えずに死んでいく。どの魔獣に遭遇するかによって変わるな」

「年齢によって差はあるんですか?」

「年寄りや子供が瘴気を浴びるとひどくなる。死んじまう場合が多いからあまり魔獣が出る森に行くなってなってるぞ」


 もしかしたら、この世界では魔獣が病原菌のようなものなのだろうか。

 だとしたら、どんなに身の回りのものを綺麗にしようと関係ない。

 気が抜けた真柴はペタンと尻を地面に付けた。

 時間ができたら石けんを作ろうだとか、衣服を綺麗にするための洗剤もあったらいいとか考えていたが、どれ一つとして無意味だったのか。


「あは……あはは。そっか……」


 気が抜け地面に座ったまま乾いた笑いが零れ出る。

 別の世界に来たなら何かしら自分の知識が役に立てるのではと期待したが、ここでもやっぱり自分はお荷物でしかない。

 真柴が特別になれる場所なんてありはしないのか。一瞬でも自分の知識で多くの人を助けられると勘違いしたことが恥ずかしくて、思い上がっていたことが情けなくて、どこかに埋まってしまいたい。


「どうしたんだ、何かあったのか!?」


 ――違うんです……自分のバカさにいい加減呆れただけです。


 心の中で返事をして浮かんでくる涙を濡れた手で拭った。

 本当に救いようがない愚か者だ。

 アーフェンに慰められて得られた自信がまた一気に消失していく。


「僕って本当に役立たずだなって……。向こうで得た知識なんて本当になんの役にも立たなくて……なんのためにここに来たのか分からなくなりました」


 討伐でも倒れてばかりですぐに体調も崩し寝込む。これではアーフェンに迷惑をかけるだけの人間でしかない。何一つ自分に自信が持てずまたじわりと涙が湧きあがった。

 無意味な自分がいて、意味があるのだろうか。


「お前は……役立たずなんかじゃない。充分に民のために頑張った。己を卑下にするな、もっと自信を持て」

「ベルマンさんは優しいからそう言うんです……でも僕は本当に役立たずで……あのまま死ねば良かったんだ……」


 ほろりと零れ落ちた本音。

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