冬の夢

第36話 まだ秘密だよ

 病院の廊下は少し寒くて、身を縮めた。

「波瑠の親からは一発くらいぶん殴られるかと思ってたよ」

 隣を歩く波瑠にそうこぼした。

「えっ、どうして?」


 さっき俺は病院内のカフェスペースで波瑠の親と初めて対面した。未成年の波瑠が手術を受けるには保護者の同意が必要で、金のことも含めて一度話をしないといけなかった。 


 波瑠の親は明るく物を言う、誠実そうな人たちだった。波瑠が持つ無邪気なほどの明るさや共感性を伴った優しさは、この両親に育てられたからこそなんだろうと思った。


「だって娘が知らない男をいきなり連れてきて、しかも手術費用を全額支払うとか言い出したら、新手の詐欺とか、とにかく胡散臭くて仕方ないだろ?」

「そういうものかな……?」

 波瑠はピンと来ていない様子だった。

「でもお父さん達、茜君にすっごく感謝してたでしょ。それはそうだよ。だって茜君は私たち家族の恩人だもん」

 そんなことを言われると照れ臭くなる。俺はただ波瑠の苦しむ顔が見たくなくてやっただけで、そんなに大層な志なんかじゃない。

 俺は話を逸らした。

「俺のことは説明しなくてよかったのか? 仕事のこととか、金の出どころとか……」

「だって茜君、話したくなかったでしょ? もしお父さんたちに何か聞かれたら、私がうまく言っておくから安心して」

 そう言って波瑠はウインクしてみせた。


 あの仕事は人に胸を張って話せるようなものじゃない。波瑠は俺の話を聞いても変わらずに接してくれたけど、普通は軽蔑されても仕方ないくらいだ。波瑠の親にはなおさら秘密にしておきたかった。


「ありがとう……助かるよ」

「このくらい、なんてことないよ」

「それにしても、俺達が出会ったきっかけを『病院で見かけて声をかけた』っていうのはあまりにも強引過ぎはしないか……?」

 この病院に来たのはこの前が初めてだし、詳しく聞かれでもしたら簡単にボロが出そうだ。

「でも、茜君が歩いている姿を『病院』の窓から『見かけて』、あの歩道橋の上で『声をかけた』んだもん、嘘はついてないよね?」

「嘘じゃなくても確信犯だろ」

「だって、病院をこっそり抜け出して会ってたなんて言えないよ。そういうことにしておいて、ね?」

 波瑠はそう言って俺の顔を覗き込む。

「……分かったよ」

 人に言えないことが多いのは俺も同じだ。そこはなんとか協力しようと思った。




 病室に戻って、波瑠はベッドに横になった。側の椅子に腰かける。

「手術ね、前に聞いた話だと二日に分けてやるんだって。骨を削ったりとか色々やらないといけないことがあって、何時間もかかるんだってね」

 波瑠の言葉にぞっとした。

「その……怖くないのか?」

「怖くない、って言ったら嘘になるかな」


 返事を聞いて、馬鹿なことを言ってしまったと思った。そんなこと、怖くないはずがないのに。


「でもね、怖いとかそれ以上に手術を受けることになって嬉しいって思ってる。自分の人生に絶望していい加減に生きていたあの頃よりも、生きることに執着して苦しんでいたあの頃よりも、ただ真っ直ぐ、生きるために心を向けられる今が一番だよ。もちろん手術が必ずうまくいくとは限らないし、何が起こるかなんて分からない。それでも今が一番、私自身の人生を前向きに考えられている気がするんだ」


 正直、俺は心の片隅で引っ掛かっていることがあった。本当に手術を受けることが波瑠にとって最善なのか、と。

 波瑠は手術を望んでいた。手術を受けられない理由がただ金のためなら、俺がどうにかしたいと思った。それに手術が成功して波瑠が自由に動き回れることは、俺にとっても魅力的だった。


 しかし、その手術は前例がなくて失敗して命を落とすかもしれないと前に波瑠が言っていた。そんな危険性のある手術に波瑠を後押しして本当によかったんだろうか。そんな危険を冒さないで今まで通りの生活をしていた方が長く波瑠と一緒にいられたんじゃないか。そんな考えが浮かんでは頭を抱えたくなった。


 それでも、波瑠は今が一番幸せだと言ってくれた。その言葉を聞いて、ここまで突き進んできた自分をやっと認められる気がした。

 また波瑠に心を救われてしまった。


「それにね、色々準備もしてるところなんだよ。あれこれ忙しくやってたら、怖さも紛れてちょうどいいよね」

「準備?」

「んふふ、茜君にはまだ秘密だよ」

 そう言って波瑠はいたずらっ子のように笑って見せた。そんな些細な仕草で、どれだけ俺が心をかき乱されているかなんてまだ君に伝えるつもりはないけど。


 俺は立ち上がった。

「じゃあそろそろ俺は帰るよ。また明日来る」

「もう帰っちゃうの? 何か用事?」

「ああ。今日から勉強を教わることになってるんだ」


 あの仕事を辞めたからには、必死にならないと次の仕事に就くこともままならない。まず、第一の関門である高卒認定を取るために試験勉強を始めた。今日は隣町のコミュニティセンターで開かれる高卒認定試験受験者向けのセミナーに参加する。相変わらず他人と会うのは苦手だけど、これから一人で生きていくにはそんなわがままも言っていられない。わざわざセミナーに参加することを決めたのは、色んな他人と接触して苦手をなくす意味もあった。


「勉強なら私が教えてあげるのに」

 波瑠は拗ねたような顔をした。

「それなら今度お願いしようかな」

 俺の言葉に波瑠の顔がパッと明るくなる。

「うん! 楽しみにしてるね」

 波瑠に手を振って、病室を後にした。

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