異臭虫取り合戦
春雷
第1話
すべてのカブトムシ、クワガタムシが、どういうわけだかわからないが、臭くなった。地球環境が変化したせいだとか、色々説はあるようだが、結論としては謎だということらしい。
臭くなったのにも関わらず、少年たちのカブトクワガタ愛は衰えることなく、むしろ高まっているんじゃないかとさえ感じる。
俺の息子も休日になると、「父さん虫取り行こう行こう」とうるさい。家でゲームでもしてりゃいいのに、何でこんなクソ暑い中、臭い虫を捕らにゃならんのだ。
しかし俺も結局はいい父親だし、息子のことが好きだから、車を出して、公園に行き、臭い虫を息子と取りに行くのだ。家でゴロゴロしたいのにさ。
ウチの住んでいる地域は田舎でも都会でもない、何とも中途半端なところだ。だから少し郊外に行けば、こうして虫の取れる森のある、広い公園がある。世の虫取り少年少女にとっては、これほどいい環境はないだろう。虫取りオリンピックみたいなものがあれば、我が息子も将来有望だろうに。たぶん俺に似て、勉強はからっきしだろうからさ。
息子は、さっそく木に止まっているカブトムシを捕まえている。現在朝の5時。眠い。俺は息子からちょっと離れた場所で、彼を見守っている。煙草を吸おうと思ったが、禁煙していたことを思い出す。口が寂しいので、唇の皮を噛んで剥がす。少し血が出た。俺は何をやっているんだ?
父さーん、取れたよー、と言って息子がカブトムシ片手に駆け寄ってくる。ちょっと待て。そして彼は、そいつを俺の顔の前に持ってくる。
「くせええ!」
ゲホ、ゲホ、とむせる。臭い、臭すぎるぞ。牛乳を拭いた雑巾を七日間放置したみたいな臭い。いつからカブトムシはこんなに臭くなっちまったんだ。腐ってんじゃねえのか? カブトムシゾンビなんじゃないのこれ?
「哲郎、わかったから、ちょっと、父さんの鼻には近づけないでくれよな?」と息子に言う。
「えー、でも臭くないけどなあ」
「嘘だろ? どこが。臭さしかないよ、この虫には」
年食った人間しか臭さを感じないのか? 性根が腐った人間にしか感じられないとか。子供たちは純粋だからこの臭いに気づいてないのか。
いや、そんなことある?
通常、年齢を重ねれば重ねるほど、感覚は鈍くなっていくものなのに、虫の臭さだけはそれと逆行して、世間を知って目が濁っていくほど臭さを感じる。厳しすぎるだろ。
そんなことを考えていると、ある親子連れが近づいて来た。
「あ、瑞稀くん」と息子が言う。どうやら友達らしい。
瑞稀くんも根っからの虫取り少年らしく、すでに虫籠がパンパンだ。臭すぎる虫籠。昔は大量のカブトムシを見ると興奮したが、今や嫌悪感しかない。これが大人になるということか。
瑞稀くんから少し距離を取って立っているお父さんも、ハンカチで鼻を押さえている。洒落たメガネをかけた、仕事ができそうなお父さんだ。
チキショウ。
何だか腹が立って来たな。寝不足だし、臭いし、昨日俺は仕事ができなさすぎて、年下の上司にメチャクチャ怒られたし。
思わず、「勝負しましょう、瑞稀くんのお父さん」と言っていた。
「はい?」瑞稀くんのお父さんはもちろん、その場にいた全員がキョトンとしていた。
「俺はある仮説を立てたんですよ」と俺は言う。「子供たちはカブトムシを難なく取っている。でも大人たちはみな臭すぎて鼻を押さえている。この違いはどこからか。つまり、純粋であるかどうか、という点にあるのです。社会に出ていくとどうしたって汚れていくものです。もはや俺たちは純粋さからは程遠い存在。けれど、心のどこかに、あの頃の純粋な自分が埋まっているはずなんです。それを一緒に探しに行きませんか? つまり、カブトムシから臭さを感じなくなった時、俺たちは童心を取り戻すことができるんです。一緒に虫取り勝負しませんか? どちらが多くの虫を取れるか、どちらが先に臭さを感じなくなるのか」
瑞稀くんのお父さんは、状況をよく飲み込めていないようだったが、瑞稀くんが「いいじゃん、パパ、やってよ」という言葉を聞いてハッとし、もう後には引けないと悟ったらしい。
子供たちの手前、引くわけにはいかないからな。
瑞稀くんのお父さん、潤二さんは俺を真っ直ぐに見つめて、「いいでしょう」と言った。
話を聞くとやはり彼はIT企業の幹部で、要するに成功者らしい。万年平社員で薄給の俺とは大違いである。ならばより一層、ここで負けるわけにはいかない。
20分一本勝負。どれだけ多くのカブトムシ、クワガタムシを取れるか。網を使うのはなし。素手で取るものとする。
スタート、と哲郎が言って、勝負が始まった。
カブトムシは木にびっしりと張り付いている。手に取れる位置にいるので、それを手で取る。その瞬間、酸っぱいような苦いような臭いが鼻を突く。
「くっっっせええ!」
俺も潤二さんも叫んで、倒れ込み、のたうち回る。ゲロをさらに発酵させ腐らせたみたいな異臭。辛い。日曜の朝に嗅ぐべき臭いではない。
潤二さんはまだ倒れ込んでいる。
俺は立ち上がって、がしっとカブトムシを掴み、虫籠に入れていく。
負けられない、と思った。
潤二さんもそうだが、何より自分に負けたくない。
情けない姿を、息子に見せたくない。哲郎よ、親父は本当は情けない男だ。でも、と俺は言いたい。
かっこいい一面も確かにあるんだ。
鼻がもげそうな臭いに囲まれながら、俺は奮闘した。
結果は俺の負けだった。途中であまりの臭さに失神してしまったからだ。潤二さんが俺を病院まで連れて行こうとしたところで、俺は目覚めた。
「すみませんでした」と俺は潤二さんに謝った。二人は東屋にいる。俺は長椅子に寝転び、潤二さんは缶コーヒーを飲んでいた。
「いえ、久しぶりにこんな真剣勝負みたいなことをして、楽しかったですよ。泥臭いというか、青臭いというか、何というか。こういう経験は久しぶりです」
「虫が臭いだけですけどね」
彼は少し笑って、「でも先程述べられていた仮説、面白いなと思いましたよ。どうです、臭いは消えましたか?」
そう言われて、俺は起き上がって、テーブルに置いてある虫籠からカブトムシを取って、鼻に近づける。
「いや、やっぱり強烈な臭いですね」
と俺が言うと、彼は笑っていた。
俺は再び横になる。
それにしても、汗をびっしょりかいてしまった。汗臭くなっている。手からは強烈な異臭。何と、臭い大人になってしまったことか。でもまあ、今は仕方がない。俺は少しだけ笑った。
寝転んでいるので、空が見える。東屋で少し隠れているが、広い空だった。雲ひとつない快晴だった。空を見るのは久しぶりだという気がした。
異臭虫取り合戦 春雷 @syunrai3333
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