自問

月峰 赤

何者なのか

 人間は僕を愚弄する。家族も、友達も。

 なら、僕を助けてくれる存在はどこにあるのだろう。少なくとも、人間の中にはいないような気がする。

 世界中の人に出会うのは不可能なこと。けれど分かる。僕は人の中でも特別に醜くて、哀れで情けなくて、救いようのない人であるのだから。そんな人を誰が助けるのだろう。だれも助けはしない。そんなことをして得なんて一つもない。

 人が人を助けるのは自己満足だ。好かれたいとか感謝されたいとか、助けた相手から良く思われたいと願う一心で人助けをする。もしそうでないのなら、人助けをしたいと思う自分の心を満たすための道具にしているに過ぎない。それは決して優しさではない。何十にも巻かれた負の集まりで出来ている。それは一つの才能でもあるのかもしれないが、そんな才能は必要ない。誰かを傷つける。惨めにする。全てを奪って自分の糧にする。

 そんな奴らのためにこの僕は堕とされた。堕ちたならまた這い上がればいいと言う。だけどどこから? 周りは真っ暗で、光なんてないから動きようがない。右も左も分からない。まるで僕の心のうちを表しているみたいだ。

 

 どこにも道なんてない。あるのはどこに行ったって同じ闇を彷徨う空しさ。かすかに見えていた光も、今ではその存在が嘘のように思えた。もう二度と光をこの身に受ける事など出来ないのだ。そんな資格はないと言われている様な気がした。

 けれどそれに立ち向かう勇気も力も知恵も無かった。

 僕はとうとう自分でも人であることを辞めようとしているのかもしれない。

 そもそも人であるということがどういうことなのかを詳しくは知らない。二本足で歩くことではない。喋ることでもない。それだけでいいなら僕だって人である。人であるということは何かを創れるということであろうか。歴史を、時代を、象徴を。物理的なことから非現実的なことまでなんだっていい。自分で考え、それを忠実に創作することが人間の第一条件であるのかもしれない。

 それなら納得だ。僕は何も創り上げちゃいなかった。せいぜい他人を落ち込ませることだけで、しかもそれは無意識なことであったから創るなんていう高尚なものとはかけ離れていたし、今の自分がそんなものに関わるなんて不可能だった。一人で何が出来る?しかもこんな誰の助けもない暗闇の中で。

 叫んだら聞こえるのだろうか。そうして返してくれるのだろうか。僕の一番聞きたい言葉を。忠実に。

 

 僕が作れるものとは何か、想像するだけはしてみても、なかなか上手くは行かなかった。一人ということを言い訳にする以前に、個人という点で僕は著しく劣っていた。特技も無い。誇れるものも無い。自分が今まで生きてきた証さえ、この世には存在しない。

 人が、生きた証を残す唯一の方法は、誰かの記憶に存在し続けること。僕は誰かの記憶の中に存在しているのだろうか。


 シャー・デリー。

 僕の名前は僕だけは忘れてはいけない。誰も知らない今、せめて自分の中だけでは、自分を殺すことだけはしてはいけないのだ。

 運命を憎まず、人を憎まず、時代を憎まず、なにより自分を憎まずにいなくてはならない。そうすれば、きっと、この闇から抜け出せる日が来るかもしれない。

 長い戦いかもしれない。どうして自分だけがこんな目に遭うのかと悲観的になるかもしれない。不安と緊張に負けて、闇に飲まれるかもしれない。でも忘れてはいけない。光があるから、闇があるということを。闇はいずれ光へと変わるということを。時間が掛かっても、それは絶対に間違いのないことなのだ。そうじゃなければ、この世に人なんて、生き続けられないのだから。

 

 そのことを信じられただけ、僕は幸せだった。辺りの闇が急に色を変えた。けれどそれは光じゃない。目を閉じなければいけないほどの聖なる明星が現れたわけではなく、感覚では上のほうから。光が差し込むように、一層深い闇が射していた。

 黒でも違う黒。どうしてそんなことが起きたのかは分からない。だが何かが変わった。それは大きな変化であったことは間違いなかった。闇の中に希望を見るだなんて思わなかった。

 それはやがて帯のように辺りを駆け巡った。僕の体にまとわり付き、次第に体へと馴染んでいく。恐怖を感じることはなかった。振り払おうとも、誰かに助けを求めようとも思わなかった。なすがままに体を預けるのが当然だと納得した。

 僕がどうなるのかなんて誰にも分かるはずがなかった。元々は光を浴びることが生きることでもあった人なのに、今はそこから一番遠い場所に存在している。それは人から一番離れた存在になるということかもしれない。人は人でなくなったのならどうなるのか、そしてそれはそのまま僕のこれからの道であることは確かなことだった。

 気付けば帯の感覚は無くなっていた。力を込める手からは何も感じ取れなかった。他にも何か変わったことは何もないように感じられた。

 

 そのとき、闇に閉ざされた僕の目にたくさんの光景が映し出されていった。機械的に流れていく遠い過去の記憶を、僕は自分とは無関係のものを見る目で眺めていった。そのほとんどが辛く苦しいものばかりだった。その中のたった一つだけに、僕の目は意識を取り戻した。それは僕が生きた証になるものだった。僕がまだシャー・デリーと呼ばれていた頃の光の物語で、人でいることが出来た救いの瞬間だったと思う。

 だが光は闇に消え、それは同時に僕が僕であることを失わせる引き金になった。意識が昇華していく。ここからきっと抜け出せる。這い上がって、どこかにたどり着く。

 僕ではない僕が、僕として。

 

 周りの闇が小さくなっていく。というよりも、闇が僕の中に入ってくるような気がした。体の中で僕の最後の光まで奪っていくような気分に、少しだけ気だるさを感じた。それは僕が感じた、人としての最後の感情だったと思う。

 闇の全てを抱きしめる頃、僕は完全に人ではなくなっていた。具体的にどうというのは自分では分からない。ただ誰の目にも映らない何かが、いつかの自分に対してより深い嫌悪感を抱いているのははっきりと分かった。

 何に悩んでいたのか、何に疲れていたのか、もう忘れた。今の自分はそんなちっぽけなことを気にする必要はない気がした。

 

 暗黒の闇が晴れても、周りは闇だった。ただ一つ違うのは、遠くに光が点在していること。どうやらここは高いところにあるらしい。光を見るには目線を下げなくてはいけない。どうやら街らしかった。小さく何かが動いているのは人のようで、それ以外には近づかないと判別が難しかった。

 

 歩き出そうとした。けれど背後で気配がしたのに、僕は気がついた。今までに感じたことのない視線が向けられている。どうしてそう思うのかは自分でも分からない。けれど恐怖は感じない。それどころか妙な親近感さえ沸いてくるほどだ。

 ゆっくりと振り向く。目の前には暗闇が広がり、そこで初めて周りが木々で覆われた森の中だということが分かった。夜風に枝葉が揺れている隙間から、その視線は注がれていた。

 視線が交わったのか、こちらに近づいてきた。次第に体躯がはっきりとしてくると、それは人間だった。しかしただの人間にしては不思議な感覚だった。

 まるで恐怖を感じていない。待っていたというように真っ直ぐに歩みを進める。

 雲の間から月光が注がれる。そこに照らし出されたのはしわがれた老人。背中を丸め、腕は後ろに組んでいる。はっきりとした黒い目は矢のように鋭く、口元はわずかに微笑んでいるようにさえ見えた。

「素晴らしい」

 突如開かれた口から感嘆の言葉が漏れる。

「身も、心も、まだ人と同じであるとは……。クックックッ、待った甲斐が会ったぞ」

 虚空の闇に笑い声が消えていく。

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自問 月峰 赤 @tukimine

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