第十四話 『無駄な動き』


「いい、二人とも?

迷宮での戦いは普通の戦場とはまるで違うのよ」

「そうなんですか?」

「迷宮ではただ力任せに戦えばいいわけではない。

戦略がすべてを決めるの」


 ベルタの言葉には冷静な確信が滲んでいた。

 いくら強大な力を持っていようと、戦略がなければ迷宮の攻略は不可能だと断言する。

 その意味を理解するように、ユリシアは思案顔でうなずいた。


 階層が深くなるにつれ、魔物たちの魔力量は増し、その力も際限なく高まっていく。

 つまり、迷宮を進むたびに、彼らとの戦いはますます熾烈を極めるのだという。


「だからこそ、無駄な体力を消耗する魔法や全力を出し切る戦い方は避けるべきなのよ。

最初から無駄な力を使っていては、肝心の局面で立ち行かなくなるわ」


 ベルタの言葉が重く響いた後、ユリシアはふと何かを悟ったように、明るい声で口を開いた。


「だから、まだロックス迷宮には挑戦しないのですね!」

「そう! あなた、やっぱりイシアよりもよっぽど優秀ね」


 どういうことだ?

 一瞬で繰り広げられた会話についていけず、俺は困惑していた。

 だから、ロックス迷宮に挑戦しない?

 なぜに?

 表情に出ていたのか、ベルタが俺に向き直り、わかりやすく説明してくれた。


「戦略は、迷宮に入る前からすでに始まっているのよ。

ロックス迷宮は他の迷宮とは違い、未だ誰も攻略していない未知の領域。

無策で突っ込んでも、成果を得ることはできないわ」


 俺は反論する。

 

「でも、ベルタさんも無策で突っ込んだって言ってたじゃないですか?」

「ええ、確かにそうね。

でも、あの時は本気で挑んだわけじゃないの。

実際に目で確かめておきたかっただけ」

「なるほど……それで結局、迷宮に入る前から戦略が始まっているって、どういう意味ですか?」


 ベルタの唇に微かな笑みが浮かんだ。

 彼女の目が、遠くを見つめるように鋭く光った。


「それはね、欲望に突き動かされた冒険者たちに先陣を切らせるってことよ。

彼らを突っ込み役にして、私たちはその結果を観察し、勝利のための道筋を見極めるの。

愚かな者たちを利用するのも、立派な戦略の一部ってこと」


 面白い考えだと思った。

 ベルタの言葉には冷酷な計算が滲んでいた。

 彼女の考え方は、冒険者の理想像を逸脱している。

 しかし、どんなに危険な迷宮であっても、ベルタはただの力任せではなく、綿密な戦略を持って挑んできた。

 その冷徹な判断力が、彼女を生存者として、そして強者としてここに立たせているのだろう。


「なるほど……だからまだロックス迷宮には挑戦しないんですね」

「そうね……でもあなたたちの訓練も必要だからってのもあるわ」


 ちなみに、迷宮が戦略の要を成すもう一つの理由がある。

 それは、迷宮というのは密閉された空間だからだ。


 広々とした平地での戦いなら、魔物に出くわしても逃げ道は多い。

 全速力で駆け出せば、たやすく魔物の追跡を振り切ることもできるだろう。

 しかし、迷宮のように閉ざされた空間では、その選択肢は存在しない。

 狭い通路と壁に囲まれた中では、逃げるという選択肢は限りなく小さくなる。

 ここでは一度足を踏み入れれば、退路はほとんど断たれたも同然だ。


 だからこそ、迷宮に挑む際には、しっかりとした戦略が不可欠なのだ。

 無計画に踏み込めば、逃げ場のない密閉空間でただの餌食になるだけだ。

 生き残るためには、知恵と計画が命綱となるのだ。

 

◇◇


 そんなわけで、俺たちはかつて数多の冒険者たちに攻略された迷宮へと足を踏み入れた。

 砂漠の中に佇む、その名も「水の迷宮【オアシスの泉】」。

 信じられないことだが、砂漠のど真ん中に、水の迷宮が存在するというのだ。

 ベルタの話によると、【人魚鬼リヴィアス】という人魚はこの迷宮の最下層を支配していた伝説の存在であり、その恐怖は迷宮を訪れる冒険者たちの間で広く知られていたらしい。


 彼女は、美しい人魚の外見を持ちながらも、その本質は恐ろしい鬼の力を宿している。

 リヴィアスの青白い肌は、まるで月の光を浴びたかのように淡く光り、その長い青色の髪は水中でたゆたうように揺れる。

 しかし、その魅惑的な外見に惑わされる者は多く、彼女に近づく者は誰もがその鋭い牙と鋭利な爪に引き裂かれてきた。


 リヴィアスの力の源は、彼女の美しい歌声と、強力な水魔法だと言われている。

 彼女の歌声は、心の奥底に潜む恐怖を呼び起こし、冒険者たちの精神を蝕む。

 さらに、彼女は水を自在に操ることができ、迷宮内の水流を逆巻かせて敵を飲み込み、または氷の矢として飛ばすことができる。

 ただ、ここ数年、この水の迷宮で【人魚鬼リヴィアス】を目撃した者はいない。

 かつて恐怖の象徴であった彼女の姿が消えたことで、この迷宮は牙を失い、今では俺のような迷宮初心者にとって絶好の訓練場となったというわけだ。


 迷宮の入り口は、小さなオアシスに隠されるようにして青く輝いており、灼熱の砂漠と対照的に、その涼やかな雰囲気に足を踏み入れただけで身体中がひんやりとする。

 最初は心地よかったが、進むうちにその冷たさがじわじわと不快感へと変わっていった。

 迷宮の床は水浸しで、歩くたびに水音が響き、次第に気持ち悪さが募る。


 壁や天井には、絶えず水が流れ、複雑な模様を描き出している。

 その淡い青色の光が迷宮全体を柔らかく照らし、まるで昼間のように明るい。

 だが、その光がどこから来ているのかは不明で、何とも言えない不思議な感覚に囚われる。


 ベルタの言葉が頭をよぎる。

「効率的な戦い方が重要だ」と。


 迷宮の一階層目は、想像以上に静かだったが、その静けさを破るように、小さな魔物たちが次々と現れた。

 主な敵はポイズントードと呼ばれる毒を操るカエルだ。

 見た目は小柄でかわいらしいが、その毒は侮れない。


 俺は剣を握り締め、心の中で冷静さを保つように言い聞かせた。

 イシアとの厳しい訓練で磨かれた剣技がレベル十八に達していることを思い出すと、自信が湧いてきた。

 ここで力を無駄に使うべきではない。

 ベルタの教えに従い、体力を温存しながら敵を片付けることに決めた。


 一匹目のポイズントードが跳ね上がり、毒液を吐きかけてくる。

 その動きは予測通りだった。

 俺は冷静に一歩下がり、その場で回避しながら、反撃の一太刀を振り下ろす。

 剣がカエルの薄緑色の皮膚を一瞬で切り裂き、毒が地面に飛び散る。

 倒れたカエルを見下ろし、俺は一瞬の油断もなく次の敵に目を向けた。


 二匹目、三匹目と次々に現れるカエルたち。

 剣を振るたびに、鮮やかに斬り裂かれた魔物の体が宙を舞い、無駄な動き一つせずに次々と倒していく。

 俺は汗を感じることもなく、ただ冷静に戦場を制していた。


 ベルタが再び言葉をかける。


 「その調子よ。それが効率の良い戦い方よ」


 俺は小さく頷き、剣を振るい続けた。

 目の前の敵は雑魚だが、油断は禁物だ。


 二階層目へと続く階段を難なく見つけ、さらに深奥へと進んだ俺たちが、ついに三階層目にたどり着いた。

 その瞬間、視界を覆ったのは、ただのミミズなどとは比べものにならないほどの巨大な怪物――マッドワームだった。


 その姿は、あまりにも醜悪で、ただ見ているだけで嫌悪感を覚える。

 俺だったら、冒険者からもその姿を見られたくない。

 やつの蠢く体躯はうねり、濁った瞳が俺たちを狙っている。

 その瞬間、ベルタの冷静な声が響いた。


「こんなやつ、ただの気持ち悪いやつだから。とにかく、冷静に」


 同感だ。

 ユリシアはすぐさまヒールを構える。

 が、俺はそんな心配を必要としないと自信を持っていた。

 そして、一丁、彼女に俺の強さを見せつけて惚れさせようと考えた。


「見てろよ!」


 まずはアーマードゴーレムへと変化し、その鋼鉄のような体でマッドワームの凶暴な攻撃を受け止める。

 鋭い牙が食い込んできたが、俺の防御は完璧だった。

 次にスプリントウルフへと素早く変化し、その俊敏さで一気に間合いを詰める。

 そして最後の一撃を放つためにオークへと変わり、強力な平手打ちでとどめを刺した――その瞬間だった。


バチンッ!


 鋭い痛みが頬に走る。

 振り向けば、そこにはベルタの怒りを込めた瞳があった。


「痛っー!」

「やっぱりバカね。冷静に、と言ったでしょ」

「えー! いま、冷静でしたよ!!」

「本当に〜?? ユリシアちゃんの前だからってカッコつけてやるって気持ちがあったように見えたんだけどな〜」


ギクっ。


「そ、それは、どうですかねー」

「それに、全く効率が悪すぎるわ。体力の消耗が激しすぎる」

「効率が悪かった?」


「それは、それは。

なぜ、わざわざアーマードゴーレムになってから攻撃を受ける必要があったのよ?

最初からスプリントウルフに変化すれば、攻撃を避けられるじゃない。

それに、スプリントウルフの攻撃力はオークよりもずっと高いのよ。

わざわざ、オークに変身する必要もないのよ」


「……言われてみれば、確かに……」


 冷静さとは、心を穏やかに保つだけではなく、敵の動きを見極め、状況を冷徹に分析し、最適な力を行使する術を選ぶことを意味しているのだと思う。

 どの程度の力を出せばいいのだろうか?

 《外見変化》のスキルを発動するべき、敵なのだろうか?

 どの対象に変化すればいいのだろうか?

 ベルタの言った「冷静に」という言葉には、こういう問いの答えを見出せという暗示が含まれているのかもしれない。


「なるほど」と納得した表情を顔に浮かべると、ベルタは少し驚いたような顔を見せたが、すぐに柔らかな笑みを返してきた。


「どうやら、掴んだようね」

「ええ、少しわかった気がします。さあ、この調子で進みましょう!」


 意気揚々と通路の先へ駆け出した瞬間、俺はあっさりと仕掛けられた落とし穴に引っかかってしまった。

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