第39話 オープンキャンパスの憧れの人

「柘植野さんは、ここでお仕事することもあるんですね」


 柴田は間接キスをごまかすように柘植野に話しかけた。柘植野は急いで普段の表情を作った。


「家でどん詰まりになるとここに来るんです。あと大学図書館でリサーチした帰りとか。僕はここの卒業生なんです」

「柘植野さんもこの大学なんですか!?」

「そうなんですよ。言う機会がなかったんだけど。実は博士課程まで行って、そこで退学してます」


 糀谷こうじやへの憎しみから解放されて、退学コンプレックスも薄れた気がする。退学を普通のこととして話せた。


「すご!? 何学部だったんですか?」

「文学部の英文学コースです」

「へえー! おれも文学部です!」

「なんで文学部にしたんですか?」

「えっと……恥ずかしい話なんですけど」


 柴田がはにかんだ顔を見せたので、柘植野は何を言われるのかと緊張した。


「オープンキャンパスで初めてここに来たとき、道に迷っちゃって、文学部の人が助けてくれたんです。文学部ってことしか聞かなかったんですけど、親切で、間に合わなさそうってなったら一緒にダッシュしてくれて、めちゃくちゃいい人だったんですよ!」


 ちょっと待って。それ、僕だな。

 柘植野は衝撃の展開に固まった。


「文学部に入ればまた会ってお礼を言えるかな〜なんて思ってたんですけど、4年前だから卒業してる可能性が高いですよね」

「そうだね。確かにそうだと思う」


 柘植野は気もそぞろに返事をした。


 覚えてる。僕がまだ院生だったときだ。

 オープンキャンパスの日、道に迷った高校生に声をかけられて、僕も文学部棟に向かってたから案内したんだ。

 でも方向音痴で目を離すとすぐフラフラどっかに行っちゃう子で……。捕まえとくのが大変で、余計に時間がかかって、仕方ないからリュックの紐を捕まえて、最後にはダッシュして……。


 天丼を食べに行った日、柴田さんのリュックを捕まえたときに感じたデジャヴって、あのときの高校生を捕まえてたときの感触ってこと!? しかもその高校生イコール柴田さんだってこと!?


「憧れの人なんです。その人には高1の5月に会って、高校の間ずっと憧れ続けてて……」


 高校3年間!? 柘植野は、柴田の「憧れ」が予想以上に重いので引いてしまった。

 そんなに憧れてるなら、なんで気づかないかな〜!? いや、僕も気づいてなかったから、初対面の人間の顔なんてそうそう覚えてないんだろう。

 なぜか急に寂しくなる。僕は……気づいてほしかったんだろうか?


「その人が……好きなんですか?」


 気づいたときにはもう口が動いていた。柴田さんは僕のことが好きだと思っていた。

 でも、計算高い誰かが「その憧れの人は僕だよ」と嘘をついたら、柴田さんはその人に惹かれていくのだろうか!?


 柘植野は焦った。どうして柴田さんの僕への好意は揺るがないと思い込んでいたんだろう!?


「いや、おれは、『憧れの人』とか言ったけど、えーと、今はほかに好きな人がい……いや、いない、えっとやっぱりいるんですけどぉ……」


 柴田はごにょごにょと言って、赤くなってうつむいた。柘植野も頬を染めて目を逸らした。告白されたようで告白ではない。でも柴田の好意を確信してよさそうだった。


 どうして僕は、こんな形で試すようなことをしたんだろう。何に焦っているんだろう。「憧れの人」という仮想敵が現れると、どうして急に立ち入ったことを聞いてしまうんだろう?


 慌てて口をつけたアイスコーヒーは、酸っぱすぎるような気がした。なんだか、心臓がギュッと締め上げられるような味だった。

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