第17話 家族

 母は綺麗な人だった、と思う。歯切れが悪いのは、顔にモザイクがかかったみたいに思い出すことが出来ないからだ。家族写真なんて手元に一枚も残っていない。「二十代の頃には『地元のミス何とか』にも選ばれて雑誌にも載ったんだ」と父が母のことを自慢げに話していたことは覚えている。


 俺が小学校高学年に上がるくらいまで、俺達家族は上手く行っていた。父は仕事が忙しくて中々会えなかったけど、たまの休みには俺と母を遊びに連れて行ってくれた。車で二十分ほどのところに城跡があって、春には満開の桜を家族で見に行ったことを思い出した。三人で出かける日は母がいつもより綺麗にしていて、俺はそれが好きだった。


 父が家にいることが少ない分、専業主婦だった母とはよく話をした。授業で習ったことの話、友達と遊んだ話、今日見た夢の話。母は俺の話を楽しそうに聞いてくれた。


 きっかけは小5の時の俺の言葉だった。その日のことはよく覚えている。朝起きると、台所からは俺の好きなカレーの匂いがしていた。それが嬉しくて、急いで母の元へ行った。


『おはよう、茜。今日は朝から元気ね』

 台所に立つ母はそう言って微笑んだ。


『だってカレーなんでしょ。お腹空いたよ』

『ふふっ、本当に茜はカレーが好きね。もう少しで用意できるわよ』

『あっ、そうだ。今日は夢に父さんが出てきたよ。家に父さんと女の人が一緒にいて、そこに母さんも入ってきて、みんなでクッションとかを投げて遊んでたよ』


 俺の言葉に母の顔つきが変わった。


『やっぱり浮気してたのね……』


 それからは積み木が崩れるみたいに、俺達家族が崩壊するのはあっという間だった。


 学校から家に帰ると、友達と旅行に行っているはずの母がリビングの床に座り込んでいた。部屋は誰かに荒らされたみたいに物が散らかっている。俺は母に駆け寄った。


『お母さん大丈夫!? 何があったの!?』

『来ないで!』


 そう言って振り向いた母はまるで化け物を見るような目で俺を見ていた。


『全部茜が言っていた通りだった……茜の夢は他人の不幸を見る。茜は不幸を呼び寄せる。怖い怖い怖いこわい……』

 その時はまだ母が何を言っているのか、理解できなかった。


 それから俺の生活は一変した。父は一度も家に帰ってくることはなく、その話題を口にすると母はヒステリーを起こすようになった。

 母は寝室に引きこもって、俺と同じ部屋にいることを拒んだ。宅配で月に数回、レトルト食品やカップ麺が大量に届いたから、食事には困らなかった。でも、何を食べても味はしなかった。俺は母が眠ってからこっそり寝室を覗きに行っていた。日に日に生気が無くなり、あんなに綺麗だった母の面影はもうどこにもなかった。

 毎晩母の夢を見た。部屋で母と顔を合わせる夢を見た翌日、文化祭の代休で家にいた俺と母は久しぶりに顔を合わせた。俺の顔を見るや、母は急いで寝室へ戻っていった。夢で見たのと全く同じ光景。その時やっと、俺は状況を理解した。


 朝起きるとなぜか泣いていることがよくあった。昔、母が料理中に包丁で指を切る夢を見た次の日に、「茜の夢が正夢になっちゃったね」と照れて笑う母の指には絆創膏が巻かれていた。母は知っていたんだ。俺が見た夢は本当に起こるって。


 後から思い出せば、母が父の浮気現場に乗り込んだあの日、母の手にはボイスレコーダーらしきものが握られていた。きっと浮気の証拠を掴んで離婚の時に慰謝料を請求したんだろう。


 化粧の匂いは昔の優しかった母と、幸せだった家族の記憶を思い出させる。そして勝手にその後の顛末を頭でなぞって、胸が千切れそうになる。だから意図的にその匂いを避けてきた。




 手に触れる感触があって、現実に引き戻される。女は俺の手を握っていた。

「さっき呼んだ車がもう着くって。行くわよ」


 くいっと手を引っ張られて、俺の身体は勝手に椅子から立ち上がった。女は俺の手を引いたまま店を出る。

 やっと状況を理解して、触れられたところから悪寒が全身に走った。


「嫌……嫌だ。行きたくない」

「もう。そんな興が冷めること言わないでよ。さっきまではうっとりした顔で私を見つめていたじゃない」

「そんな顔してない!」

「こら、あんまり大きい声出さないの」

「い、いや……!」

「レイ君!?」


 その声に振り返る。そこにいたのはハルだった。


 ハルはこっちに駆け寄ってくると、手を振りかぶった。そして、

「えい!」

 俺の手を掴む女の腕に手刀を決めた。女の手が離れる。

「行こう!」 

 そう言ってハルは俺の手を掴んで走り出した。悪寒は止まっていた。

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