第十六話 『人魚鬼リヴィアス②』


 俺はその瞬間、オークに変身した。

 ぶ厚い筋肉と獣のような吠え声を得た俺は、渾身の力で咆哮を上げた。


「ウォォォォォ!!」


 しかし、【人魚鬼リヴィアス】は一切ひるむことなく、冷徹な眼差しで俺に氷の矢を連続で放ってきた。

 鋭い刃のような氷が空気を切り裂き、俺の周囲を埋め尽くす。


 それでも俺は叫び続けた。


「ウォォォォォぉぉ!!!」


 力強い豚のような足で地面を踏みしめながら、俺はなんとか攻撃を避けようとしたが、反応は鈍く、次々に氷の矢が俺を襲う。


 氷の矢の一射が、俺の腕に突き刺さった。

 冷たい痛みが走り、呻き声が漏れたが、それでも叫び続けた。


「ウォォォォォ!!!――うっ」


 戦場の中で、俺の叫びと氷の矢が激しく交錯する。

 その喧騒の中、俺はひたすら声を張り上げ続けた。

 オークの力強い咆哮が響き渡り、自分の存在をこの迷宮の中に刻み込む。

 ベルタとユリシアに、俺がここにいることを知らせるためだ。


 そう、俺は一人ではない。

 ここには仲間がいる。

 もしベルタがこの迷宮にいるなら、きっと俺を見つけて助けに来てくれるに違いない。


「ウォォォォォ!!」


 十分だろう。

 次の段階に移る時だ。

 俺は詠唱を唱え、瞬時にスプリントウルフに変身した。


 今度の作戦は、ひたすら逃げ続けることだ。

 リヴィアスの元へ近づくのは無謀だと判断した。

 だからこそ、ベルタが来るまでの間、ただひたすらに逃げ続ける。

 これは、俺の冷静な分析と効率的な戦い方の結論だ。


 スプリントウルフの俊敏な足は、氷の矢を簡単に避け、迷宮の影に身を隠すことができる。

 そして俺が姿を消すと、リヴィアスは攻撃を止め、胸元に集めていた水をゆっくりと解き放つような動きを見せた。

 次の瞬間、辺りに霧が立ち込め、視界がどんどん悪くなっていく。

 彼女は水を霧状に変え、この空間を濃密な霧で覆う技を使ったのだ。


 視界が一瞬にして閉ざされ、濃霧が辺りを支配する。

 スプリントウルフの姿で身を屈めた俺は、動きを封じられていた。

 どうすればいい?

 ここからどう動く?

 それとも、動かない方がいいのか?

 そんな考えが頭の奥に湧き上がり、答えのない迷路に迷い込んだかのような錯覚に陥る。


 しかし、考える暇さえ与えられない。

 氷の矢が風を切る音が、濃霧の中で冷たく響き渡る。

 それは目には見えないが、肌で感じる、確かな死の予感。

 音を頼りに、俺は瞬時に身を翻した。

 辛うじて矢を避けることができた。

 だが、安堵の息を吐く間もなく、俺の心は再び緊張に包まれる。


 人魚鬼リヴィアス――あの忌々しい人魚鬼は、この濃霧の中でも俺の位置を完全に把握している。

 彼女の冷酷な追撃は、決して鎮まらない。


 俺は、まさに万事休すの状況に追い込まれていた。

 このままでは、霧の中でただの標的となる。

 蜂の巣にされる運命が待っている。

 次の瞬間、背後から放たれた氷の矢が俺を襲った。

 反応が遅れてしまった。

 そして、氷の矢は俺の右後ろ脚を容赦なく貫いた。


 脚に走った鋭い痛みが、逃げるための瞬発力を容赦なく奪っていく。

 それでも、諦めるにはまだ早い。

 希望は微かだが、消えてはいない。

 今はただ、生き延びるための策を見つけ出すしかない。


 

 ――ドン……ドン……ドンドン……。


 突然、不気味な振動が足元から伝わり、次第に激しさを増していく。


 ドンドンドンドンドン……。


 鼓膜を打ち鳴らすような轟音が迷宮の壁を揺るがす。

 同時に恐怖を掻き立てる。


 何かが迫ってきている――圧倒的な力で壁を破壊しながら、無慈悲な突進音が空間を支配する。

 地鳴りのような音が連続する。

 すると粉塵が舞い上がる。

 壁が崩れるたびに恐ろしい音が響き渡る。

 その音の波が、まるで怒涛のように押し寄せ、辺り一帯を覆い尽くす。


 壁が激しく崩れ、その破片が重い足音と共に四方へ飛び散る。

 その音の洪水が迷宮を震撼させ、そして――次第に霧が晴れていく。

 まだ視界が完全に開ける前。

 俺はなんとなく直感した。

 

 助け舟が来たと。


「目を閉じてごらん、ユリシア」と静かに囁く。

 やがて《外見変化》の力を再び使う。

 オークの姿に変えると、暗闇に足音が響き始める。

 巨大な影の数々が迷宮に入り込む。

 数え切れないほどのオークの群れだ。

 俺はその軍団を歓迎するように、共に声を上げた。


「ウオオオオオオオオ!!!!」


 怒号が迷宮に反響し、オークの軍団も呼応して声を張り上げる。

 そして、軍団はリヴィアスに向かう。

 一斉に手にした斧を放ち始めた。


 この作戦は、慎重な分析の末に導き出された俺なりの結論だ。

 俺は、対人戦ではリヴィアスに勝てない――それが俺の判断だった。

 だからこそ、最初にベルタの助けを求めるために叫んだ。

 俺はここにいるのだと。

 しかし、それだけのために叫んだのではない。

 同時にオークの持つ特性――仲間を呼ぶ遠吠えの力を利用したものなのだ。

 地下からその声が届くかは半信半疑だったが、どうやらその声は確かに届いたようだ。


 こうして、激烈な撃ち合いが始まった。

 リヴィアスの冷酷な瞳が閃くと、彼女の手元から鋭い氷の矢が次々と放たれた。

 それらは、まるで凍てつく風のごとく、オークたちの間を切り裂いて飛び交う。

 しかし、オーク軍団も怯むことなく、手にした斧を力強く投げ返す。

 斧は空を唸りながら飛び、リヴィアスの周囲を乱打した。


 リヴィアスは、空中を泳ぐように軽やかに身をひるがえし、次々と斧の攻撃をかわしていく。

 しかし、その一方で、オークたちの攻撃は次第に数を増し、彼女の逃げ場を次第に狭めていった。

 彼女の冷たい表情が微かに緊張に染まり、再び氷の矢を放つ。

 それが、今度はオークたちも冷静にその軌道を見極めて回避する。


 ついに、オーク姿の俺が放った斧がリヴィアスの腕を捉えた。

 彼女の細い腕に傷が走る。

 血のように冷たい氷のかけらが散った。

 だが、それでもリヴィアスは怯まない。

 傷口を気に留めることなく、再び矢を放とうと構える。

 だが、もう為す術もない状況に彼女はいた。

 さらなる斧が雨のように降り注ぎ、彼女の逃げ道を完全に断ち切った。


 リヴィアスは動きを封じられ、空中に漂う姿のまま身動きが取れなくなった。

 オークたちはその好機を逃さず、斧を投げ続ける。

 次々と放たれる斧が、リヴィアスの周囲を包囲するように飛び交う。

 ほぼイジメだ。

 そして、ついに彼女の防御を打ち破った。

 

 最後の一撃が決まった瞬間、リヴィアスは苦しげに叫びを上げ、そして身体が霧散するように消え去った。

 同時に、オークたちは勝利の雄叫びを上げた。


「ウォォォォォ!!」

 

 冷たくも激しい戦いの末、我らオーク軍団は、ついに【人魚鬼リヴィアス】を打ち倒すことに成功したのだ。


 そして、オーク軍団との別れの時がやってきた。

 まるで文化祭の打ち上げが終わる時のような軽いテンションで、俺たちは別れを告げた。

「お疲れさま!」とでも言わんばかりに、オークたちは去っていった。


 全てが終わり、俺は冷静に戦況を振り返った。

 無駄な動きはなく、分析も的確だった。

 うまくやれた、と思う。


《性格: 自信家→冷静……シフトチェンジしました》


 だが、何より気になったのは、この牢屋に閉じ込められていた女だ。

 リヴィアスを倒したことで、氷の牢屋も消え去った。

 彼女はなぜこんなところに囚われていたのだ――そんな疑問が頭をよぎる。


 俺は彼女に歩み寄り、優しく声をかけた。

「立てるか?」と。

 しかし、オークの姿では彼女を怯えさせてしまうだろうと考え、再びルクセリオの姿に戻る。

 すると、彼女は俺の顔をほっとしたように笑みで見た。


「ありがとうございます!」

「いえいえ、とりあえずここを出ようか」

「はい!」


 彼女の手を取り、立ち上がるとその足元に何やら一冊の書物が埃を被って置かれていた。

 表紙には何も書かれておらず、その内容は見当もつかない。

 しかし、何か重要なものかもしれない――そう思い、俺はその書物を手に取って持ち帰ることにした。


 オークによって崩壊した空間に、ベルタとユリシアが駆け込んできた。


「いましたよ、ベルタさん!」

「そうみたいね」

「って怪我してるじゃないですか!」


 ユリシアはすぐさま俺の脚に目を留め、その怪我を診るために跪いた。

 その時、彼女の視線がふと隣の女性に向かい、不思議そうに問いかける。


「この方は……?」

「えーっと、彼女も俺と同じく落とし穴に引っかかってたみたいなんだ。」


 ユリシアは心配そうに女性を見やったが、その瞳にはどこか呆れの色が混じっていた。

 俺の女癖に呆れているのだろう。

 ユリシアの勘違いにも困ったものだ。

 まったく。


「なんとなくわかったかしら?」

「え?何がですか……?」

「感情に流されないことよ~。上手く出来てたじゃない」


 ベルタが意味深に口を開いた。

 その言葉に俺はハッとした。

 確かに、あの瞬間、感情に流されず冷静でいられた。

 状況を分析できた。

 敵の動きを見極めることができた。

 自分の能力を冷静に使うことができた。

 戦略を立てて、戦うことができた。

 なんだか、今日は色々と上手くいった。

 

「どこから見てたんですか……」

「ヒ・ミ・ツ」


 ベルタが俺の内面まで見透かしているかのようなその言葉に、少し背筋が凍るような思いを感じる。


◇◇◇

 

 やがて、俺たちは水の迷宮を出ることにした。

 そして迷宮で捉えられていた女と別れる時が訪れた。

 少しばかりの期待を胸に抱いていたが、特別な言葉を交わすことなく、彼女は去っていった。

 しかし、その別れ際に彼女は振り返った。

 深い意味もなく、自然に。

 まるで何も無かったかのように軽やかな声でこう言った。


「またね、煌くん!」








 

 え?

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