無意味な逃避

 あの運命的な邂逅の後から自宅の玄関で目を醒ますまでの記憶がなく、どうやって帰ってきたのかもわからない。


 ただ、本来一時過ぎに家に着くはずが、ポッケから出てきたレシートによれば四時に通いつけのセブンでブラックコーヒーを購入したらしい。何があったのかはわからないし、知りたくもないが帰宅途中に何かがあったことは間違いない。


 スマホで現在時刻を確認すると、六時半だった。


 空白の数時間、私はどこにいたのだろう。

この冷たい現実世界に戻ってきたというのに、まだ夢の中で彷徨っているかのような脱力感がある。


 不意に廊下に目を向けると、まるで道しるべにするかのようにジャンル関係なしに大量の菓子が一定の間隔で並べられていた。


 意味がわからない。海馬の奥底に心当たりのある記憶が眠っている気がしなくもないけど、こじ開けられると都合が悪いのか思い出せそうにない。


「……レシートに書いてないけど。知らないうちに窃盗犯になってたらどうしよ、はは」


 笑いどころなんて一つもないのに、乾いた笑い声が出た。


 身体が重く動かすことが億劫なので、とりあえず温くなったブラックコーヒーを啜りつつ未だ茫然とした頭で今日を振り返る。


 あれは、真か――意地が悪い恋愛の神様が見せた悪夢なのではないか。


 なんでもいいけど、夢であってほしい。


 ……過去のトラウマから恋とか愛とかそういう類のものを憎悪しているこの私が、入学早々一目惚れをしてその衝撃で気をおかしくしてとんでもない奇行に走った可能性が高くて、その間の記憶がさっぱりないとか、そんなの、リアルであってたまるか。


 たぶん、今も長い夢を見続けているのであろう。


 神様、入学祝いのサプライズなのか知らないけど重すぎるし手がかかりすぎではないですかね、そろそろ終わらせてほしいな……。 


 だが、そんな切実な祈りは無意味であることを知っていた。だって、あれは本物だし、ここは現実なのだから。


 あの瞬間からずっと灯り続け、胸の奥で揺れるこの炎のような想いがそれを証明している。


 本当に、本当に厄介だ。


 もう恋なんてしないと誓ったはずなのに、あろうことか一目惚れをするなんて信じられない。


 そして、さらに信じられないことに、その一目惚れをしたはずの相手の姿を私は思い出すことができない。


 たぶん、恋というパズルの型にピースがきっちりと嵌ったあの瞬間に、衝撃で吹っ飛んだのだろう。その瞬間だけは鮮明に覚えている。 


 じゃあどうするんだ、忘れちゃったからこれで呪縛から抜け出せるのかと期待してしまうが、何もかも忘れた中唯一残ったこの感情を消化できる気がしないし、きっともう一度彼に出会ったら全部思い出す気がする。

 

 とてつもなく気持ち悪い。


 記憶のどこかには引っかかるんだけど、彼の全身に靄がかかっていてぼんやりしているだけではっきりその姿を見ることはできない。生殺し。焦れったい。どうしてくれるんだ。


 それでもなんとか薄暗い記憶の中を手繰り寄せているうちに、一つ重要なことを思い出す。


「あ……そういえば文芸部って言ってったっけ……」 


 そうだ、確かあれは文芸部の紹介のときだった。


 他の部活は複数人で和気藹々としていたが、文芸部は彼一人でお通夜みたいな空気で……彼自身も陰鬱そうなオーラがあって……思い出せたのはそこまで。それ以上は何もヒットしない。


 今はほとんど何も情報を持ち合わせていないが、その文芸部とやらの部室に行けば彼に会えるはずだ。


 このまま何もわからない悶々とした生活を続けるわけにもいかないので、そうした方がいいとは思うけども――――、


「平穏とした学園生活は送れない、だろうね……」


 知れば知るほど好きになってとことん依存して沼に嵌って、最後には捨てられて全部壊れることがわかっているから。


 私はそういう人間。ひとはそう簡単には変われない。きっと今回も同じ。


 だから恋なんて塵を捨てたんじゃないか。


 そう、一目惚れなんて、幻。まだどこか心の中で恋を求めてしまっていて、たまたま文芸部の人にそれが向いてしまっただけ。


 何が運命的な邂逅だ、バカバカしい。


 今ならやめられる。ちょっと魔は差してしまったが、反省はしてるし許すぞ、自分。


 まだ心の中のざわつきは取れないけれど、無味乾燥な日々の中でいつの間にか消えてくれるだろう。


 さて、パワ〇ロでもしますか。 


 私はすっかり軽くなった身体を起こして、謎の菓子を回収して自室へ向かう。これから始まる孤独で平和なJKライフを思い描いてワクワクしながら。

 


 二度とあんな思いはしたくない。


 ――――だから、私はもう絶対恋をしない。


 

  

 


 

 

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