第15話 何でも答えちゃうよ?

 家に帰ると、いつものように風呂場へ向かった。髪を濡らし、シャンプーを手にのせたところで、手のひらの上の消えかかった黒い文字が目に入った。


「ああ!?」


 慌ててシャンプーを洗い流し、雑に体を拭いて風呂場を出る。居間のテーブルの上に放置していたチラシを裏返して、引き出しからボールペンを取り出す。


「090……これは8か? それとも6……?」


 手のひらを顔に近づけてよく見るが、数字は既にいくつか判別できなくなっていた。ハルと繋がる唯一の手掛かりだったのに。手に数字を書かれた時、それ以外のことに気を取られて覚えていなかったことが悔やまれる。

 いっそのこと、判別できない数字を予想して電話をかけてみるか? いや、間違った番号で誰かに繋がってしまったら、今夜はきっとその人の夢を見てしまうだろう。

 俺はペンを机に置いた。


「はあ……何やってるんだろ、俺」


 そもそも、仕事以外で他人と関わるのなんて面倒を増やすだけだ。本当の名前も知らないんだから、さっさと忘れてしまった方がいい。

 殴り書きしたチラシはぐしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。




 風呂と食事を済ませ、ベッドの上で本を読んでいるとスマホが鳴った。

 仕事の変更連絡か? 急ぎじゃないならメールにしてくれればいいのに。

「もしもし」

「もしもし、レイ君?」

 耳元で声が鳴って、息が止まりそうになった。


「ちゃんと繋がってよかった。今、大丈夫?」

「あ、ああ……」

 そうだ、ハルだって俺の番号を知ってるんだから向こうからかけてくる可能性もあった。電話の相手が圭だと思い込んで油断していた。


「今日は楽しかったね」

 耳元で聞こえる声はいつもより囁くみたいで、胸がくすぐったくなった。

「そう、だな」

「レイ君も楽しかった? そう言ってもらえるとかなり嬉しいなぁ」

 電話の向こうで笑っているハルの様子が頭に浮かぶ。


「レイ君が見つけてくれたネックレスは、帰ってからちゃんと綺麗にして元の入れ物にしまっておいたからもう大丈夫。これからは観賞用にするって決めたんだ」

 ネックレスなのに観賞用って……でも失くしてあんなに悲しそうな顔をするならその方がいいのかもしれない。

「まあ、それは好きにすればいいけど……見つかってよかったよ」

「うん、見つけてくれてありがとね。今日はきっとネックレスのことと、あの元気いっぱいなハシビロコウを夢に見るんだろなぁ」

「あれは驚いたな」

 まさか動いているはずないと思って条件に出した。その姿に背中を押されて一歩踏み出したら、想像以上の答えが返ってきた。


「電話でもレイ君と話せるなんて楽しいね。次のデートの予約、してくれてもいいんだよ?」

「ふっ、何だよそれ」

「指名はもちろんハル一択ですよね? ……ふふっ。なんか今日がこんなに楽しくていいのかなぁ」

「別にいいんじゃないか」

「えへへ、そうかな。今日は気分がいいから、特別にもう一つ質問してもいいよ。何でも答えちゃうよ?」


 そう言われて、彼女にもっと近づいてみたくなった。


「じゃあ、本当の名前は何て言うんだ?」

 少し間があって、彼女は答えた。

「君と今話しているのはハルだよ」

 困ったようなその声が神経を逆なでした。


「嘘つき」


 それだけ言って電話を切った。


 近づいたら線を引かれた。これ以上踏み込むなと。どんなに仲良くなったように思わせたって、結局俺には本名すら教えてくれないんだ。

 むしゃくしゃしてベッドに倒れこむ。瞼がぼんやりと重たくなってきた。どんなに起きていたくても、時間になると勝手に眠りに落ちてしまう。不幸な夢を見る性質と最高に相性が悪い。

 頭には母親のことを思い出していた。仕事以外で誰かの不幸は見たくない。その点、死人はいい。それ以上不幸が更新されることがないから。


 それから数回着信があったが、全部無視した。そのうち電話もかかってこなくなって、季節は夏になった。

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