第46話 ちょっと贅沢な牛カツ屋

「柴田さん、エスカレーターはこっちです」

「あっ、また間違えた! すみません」

「いいんですよ」


 柘植野はふわっと花が開くように笑った。


 このショッピングモールの中で柘植野さんが一番イケメンで一番美人だ。あらゆる男女に勝ってる。

 柴田は惚れた欲目でそう思った。


 柴田はスッと手を差し出してみる。


「おれ方向音痴だから、手をつなぐのは……」

「あと3日したらね」


 柘植野は柴田のトートバッグの持ち手をつかみ、エスカレーターの方へ引っ張っていく。柴田はがっかりした。


 でも、柘植野さんは立派なお仕事をしてるからこそ、気をつかって接してくれるんだ。

 えらいなあ。かっこいいな。早く二十歳はたちになりたいな。


 2人は混み合ったレストランフロアで、レストランの一覧を眺める。


 牛カツ屋というのがあった。紹介写真を見ると、衣は綺麗きれいに焼き色がついているが、断面の牛肉はまだ赤い。


 赤い肉を、熱した鉄板で好みの加減に焼くのだと聞いて、柴田は牛カツにかれた。

 家でそんなエンターテイメント性のある配膳はなかなかできないから、外で食べてみたい。


 席に案内され、値段を見て柴田は驚いた。


「えっ? お昼ご飯にしては、ちょっと、お値段が……?」

「もちろん僕が払いますから」


 柘植野はまた優しく笑う。

 オムライスの夜に話してから、柘植野さんの笑顔はやわらかくなった気がする。


「でも……柘植野さんのお仕事って、お金の具合は……?」


 柴田は精一杯オブラートに包んで聞いたが、包み切れなかった。


 さっき柘植野さんに、ジャケットとスラックスを買ってもらった。両方とも1万円以上したのに。

 誕生日には素敵な——きっとお値段も素敵な——レストランに行くらしい。


 柴田は柘植野の財布事情が心配になってきたのだ。


 柘植野はくすくす笑って、柴田の耳に口を寄せた。柴田はドキッとして赤くなった。


「『望月眞舟もちづき まふねの年収』って検索したらそれらしいのが出てきますよ。作家の収入なんて発行部数に対する印税なんだから、推測するのは簡単ですし。まあ、もうちょっと契約は複雑なんですけど」

「知りたいような、知りたくないような……」


 柘植野は、ふふ、と笑った。


「安心して。今のマンションよりもう少し広いところに住む余裕はあるんです。引っ越しが面倒なだけ」

「なるほど……」

「まあ、今は浮かれてるんです。浮かれたっていいでしょう? 素敵な人とこれから……」


 柘植野は言葉を切って、恥ずかしそうにうつむいた。

 柴田は心臓を射抜いぬかれて、思わず胸を押さえた。


「これから毎日大盤振る舞いはできないけど、今日くらいの贅沢を2人でできる程度には、がんばって働きますから」

「いやいや、おれもバイトしてるし」

「カッコつけさせてくださいよ」


 柘植野が可憐かれんに咲く花のようにはにかみ、柴田はまた心臓を押さえた。


「だから、失業しないように、あと3日待っててくださいね」

「はい……」


 牛カツ屋の店員は、いつこのバカップルに割り込んだものかと躊躇ちゅうちょしていた。早く注文してほしい。

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