第53話 シーフードパスタとファーストキス

「柘植野さーん。お皿運んでくださーい!」

「はあい。わあ! パスタですか」

「なぜか今週はアサリが安いらしいと、小耳に挟んだもので」

「海野屋さんのネットワークはさすが。素早いですね」


 2人は話しながら、それぞれのシーフードパスタの皿をローテーブルに置いた。

 柘植野の部屋は相変わらず乱雑だ。だが、テーブルは広く開けてある。

 柴田と夕ご飯を食べるために。


「いただきます! 今日もごちそうさまです」

「いえいえ。さ、早く」

「おいしそう〜! イカから食べようかな」

「アサリから行かないのが柘植野さんっぽいですよね」


 柘植野はイカをもぐもぐしながら、ぱあっと花が咲くように笑って見せた。柴田はメロメロになった。

 柘植野さん、かわいい……!!


 冷凍シーフードミックスのイカで、こんなにおいしそうな笑顔を見せてくれるなんて。

 おれの料理の腕がいいから?

 いやいや、柘植野さんはこうやって、なんでもおいしそうに食べるところがとっても素敵なんだ……!!


「柴田さん? 食べてくださいね?」


 柴田はぽーっとしてしまって、食べるのを忘れていた。


「わ、食べます食べます。柘植野さんがおいしい顔してくれたのが嬉しくて!」

「そんな……」


 柘植野は照れた顔でくしゃりと笑った。


 その笑い方もめちゃくちゃかわいい!!


「んん……? アサリ……痩せてますね……?」


 柴田は微妙な顔でアサリをもぐもぐした。


「ん? どれどれ。うーん。そうかも」

でてみないと分かんないからなぁ〜! だから安いのか!」


 柴田は悔しかった。柘植野さんにはいつでも一番おいしい食材を食べていてほしいのに……!


「すみません……。噂に踊らされました……」

「いやいや、味わいはいいじゃないですか!」

「柘植野さん、優しい……。しかしアサリの旬っていつなんですかね。8月のアサリは痩せてるんだ。これを機に覚えます。二度とこんながっかりは繰り返しませんから」


 柘植野は微笑んで、柴田の髪を撫でた。


 柘植野さん、優しいな……。おれがまんまと痩せたアサリをつかまされても慰めてくれる……。

 好きだな……。キスしたい……。なんでまだしてくれないんだろう……!!


「ちょっとだけスマホ見ていいですか!」

「もちろんどうぞ」


 柴田は急に恥ずかしくなって、アサリの旬を検索しようとスマホを取ってきた。


「えーっと、調べますね……」


 柘植野も柴田のスマホをのぞき込み、柴田がブラウザを立ち上げた。


「う、うわー!!」


 読みかけの記事が表示されてしまった!! 柘植野さんにバッチリ見られた!!


 記事のタイトルまで見られた。「ファーストキスっていつ、どうやって?やり方とおすすめシチュエーション、体験談を解説!」というタイトルが……!!


 柴田は恥ずかしくて床に転がった。


「し、柴田さん……。僕は、何も見なかったことにもできますよ……」

「いやです」

「え?」

「おれは毎晩こんな同じような記事ばっかり検索して泣いてるんですよ!」


 柴田は床に転がり、顔を手で覆ったまま言った。恥ずかしくてちょっと泣いた。


「毎晩!?」

「毎晩は盛りました。ときどきです」

「泣いてる日もあったんですね」


 柘植野は柴田の肩をそっと支えて、しゃんと座らせた。柴田は柘植野の顔を見られなかった。


「柴田さん、あなたの気持ちに気づかなくてごめんなさいね。僕は、あなたがそういう気持ちになるのには時間がかかると思っていて——」

「付き合う前からしたいです」

「……ふふ。気持ちを教えてくれて嬉しいです」

「したかったんです」


 柴田は恥ずかしさの限界を突破して、同じセリフを繰り返した。


「キスしていいんですね?」

「……はい」


 柘植野は座ったまま身体を柴田に寄せた。


「悲しいんですか?」


 柴田の顔をのぞき込んだ柘植野は、驚いて声を上げた。


「いや……。超嬉しいです。でもこんな形でバレたからなんかしょげちゃって、おれって童貞すぎるとか、思って……」

「かわいい人、って言ったら、怒りますか?」

「うう〜〜!! 恥ずかしいです!! でも柘植野さんだから怒りません!!」

「ほら、顔を見せて」


 柘植野の細い手が、柴田の日に焼けた頬を包んだ。

 柴田が顔を下に向けると、柘植野のやわらかな笑顔が目に入った。


 柘植野が背中をらして、顔を近づける。柴田は考えるより先に柘植野を抱きしめた。


 柘植野の顔がすぐそこにある。思わずギュッと目をつぶってしまう。

 記事には「一生の思い出だから目を開けていましょう」って書いてあったのに。


「柴田さん。す……むぅ、ん」


 待っていられなくて、柴田は柘植野の唇に唇を強く押し付けた。心臓がばくばくする。


 幸福でいっぱいいっぱいだった。

 柘植野の細い身体にぎゅうっと力を込める。

 柘植野さんはこんなに線が細いんだから、おれが……一生、守りたい。


「柴田さん、苦しい」


 柘植野が軽やかに笑って言う。


「あ! ごめんなさい!」


 柴田は慌てて腕をほどいた。でもなんだかさみしくて、柘植野の両肩にそっと手を置いた。


「『好きですよ』と言おうとしたのに。先に奪われちゃいました」

「あああ……ごめんなさいごめんなさい」

「いいえ」


 柘植野はなんでもないように顔を寄せて、2回目のキスをした。


 柴田は恥ずかしくて、急に苦しくなった。


 キスなんて、柘植野さんには当たり前のことなんだ。

 今まで何人とキスしてきたんだろう。

 ビッチ……というのは、言葉通りたくさんの人と……。


 柴田の心に、急に焼けつくような嫉妬が燃え上がった。


 柘植野さんは大人の男なのに、おれは童貞すぎる!!

 柘植野さんが「好きですよ」って言ってくれるはずだったのに、その前にがっついて……。

 恥ずかしい。このまま自分の家に帰って枕を殴って泣きたい。


「柴田さん? キスって想像よりは気持ちよくないでしょう」


 柘植野は、柴田がファーストキスに幻滅して凹んでいるのだと解釈して、声をかけた。


「いや、えっと、うーん……。そうですね。好きな人だから、嬉しい、って感じ」

「そのうち多少は気持ちよくなりますよ。気を落とさないで」

「そうなんですかっ!!」


 柴田は「お散歩」と聞きつけた犬がすぐさま立ち上がるように、柘植野の言葉に素早く反応した。


「そのうち、ね」


 柘植野さんが教えてくれるんだ。おれ、教わってばっかりだ。

 超童貞。童貞だからしょうがないけど。


 柘植野さんと初めて同士だったらよかった。まっさらな柘植野さんを知りたかった。

 そんなこと言ったら、きっと柘植野さんは悲しい顔をするから、言わない。


「柴田さん。パスタをいただきましょうか?」

「そうでしたね! ちょっと冷めてちょうどいいかな?」

「柴田さんの料理は熱々が最高ですけどね。わー! エビおいしい!」


 柘植野さんは、ほんとにおいしそうに食べてくれるから嬉しいな。

 こんな素敵な人と恋人同士だなんて、めちゃくちゃツイてるな。

 でも……。


 胸に燃え上がった嫉妬は、なかなか消えていかない。


 もう一度キスしたい気にならなかった。

 ファーストキスのあと、キスの先までねだるつもりだった。

 でも柴田の心はすっかり凹んでしまった。


「柘植野さん、大好きです」


 少しも嘘ではなかった。柘植野の肩に軽く肩を預けて、首筋のにおいを嗅ぐ。汗のにおいと、くすぐったそうな反応に、下半身がじわりと熱くなる。

 でも、今日は無理だった。


 オイリーなパスタを食べたあとにキスをするものじゃないな、と柴田は唇を舐めた。そもそも食後にはキスしないものなんだろうか……?


 じゃあ一体、いつ誘えばいいんだろう……?

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