なんでもない今日という日
第42話
「小湊先輩、今日もお弁当ですか?」
その声に後ろを振り向くと、俺よりずっと体格のいいスーツの男が興味津々といった顔で立っていた。
高卒認定と少しでも役に立てばと思って取ったパソコン関係の資格だけを持って就職に臨んだのだが、現実はそう甘くなかった。30社以上落ちて、それからはもう数えることをやめた。そんな中でも、面接を担当した人事部長が俺のことをなぜか気に入ってくれて、この小さな食品企業の営業部に雇ってもらえた。
仕事なんて金を稼ぐための手段くらいに考えていて大して期待なんてなかった。でも実際に働いてみると、売り上げを取る楽しさややりがいなんてものを感じるようになった。俺の知っていた「仕事」というものとは全く違っていた。それにうちの同期や上司たちはどうにも酒や宴会が好きらしく、新入社員の頃、仕事でミスをしてもすぐに「飯だ」「飲み会だ」と連れまわされて沈んだ心も忘れさせられた。
先方の担当者と会って商談をすることはどうやら俺に向いていたらしい。上司も「若いのに肝が据わっている」と言ってくれた。昔、社会の上位層とも言える偉そうな人達と一対一で会っていたから、その辺は慣れていたんだろう。ただ取引先相手以外には愛想が悪いと、飲み会の席で周りから愚痴られたりもした。
三年目になって、ついに新入社員の教育係を任されることになった。それで担当することになったのが、よりにもよって俺とは正反対なこの安達という男。大学でラグビーをやっていたから俺より一回りも図体がでかく、そのくせ小型犬みたいに俺の周りをじゃれついてくるから接し方に困る。向こうは大学に行っていたから俺とは同い年なのに、その辺はわきまえているのか一線までは超えてこない。こいつなりに敬意は払ってくれているんだろう。仕事もまあ頑張ってついていこうとしているのは伝わるし、愛想がよくて社内外を問わずウケがいい。こいつを俺につけたのは俺にとっても教育の側面があったんじゃないかと、部長の采配を疑った。
「そのお弁当って、まさか先輩が作ってるんじゃないですよね?」
まさかっていう言い方に若干の偏見を感じる。まるで俺が見るからに料理できないみたいじゃないか。
「まさかとはひどいだろ」
「えっ、本当ですか!?」
安達は目を丸くした。
「冗談だ」
俺の言葉にほっと胸を押さえた。
「なんだぁ……でも、そうですよね。だって先輩、新入社員研修の飲み会の時、部長たちに酔い潰されて『俺はカップラーメンしか作れません』って宣言してましたからね」
思わず頭を押さえるが、そんな記憶は全くない。こんな後輩にまで醜態を晒すくらいだ、これから飲み会の酒はもう少し控えよう。
「それなら、彼女さんですか?」
そう言って目をランランと輝かせる。その手の話が好きなのは年頃の女子の特権かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「だったらどうなんだ」
俺の返事に安達は一層目を輝かせた。
「やっぱり彼女さんいるんですね! どんな人なんですか?」
グイグイと話を詰めてきて、話を巻くのも骨が折れそうだ。そう思うのにこいつのことを嫌いになれないのは、初めて話した俺に「デートしよう」だなんて言ってきたやつと少し似ているからかもしれない。
「強くて明るくて、ちょっとそそっかしいやつだよ」
彼女の顔が頭に浮かぶ。思い出すのはいつも、楽しそうに俺に笑いかける表情だ。
手術が成功し、退院した波瑠は数年ぶりに実家で家族と暮らすことになった……そう思ったのもつかの間、一か月ほどで俺に「一緒に暮らそう」と切り出した。
『一緒に暮らそうって……波瑠の両親はそんなの納得しないだろ』
波瑠の提案はもちろん嬉しかった。でもそれ以上に、「せっかくまた家族と一緒に暮らせたのにそれを手放してもいいのか」という心配の方が大きかった。
あの手術の後も波瑠の両親は俺に優しくしてくれた。家に呼んでご飯を食べさせてくれたり、熱を出したときには薬や食料を届けてくれた。家族のいない俺にとっては貴重な存在だった。だからこそ、あの家族から波瑠を取ってしまうのは罪悪感があった。
『それがね、話したらすぐに認めてくれたよ。いずれそうなるだろうと思って諦めていたみたい。家を出るって言ってもすごく遠くに住むわけじゃないし、一か月は親孝行出来たかなって』
『いや、でも……』
『茜君、新しく住む場所探してるって言ってたよね。それとも、私と一緒に住むのは嫌?』
そう言って俺の顔を覗き込んで微笑んだ。俺が嫌なわけないって分かっているだろうに、その聞き方はズルい。
こうして半ば押し切られるように、俺達の同棲は始まった。
波瑠の両親にも相談に乗ってもらい、俺達は8畳のワンルームを新居に選んだ。玄関から部屋の奥まで見渡せるようなこの狭い部屋では家に帰るたびに波瑠の甘い匂いがして、慣れるまでは困った。
波瑠は「私もやりたい」と言って、高卒認定試験の勉強を一緒にやり始めた。ずっと勉強をしてきただけあって、波瑠はとても優秀だった。高卒認定試験受験者向けの指導講座に通い、家で波瑠にも勉強を見てもらうことで、短い受験期間ながらも勉強は順調。十八歳の秋、俺達は高卒認定試験を合格した。
それから俺はコンビニのバイトをしながら就職活動を始めた。波瑠はその頃から料理に興味を持っていて、カフェでバイトをしながら調理師免許取得の通信教育を受けていた。
『ねえ、茜はどんな仕事がしたいの?』
パソコンで就職サイトを眺める俺に、波瑠が後ろから抱きつく。その頃には「君」が取れて、恋人らしい距離感にも慣れてきた。
『何でもいいよ。そこそこのお金がもらえて、後ろ暗くない仕事なら、何でも』
『えー、そんなの夢がないよ。なんかもうちょっと希望はないの?』
全くないと言ったら嘘になる。出来れば波瑠の隣に立つのにふさわしいと思える仕事がいいし、残業ばっかりで波瑠と過ごす時間が取れなくなるのも嫌だ。でもそんなことを言えるような人間じゃない。
『私は茜にもっと美味しいご飯を作ってあげたいから、いろんなお店で働いてみたいなぁ。和食も、洋食も、中華も、エスニックも、みーんな作れるようになったら楽しいと思わない?』
そう言って俺の隣に座る。
『私の方が先に仕事から帰ってきて、ご飯を作って茜の帰りを待つの。それで茜が帰ってきたら一緒にご飯を食べて、今日の仕事がどうだったーとかそんな話をするの。夜は毎日一緒に寝たいな。朝は美味しいお弁当を用意してあげる』
『今とあんまり変わらなくないか?』
今だって料理が全くできない俺に変わって波瑠がご飯を用意してくれる。帰る時間は二人のバイトのシフトによってまちまちだけど、合わせられる日は一緒に食べて、今日あった話をする。
俺の言葉に波瑠は笑い出した。
『ふふっ、確かにそうかも。でも、こんな毎日があと何年も続いていったらいいなって思うんだよ』
……よかった、波瑠も同じ気持ちだった。
『そうだな』
俺はこの会社に就職し、波瑠はお洒落なレストランのキッチンスタッフとして働き始めた。あの頃波瑠が言っていた理想の未来は今、現実になっている。
「先輩、本当に彼女さんのことが好きなんですね。顔、緩んでましたよ」
安達は面白がってニヤニヤと笑った。顔なんて緩ませたつもりはない。
これ以上からかわれるのはごめんだ。俺は強引に話を変えた。
「そうだ、安達。午後の営業回りだけど……」
そう言いながら、弁当箱の蓋を開ける。いつもの彩りのあるおかずの隣、白米のスペースを見て一瞬動きが止まった。
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