第1話

 その日の夜。  

 俗は自宅の高層マンション、その風呂場に居た。

 

 シャワーを浴びながら気が付いたのは、いつにも増して体の傷が多いということ。生傷の耐えない職業だとは理解しているが、それでも気分が良いものではない。


 今日も昨日も迷宮を出てから家に帰ってくるまでの記憶は無かった。大方、酒をかっくらって脳みそを初期化してしまったのだろう。


 彼はいつもそうだった。

 金が入れば気が大きくなり酒を飲む。そして気分が良くなり大金を使い、家に帰って我に返る。

 残るのは請求書と虚無感だけ。


 夜になれば後悔と自己嫌悪に飲まれて幾ばくかの釈放金を手に、寄り道をしてから仕事に向かう。

 きっと明日も明後日も繰り返す。


「……怖い。請求書を見るのが」


 いつ死ぬかも分からぬ生活をしているというのに。

 貯金も出来ぬ自分の将来が、恐ろしくて堪らない。 


 男は不安障害を持っていた。あと強迫性障害とPTSDと躁鬱を。


 鎮静剤を始めとする漢方や処方薬の類はいつも家に帰って直ぐに飲んでいるが、根本的に解消する方法はない。

 忘れる瞬間といえば目の前に死の恐怖が迫った時と、女を抱いている間だけ。


 死の恐怖は将来を忘れさせてくれる。女の快楽は今を生きる活力をくれる。

 それが彼の信じる言葉だ。


(明日こそは、踏破してやる)


 トラウマを払拭して、駄目な自分ともきっぱり絶縁してやるのだ。そう意気込み、俗はシャワーの蛇口を締めてから風呂の栓を抜く。

 そして、今すぐベッドへ倒れ込みたいという欲求を抑えつつ、短い髪をドライヤーで乾かし始めた。


 アングラな職業を生業とする一人暮らしの男としては、かなり神経質だとも言える。しかし俗からすれば、これでも自重している方だった。


 本当は使い終わった風呂だって今すぐ洗いたいし、なんなら自然乾燥を待つまでも無く自ら空拭きを始めたいところである。


 だがそんな事をすれば自分が汚れるし、そして自分を洗えば今度は風呂が汚れてしまう。


 そんなジレンマが発生した時。彼はどうしようもなくなって一度だけ家中をアルコールで消毒したことがあった。

 結果、朝まで掃除をし尽して次の日の仕事は中止したが。


 そんな事もあり、現在は週に一度だけある休みの日に纏めて掃除をする事に決めていた。


 常人ならば風呂屋へ行けと言いたくなるだろうが、あんな場所、俗からしてみれば公衆トイレと何ら変わりなかった。

 潔癖症あるあるだ。 


 そうこうしていると髪を乾かし終えたのか、寝巻を着てからリビングへ向かう。


 ハンカチを持った手で扉をあけ放ち周囲を見渡すと、いつも通り異常なまでに整えられた大きな部屋が広がっていた。


 ……しかし、一点。


 埃の一つ、チリの一つすらない部屋の中央。周囲と比べて一段低くなったリビングの下で、お掃除ロボットがひっくり返って死んでいる。

 

 今までも何度かあった事だが、この旧式のポンコツは平べったい形状の癖をして八日目の蝉ごっこが大好きなのだ。


 冒険者という収入の多い職業をやっている人間の多くは家事も誰かに委任している事が多いのだが。

 強迫性障害により極度の潔癖を好むこの男は、部屋が汚れそうだという想像だけで自分以外の侵入を許していない。


 商売女は当然、過去に付き合っていた女とも常に外で合っていた。


 だからこそ普段は機械に掃除を任せているというのに、それがこのザマだ。

 俗は身動きが取れなくなったポンコツロボットを救出すべく腰を屈めようとした、そんな時。


 ふと、部屋の端にあるベッドが目に入った。

 今朝きっちりと畳み消臭しておいた筈の布団が、妙な膨らみを見せているのだ。


 丁度、女が1人入れそうなくらいに。


 俗は女が好きだ。女と居るのも、触れるのも触れられるのも抱くのも抱かれるのも。当然、事前と事後に風呂は入るけれど。


 だが、今だけは女が家に上がり込んでいたとしても些事と言えよう。


 何故か。それは布団の膨らみがただの女ではなく、非常に小柄な女に見えたからだ。目測で10代前半。


 今朝は偶然気が付かなかっただけで、昨夜の内に小柄な女を連れ込んだ可能性はある。小柄な男という線も。


 俗は大人の女が好きだが、それでも気の迷いや気分によっては小さな女を指名したり、ナンパしたりもするかもしれない。


 気合の入った少年が弟子入りでもすれば、剥いてから風呂に叩き込んでベッドを譲るのかも……それはないか。


 とにかく問題は、それが本当に少女であった場合。言い方を変えると未成年だった場合。いくら銃刀法の類に緩い街とはいえ、いや、そんなアングラな街だからこそ青強く取り締まれているのだ。


 少年保護育成条と児童福祉法はッッ!!


 あと普通に社会とPTAの目も怖い。

 ただでさえ冒険者への風当たりが強い御時世だ。SNSで特定でもされれば最後、一生ロリペド野郎の誹りを受けながら生きて行かねばならないだろう。


 想像しただけで俗の手は精神薬に伸びていた。


(逃げるか? 今ならまだ高飛べる。だが警察に駆け込まれたら……)

 

 それに、まだ彼がロリコンだと決まったわけではない。というか、仮にペド野郎だったとして、手を出したかも不明である。


 国外へ逃げるにしてもベッドで眠っているのが女か、未成年か、そして事後かを確認してからでも遅くはないだろう。役満以外だった場合はまだやり直す余地もある。冒険者なら猶更だ。


 そう考えてから、俗はベッドに眠る人形に手を伸ばした。


「触らないで、警察を呼ぶわよ」


 突き放すようにして放たれた言葉の色は、嫌に冷たい音がした。


 はゆっくりとベッドから起き上がり、俗を鋭い目つきで睨む。

 布団の上から出された顔つきは声と同じく冷ややかで、恐ろしい程の美人だった。恐ろしい程に、恐ろしい美人だ。


 しかし、その年齢は纏っている雰囲気よりも幾ばくか若く見える。

 十五、六といったぐらいだろう。


 肌は病的なほど白く陶器のように滑らかで。ロングの髪は烏の濡れ羽色をしている。目は大きいが目付きは悪く、トカゲのように何を考えているかが分からない。


 しかし俗の目を引いたのは、そこではなかった。


 額から生える大きな一本角。否、元は一対であっただろう片角。

 今や片方は根元から歪に消えているが、それでも彼女の右額からは竹の如き節を幾つも持つ細長い角が生えている。


 全体的に人相の悪い鋭利な少女が、ベッドでわが身を抱きながら心底侮蔑したような顔をして彼をねめつけていたのだ。

 

 その角が見えた時、俗の心臓は高い場所から落とされたように激しく脈動した。 

 咄嗟に壁へ掛けられた柄の長い片手剣を掴み取り、鞘を地に捨て、持ち手を両手で握り、震える切っ先を少女に向ける。

 

 彼は数年前に迷宮から脱走した亜人によって、家族を皆殺しにされていた。

 そんなトラウマが、憎悪が、俗の耳元で少女を殺せと囁くのだ。


「殺したいの?」


 少女は侮蔑の表情をそのままに、言葉だけは関心が無さげに言った。


 俗は不貞の証拠を消したいが為に彼女を殺そうとしているのではない。だが、

「死んでくれ」と、切に願いながらベッドへ近づく。


「だったら丁度良かったわ。私も私"達"を殺したいほど憎んでいるの」


 その時だけは、俗にも彼女の向ける侮蔑の表情が自嘲を孕んでいるように見えた。危険を前にして生存本能が“そう”させた表面上の同意ではなく、心の底から吐露した本音に思えたのである。


「でも、まだ"私"だけは死ねないわ。この世から亜人と人間を全て消すまで、死ねないの」


 彼女は就活生のような酷く澄んだ純粋な声でそう言ってのける。


「……人間は殺させない。お前は今殺す」


 切っ先を後ろに振りかぶり、地を蹴る俗。

 その瞬間。


「今? 部屋が汚れるわよ?」


 そんな忠告で、彼は簡単に足を止めた。果たして倫理や法律では無く、そんな言葉が真っ先に出たのは。

 彼女が亜人であったからなのだろう。


 数年前。突如迷宮の中から現れた異形。彼らには日本の法律が適応されなかった。今でこそ人類種から枝分かれした亜族として分類される人間だと知られているけれど。

 それ以前は外界からやってきた謎の生命体として認識されていたのだから、彼らを殺したとて、誘拐したとて、拷問をしたとて、犯したとして、犯人を動物愛護法以外で裁く事ができなかったのだ。


 肝心の愛護法も、そもそも彼らは愛護動物ですらないという理由で棄却された記録が残っている。


 とはいえ現在の冒険者が殺す事を許されているのは異形のみで、そこに亜人は含まれていない。


 だから彼が亜人の少女を殺そうという理由は、本当に個人的な感情なのである。


―――いや、現在は少女の言った通り俗も自身の部屋が汚れる事を心底嫌がって剣を下しているのだが。


「消えてくれ、俺の前から」


 袋詰めにして人目の付かない山奥で殺すという手段はまだ残っていたが、俗は脂汗とぼやける視界に何もかもが嫌になってそう言った。

 疲労もあっただろうし、何よりも家に帰って直ぐに鎮静剤入りの睡眠薬を飲んでいたのが大きい。


 剣も捨てて、代わりにポケットから取り出した精神薬を山と口腔に含む。そして瓶の酒で嚥下し、ソファに腰を落とした。


「消えてくれ、居なくなれ、頼むから。頼むから死んでくれ。殺させてくれ」


 世迷言のように延々と呟く中、だんだんと俗の意識が薄くなる。


「分かったわ、殺させてあげる」


 気が付けば少女は俗を覗き込む様に座っていた。

 布団から出てきた彼女はボロ切れをまとっただけの貧相な服装をしている。


 だが、その立ち姿は格好に違わずどこまでも高貴で、高潔で。ただ漠然と凛とした品位に包まれていた。

 

「だから、代わりに……亜人と人類を滅ぼす手伝いをして頂戴」


 しかし、俗は亜人ならまだしも、人類の滅亡など望んではいない。

 だから彼は微睡の狭間で小さく首を横に振り、目を閉じた。


 目が覚めたら少女が消えていますように。

 そう、一度は背いた筈の神に願いながら―――

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